新たなる戦場へ
「……これ以上、この場に留まるのは得策ではありません」
シグベルが静かに告げた。確かに、いつ襲撃者の増援が来るか分からない。だが、崩れた道を放置するのも問題だった。私は少し迷いつつも、土属性の魔術式を編み上げる。
「大地よ、傷を癒せ」
穏やかな魔力が地面に浸透し、崩れた部分を最低限踏み固める。完璧ではないが、応急処置にはなるだろう。……スクロールに頼りすぎるのも、問題かもしれない。もう少し咄嗟の対応ができるよう魔術を磨かないと。
「これで少しは通りやすくなるはずです」
「しかし、馬車が動かせない以上、移動手段が……」
シグベルが言いかけたそのとき、不意に遠くから蹄の音が響く。また敵襲かと身構えるものの、現れたのはヒルダだった。彼女が乗る馬の鞍には、白いカーネーションの紋章がはっきりと刻まれている。
「……エルンスト家の馬?」
私がそう呟くと、馬から降りたヒルダが手綱を引きながら肯定した。
「先触れの後、エルンスト家の当主様が『なるべく早くロゼリア様と話したい』と……。恐らくこの状況も読んで、馬を貸してくださったのでしょうね」
「なるほど、気が利くわね」
私は馬の首筋を撫でながら、その意味を考えた。
わざわざ自分の家の馬を使わせるというのは、 ただの好意ではなく、何らかのメッセージだろう。
(彼らは、私を領主として正式に認めてくださるのかしら?)
確信は持てない。だが、少なくとも敵対的ではない。
それだけでも十分な前進だった。
「でもお怪我を……。一度屋敷に戻られた方がよろしいのでは?」
「手当はしていただいたし、大丈夫よ」
ヒルダの心配そうな顔に、私は今の姿を確認する。血が滲んだ包帯、解けた髪、一部が破れてしまったドレス。
大丈夫とは言ったものの、このまま行けば相手にどう映るだろう? みすぼらしい姿のままでは、領主としての威厳を欠くかもしれない。しかし、時間も惜しい……。どうするべきか悩んでいる内に、ヒルダが動いた。
「……では行く前に、少し整えましょう。羽織物もございます」
ヒルダはそう言って、迷いなく私の髪をまとめ直した。
乱れた髪を手際よく結い、服の襟元を整える。持ってきたマントを羽織れば破れたところは隠すことができた。
その間、私は何も言わず、ただ身を任せる。
(この程度で足りるかしら? いや、堂々と振る舞えばいいの)
「……まだ警戒は必要ですね。次の襲撃がないとも限りません、私も同行しましょう」
「ありがとうございます、シグベル様」
彼も長い髪を編み直し、汚れを払って神士の姿を取り戻した。
私たちがエルンスト家へ向かう準備を整えていると、ヒルダの背後に人影が見えた。二人の男が白いカーネーションの紋章が彫られた軽装の鎧に身を包んでいる。
「……ヒルダ、一緒に来たのは?」
「エルンスト家の護衛です。当主様が『念のために』と」
「念のため、ね……」
(私を守るため? それとも監視のため?)
