覚悟の扉
石畳の階段を下りるごとに、冷えた空気と湿った匂いが肌にまとわりつく。地下へと続く細い通路にはかすかなランプの光が揺れ、足音が吸い込まれるように消えていった。
カツン、と最後の一段を降りると途端にざわめきが耳を打つ。目の前に、地上とは隔絶された空間が現れた。
ここが『影の市』——ダイダリーの一部でありながら全く別の理が支配する、闇取引の場。
壁に貼られた剥がれかけの紙には、流れるような筆跡で何かが書かれている。通り過ぎる男がローブの下に剣を隠しているのが見えた。そこかしこで売買の声が飛び交い、粗末な木箱の上には、合法とは言い難い品々が並べられている。異国の薬草、血がこびりついた短剣、呪いを込めたという古びた人形。どれも金さえ払えば手に入るのだ。
私は唾をのみ込む。表向きの市場とは違う、底知れぬ熱と悪意が渦巻く場所。ふと隣を見ると、ルカは平然とした顔で歩いていた。
「前より賑わってるみたいですね」
気楽そうな口調だが、目は決して笑っていない。私も小さく頷くと、人の波を縫うように進みながら、目的を果たすための手がかりを探した。
最初に目についたのは、薬を売る商人の一角だった。
私はルーディックの部屋で見つけたソルミナの瓶を思い出しながら、さりげなく品を眺める。乾燥した薬草、瓶詰めの液体、怪しげな粉末。ギフティオなら何か分かるかもしれないが、私には何に使うのか見当もつかない。ただその中でも「効能については店主まで」と札のついた小瓶が気にかかった。ラベルこそ違うが、ソルミナによく似ているように見える。
「この薬は?」
声をかけると、中年の脂ぎった商人がにやりと笑った。
「おっと、それは珍品だよ。ある貴族が特別に求めていた品でね……」
「特別?」
私が聞き返すと、彼が目を細める。
「ああ、前の話だよ。今はもう来ない男さ」
その言葉に胸の奥がざわついた。彼は間違いなくルーディックのことを知っている。しかし、それ以上に「今はもう来ない」という言葉が引っかかった。彼はここで何を求め、そして何を知ったのか。
さらに詳しく聞き出そうとしたその時、ヒルダが軽く私の腕を引いた。
「ロゼリア様……」
その声音に緊張が滲んでいる。視線の先を追うと、見慣れた姿があった。長身の男が、店先で何かを買い求めていた。銀の髪、冷たい青の瞳。見間違えるわけがない、シグベルだ。
心臓が強く跳ねる。なぜ、彼がここに?
彼は普段とは違う黒いローブを身にまとい、周囲を警戒しながら店主と小声で話していた。まるで、誰にも知られてはならないことを取引しているように見える。
「何をしているの……?」
私は息を潜める。シグベルの手元を見ると、小さな革袋を受け取るところだった。その中身が何かはわからない。しかし、彼の真剣な表情からして、ただの買い物ではないのは明らかだった。
「お知合いですか? 近づきます?」
ルカが囁いたが、私は首を振る。今は調査を優先すべきだ。だが、シグベルに気づかれるわけにはいかない。気を抜けば、すぐに彼の冷たい視線に捕らえられそうな気がする。
商人に向き直ると、彼はじとりとした目でこちらを見ていた。
「お嬢さん、さっきからずいぶんと興味深そうだねぇ」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。全て観察されている。一挙手一投足、油断できない。私は平静を装いながら、小瓶を指さした。
「こちら、どんな効能が?」
「お嬢さんには無縁かもしれねぇが……『元気になる薬』とだけ言っておこうかね。なぁに、飲みすぎなければ怖い薬じゃないよ。買うかい?」
探るような視線が肌に突き刺さる。私の目的を疑われるわけにはいかない。迷う素振りを見せずに、小さく頷いた。
「一瓶いただくわ」
商人が薄く笑い、値段を告げる。
「お嬢さんのような上品なお客には、特別価格ってことでね。銀貨十五枚だ」
……高い。影の市での取引に詳しくなくとも、足元を見られているのは分かった。ここは素直に払うべきか、交渉するべきか。悩んでいると、横から声がかかる。
「そりゃまたずいぶんと、ふっかけてくるね」
そう言ったのはルカだった。彼はわずかに片眉を上げ、気だるげな口調で続ける。
「銀貨十五? その薬がそんな値段するなら、隣の店のは金貨一枚でも安いくらいだろうね」
商人の顔がわずかに強張った。
「へぇ……お兄さん、ここの相場をご存じで?」
「まさか、知らないとでも?」
ルカは肩をすくめてみせる。
「それにこの手の品は保存が効かない。古い在庫を抱えてるなら、そろそろ処分価格で売らないと次の入荷が遠のくんじゃないの?」
商人の目が鋭く細まる。
「……随分と詳しいじゃねぇか」
「そっちこそ、ずいぶんと客を舐めてるね。銀貨八枚、それで手を打とう」