疑念は残るものの、今は人手があるのはありがたい。私は護衛たちに負傷した御者と馬のことを頼むことにした。怪我人を放置して、自分だけエルンスト家へ向かうわけにはいかない。
「彼らを安全な場所まで運んでくれる?」
「承知しました、領主殿」
(領主殿、ね……。エルンスト家は、私をどう扱うつもりなのかしら)
護衛の態度は形式的なものに過ぎないのかもしれない。それでも、どこか引っかかるものを覚えながら、私は出発の準備を整えた。
私とヒルダは同じ馬に乗り、護衛たちは負傷した御者と馬を連れて別行動を取る。彼らが乗ってきた馬の一頭をシグベルが使い、もう一頭は護衛の一人が騎乗する。こうして一列に並び、エルンスト家へと向かうことになった。
馬の歩みに合わせて、傷口がじくじくと疼く。最初は鈍い痛みだったが、揺れが大きくなるたびに鋭く刺さるような感覚が走った。思わず息を詰め、無意識に傷の上へ手を添える。
「……大丈夫ですか?」
ヒルダが気遣わしげに振り返るが、私は小さく笑って見せた。
「問題ないわ」
嘘だ。だが、今は耐えるしかない。手綱を彼女に任せ、私は背後を警戒しながら進んだ。
馬に揺られながら進む中、街の喧騒が耳に届き始めた。普段の静かな石畳の道とは異なり、ざわついた声と馬車の音が混じる。揺れるたびに脇腹の傷が焼けるように痛んだ。それでも、顔には出せない。 私は傷の疼きを堪えながら、冷たい霧の向こうを覗き込んだ。
よく見ると、貴族の紋章が刻まれた馬車が何台も行き来している。白いカーネーションのエルンスト家のものだけでなく、他の家の紋章もあるようだ。衛兵の姿も多く、市民達が身を縮めてそそくさと通り過ぎていった。
「何が起こっているのかしら……」
私がそう呟くと、ヒルダは「エルンスト家周辺で何か動きがあるのかもしれません」と答えた。
「ロゼリア様、怪我は大丈夫ですか? 少し急ぎますが、無理はなさりませんよう」
彼女は私を気遣いながら、手綱を握る手に力をこめ歩みを早める。
「アルヴィン家の影響の可能性もあります。警戒を」
剣に手を伸ばすシグベルの言葉に辺りを見渡した。商人達が言葉を交わし、早々と店を閉めているのが見える。彼らの話す内容までは聞こえないが、それらがざわめきとなって街を包んでいた。路地へ消える黒い影が目に入り心臓が跳ねる。私は思わず鴉の紋章を握りしめた。
この動きがただの偶然とは思えなかった。敵が動いているなら、こちらも覚悟を決めなくては……。
「エルンスト家まで必ず無事に送り届けます。ご安心ください」
背中を守る護衛の言葉が今は心強い。私は一度息を吐き、気合を入れなおしてエルンスト家へと向かった。
しばらく馬に揺られていると、エルンスト家の屋敷が見えてきた。重厚な門の前には既に数台の馬車が停まり、衛兵たちが厳めしい表情で警戒にあたっている。門番が護衛の紋章を確認すると、すぐに門を開いた。傷の疼きが鋭くなり、震えそうになる肩にそっとヒルダが手を添えた。その温もりが私を現実に引き戻した。この先は私の戦場だ。背筋を伸ばす瞬間、力を込めて痛みを堪えた。
「ヒルダとシグベル様は控えていてください」
「お二方はどうぞこちらへ」
案内が分かれる瞬間、私は二人と視線を合わせしっかりと頷く。私達の間に、最早余計な言葉は必要なかった。
私はこれから一人の領主として、初めて他の貴族と顔を合わせるのだ。ここでの立ち振る舞いが、今後の関係を左右することになるだろう。
「ロゼリア・ケイ・ライオネル様、ご到着です」
護衛の一人が声を上げる。広間の扉がゆっくりと開く。煌びやかな装飾の向こうで、複数の視線が一斉にこちらを射抜いた。見慣れぬ顔ばかりだが、彼らの装いと立ち振る舞いから、それぞれが相応の地位を持つ者だと分かる。馬車の数から予想はしていたが、やはり――これは一対一の対談ではない。
私が中へ足を踏み入れると、一瞬、空気が張り詰めた。この場に流れる空気が、私の立場を端的に物語っている。『余所者』。それが彼らの本音なのだろう。
そう感じる冷ややかな視線もあれば、好奇の目もある。誰もすぐには口を開かず、まずは私の出方を窺うようだった。
最初に動いたのは、一人の男性だった。
五十代半ばの端正な顔立ち。鋭い灰色の瞳がこちらを見据え、彼はゆっくりと歩み寄ってきた。
「これは、ロゼリア・ケイ・ライオネル様。ようこそ、我がエルンスト家へ」
穏やかな口調とは裏腹に、その声には試すような響きがあった。
(彼が当主……ルートヴィヒ・ド・エルンスト子爵)
「ご対応いただき、感謝いたします」
私は一礼し、静かに応じる。他の貴族たちがどんな反応をするか注意を払いながら。
「いや、我々の方こそ、貴女に直接お目にかかれるのを楽しみにしておりました。領主となられた貴女がどのようなお方か、まだ知る機会がありませんでしたので」
彼の言葉には、慎重に私を見極めようとする意図が滲んでいた。周囲の貴族たちの視線も、それを裏付けている。
(領主としての資質を問われているのね)
私は静かに微笑み、ゆったりとした動作で視線を彼へ向けた。
「確かに、私もまだ皆様と親しく言葉を交わす機会に恵まれておりません。けれど、こうして直接お目にかかれたのですから、今日をその良い機会とさせていただきたいと思います」
私はあくまで冷静に、穏やかに言葉を選ぶ。不用意に敵意を生むつもりはないが、弱みを見せるつもりもない。
「……ほう」
エルンスト子爵が私の言葉を吟味するように目を細めた。ふと、指輪を弄びながら私を値踏みするような男の視線を感じた。逆に、緊張した様子を隠さない年若い貴族もいる。それぞれが異なる思惑を抱えていることが、彼らの仕草からも伝わってきた。
「領主殿は、我々との関係をどのようにお考えですかな?」
この問いには慎重な答えが求められる。
「領主と貴族の関係は、互いの信頼があってこそ成り立つもの。私がこの都市を治める以上、皆様との協力を欠かすことはできません。ゆえに、私は皆様の意見に耳を傾け、共にこのダイダリーをより良いものにしていきたいと考えています」
明確に「協力を求める」姿勢を示しつつも、「支配する」という言葉はあえて使わない。
(彼らはまだ私を試している。けれど、敵対ではなく協調の可能性を探っている様子ね)
「……領主殿の言葉、実に理に適っていますな」
そう言いながら、エルンスト子爵はわずかに目を細めた。その表情から何を考えているのか、読み取るのは難しい。
ただ、最初の印象としては悪くないだろう。私は確かな手応えを感じていた。
「では、改めて我々からも名乗らせていただきましょう」
エルンスト子爵の言葉が広間に静かに響く。誰が最初に名乗るのか——貴族たちの視線が交差する一瞬の間。私はわずかに視線を巡らせながら、彼らの動きを観察する。
「ご配慮に感謝いたします。領主としてまだ至らぬ点もあるかと存じますが、本日はどうぞよろしくお願いいたします」
ズキズキと痛む体を押さえ、丁寧に一礼した。社交の場は久しぶりだが、上手くできているだろうか。軽く貴族達の反応を窺うも、特に反応はない。
「こちらこそよろしくお願いいたします。ご存知かもしれませんが、エルンスト家当主、ルートヴィヒ・ド・エルンストです」
「ようやくお会いできて光栄です」
ルーディックの前妻、ヴィオラ様の父親。一度いただいた手紙にはこちらを気遣う文言があったが、純粋な優しさとは限らない。王都との繋がりもあると聞くし、今回の話し合いでその辺りを探れればいいのだが。
「コンラート・ダ・ヴェルナーです。本日は当主の代理として参りました。都市の財政に携わっております」
「貴家の支えなくしてダイダリーは成り立ちません。今後とも、お力添えいただけることを願っております」
ヴェルナー子爵家からは長子が来ている。私の言葉に彼は一瞬目を伏せ、小さく頷いた。当主が閉じこもりがちになっているという侍女の噂は本当らしい。やはりヴェルナー家にも何かあるだろう。後々調べたいとは思っていたので、ここで出会えたのは運が良かった。
「ジュリアーノ・サン・ディートリヒと申します。貴族としては新興の部類に入りますが、よろしくお願いいたします」
「お話は聞いております。どうぞ末永くお付き合いいただけるよう、よろしくお願いいたします」
指輪に触れる癖があるのがディートリヒ男爵。今も指輪を弄りながら、軽く笑みを浮かべていた。その表情は探るようでもあり、何かを計算しているようにも見える。
革命派の流れを汲んでいると聞いたが、私をどう見ているのだろうか。彼がいるなら、私はバランスを取った発言を求められるだろう。あまりに保守的だと、彼の反感を買う可能性がある。
一通りの紹介を終えたところで、場にはひとつの安定した空気が生まれていた。最初に感じた刺々しさは幾分か和らぎ、それぞれが私をどう見るべきかを計り始めているのが伝わる。
召使いが静かに動き出し、広間の奥に設えられた長椅子へと案内された。銀の盆に乗せられた香り高い茶が運ばれ、陶器がふれあうかすかな音が響く。
「さて、ロゼリア様。互いの顔合わせも済んだところで、どうぞお掛けください」
「ええ、ありがとうございます」
エルンスト子爵の声掛けに従い、椅子へと腰かける。座ったことで一瞬気が緩みそうになったが、本番はここからだ。彼らは私を試しているし、私もまた彼らを見極めなければならない。今のところ、互いに探り合いの段階だ。
静かに茶を口に含む。これから始まる話し合いの行方を決めるのは、私の言葉なのだ。