「馬鹿言うな、こんなもん銀貨十三はもらわねぇと……」
「なら別の店を回るまで。だが、この機会を逃したら、次は俺じゃなく別の誰かが来るぜ? そいつがもっと厄介な相手だったら、どうする?」
静かな脅しだった。商人はしばらく睨むようにルカを見ていたが、やがて舌打ちする。
「……仕方ねぇな。銀貨十枚だ。それ以上は勘弁しな」
「最初からそう言えばいいんだ」
ルカは涼しい顔で銀貨を取り出し、薬を受け取る。そのやり取りを見ていた私は、彼がこの場所に慣れていることを改めて実感した。商人も、軽く肩をすくめながら言う。
「……お兄さん、なかなかのやり手だな」
「ありがたいね。その分、変な物を掴ませるなよ?」
ルカは軽く笑って見せたが、その目は笑っていなかった。商人は渋々銀貨を受け取り、小瓶を私たちに渡した。
「……いい取引だったよ、お兄さん。まったく、儲けにならねぇ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、その目には興味が混じっている。どうやらルカのことを『ここを知っている人間』として見始めたらしい。それを見逃さず、ルカが軽く肩をすくめる。
「ま、こっちもお前さんの手持ちだけで満足する気はないからな」
「……ほう?」
「この薬、悪くないがな。もっと強いのはないのか?」
商人の目が細くなった。
「……お嬢さんみたいな上品な客が、そんなもんを求めるとはね」
「私じゃないわ」
私が即座に否定すると、商人はクツクツと笑った。
「そうかい、そりゃ結構。だが、もっと強いのが欲しいなら……ここじゃねぇな」
そう言って、彼は影の市の奥へと視線を向ける。
「ここは入り口みてぇなもんさ。本物の品を扱ってるのは、奥の連中だ。」
「例えば?」
ルカがさらりと聞くと、商人は低く笑った。
「……知ってるだろ? クレイヴの名を」
私は息をのんだ。その名前を、ここで聞くとは。
「やはり、ここにいるの?」
私が問いかけると、商人は慎重な目でこちらを見た。
「さぁね。……だが、あんたらみたいな客なら、奥に行きゃそれなりの情報が手に入るかもな。ほら、これを持っていけ」
商人はポケットから小さな金属片を取り出し、私の手に押しつける。薄い板状のそれには、削れかけた刻印が刻まれていた。
「『薬を探してる』って言や、通してくれるさ。……ま、引き返すなら今のうちだぜ?」
まるで警告するような口調。それでも、既に進む道を決めていた。ここまで来て引き返すわけにはいかない。私は金属片を握りしめ、ルカと目を合わせる。
「行きましょう」
「私のそばを離れないでくださいね、ロゼリア様」
「ええ、流石にここではぐれるのは怖いわ」
ヒルダの言葉に頷き、手を握った。そんな私達を見てルカは微かに笑いながら歩き出した。
影の市の奥に進むにつれ、空気はさらに濃密になっていく。臭いも違った。香のようなものが焚かれているのか、鼻をくすぐる甘い気配に混じって、どこか血のような鉄臭さが漂っている。金属片の出番はまだ先のようだったが、警戒を怠るつもりはない。
ルカの迷いのない足取りに倣いながら進んでいると、競りが行われている一角が目に入った。周囲の空気はざわめき、興奮と熱気が渦巻いている。そこでは表に出せない、『曰くつき』の品々が扱われていた。
「次は、呪われた鏡だ! 贈られた奥方を殺し、引き取った娘の命をも奪ったという一品!」
競売人の声に、ざわめきが広がる。笑い声、ひそひそとした会話、時折混じる鋭い口笛。拍手と歓声が湧き上がり、どこか熱に浮かされたような異様な空気が生まれていた。
私は足を止めた。ルーディックは『呪いの品』について調べていた。ヴィオラ様を呪った首飾りも、ここに流れ着いたものだったのかもしれない。
「呪いの品、ですか……もしやヴィオラ様の首飾りも、こういったところで……」
「入札しちゃいます?」
深刻なヒルダの呟きとは対照的に、ルカが冗談めかして言う。私は少し考えた。競りに参加するのはリスクが高すぎる。だが、情報は欲しい。
「誰が買うのかを見ておきたいわ」
競売が進み、やがてその鏡を落札したのは、フードを深くかぶった男だった。彼の動きにはどこか慎重なものがあった。私はルカに目配せする。
「後を追います」
「それは少々危険では?」
ヒルダの言葉ももっともだった。男が向かうのはさらに奥、一度踏み込めば、容易には戻ってこられないだろう場所。しかし、それは薬を求めても同じことだ。
覚悟を決めて歩き出そうとしたその瞬間——銀の髪と黒いローブが、視界を横切った。
「シグベル様……?」
シグベルはゆっくりとした足取りで、まるで迷いなく男の後をついていく。その横顔は静かで、しかし冷たく研ぎ澄まされていた。私は無意識に息を飲む。彼は一体、何をしようとしているの?
追うべきか、それとも予定通りに薬の線から調査を進めるべきか。影の市では次々に選択が迫られ、ゆっくり考えている暇もない。わずかな迷いが命取りになる。今だって、すでに男とシグベルの影は闇に溶け、見失ってしまった。
(――後で会えたら、彼から話を聞こう。)
そのためには、私も情報を手に入れ、無事に外へ戻らなくてはならない。貰った金属片を握りしめる。その冷たさが、熱を帯びそうになる思考を冷やしてくれる気がした。
気がかりを振り払ってさらに奥へと進む。通路は狭くなり、空気は一層淀んでいく。低くくぐもった声が交わされ、影の中で目が光る。ここはもう単なる市場ではない。一歩先を進んでいたルカが、不意に立ち止まった。
「ここから先は、ただの買い物じゃ済まなくなります」
冗談めかした口調だが、その声音は笑っていない。ゆっくりと振り向き、静かに続けた。
「何かを知りたければ、それなりの代価が必要ですよ」
私は前を見据え、わずかに息を整える。
「覚悟はできてるわ」
それだけ答えると、ルカが小さく肩をすくめる。
「なら、ついてきてください」
たどり着いたのは、薄暗い屋台の一角だった。薬草の香りに混じり、焦げた何かの匂いが漂う。老いた薬売りが細い指で小瓶を撫でながら、私を見つめた。
「坊やに言われて連れてきたのは、この娘かい」
「ご期待に添えるといいのですが」
ルカの態度は飄々としている。だが、その言葉にはどこか含みがある。
(……坊やに言われて?)
一瞬、彼の横顔を盗み見るが、表情は崩れていない。影の市にいる彼は、表で見るルカと少し違う気がした。
「探している薬があるの。似たものを見かけたんだけど……」
慎重に言葉を選び、小瓶を取り出す。ソルミナによく似た、買ったばかりの品。薬売りは瓶を一瞥し、口角を上げた。
「ほう……こりゃあ珍しいもんを。お嬢さん、これがどこで作られてるか知ってるのかい?」
「……知らないわ」
薄く笑うと、薬売りは机を指でコツコツと叩く。
「知りたいなら、見せてやるよ」
私たちは怪しげな薬売りに導かれ、さらに奥へと進んだ。もはや通路には店らしい店はなく、壁際で何かを売る者、ただ様子をうかがう者たちが気配だけを漂わせている。やがて、一つの扉の前で薬売りが立ち止まった。
「お嬢さん、ここから先は『普通の客』は入れない」
立ちはだかる壁のような言葉。
「……条件は?」
薬売りはゆっくりと笑った。
「手ぶらじゃ話にならねぇ。何か証を持ってこい」
「証?」
「向こうも取引する相手を選ぶんだ。見ず知らずの人間と話す理由はない」
証――取引相手として認めさせる何か。一瞬、ルカが動くかと思った。だが彼は何も言わず、こちらの様子を見守っている。その沈黙が、私に選択を委ねているようだった。
(彼は……何かを知っている?)
私はルカを気にしながらも金属片を取り出した。削れかけた刻印は、薄暗いこの場ではよく見えない。しかし、薬売りはそれを指でなぞりながら「ふぅん?」と興味深げな声を上げる。最初は鼻で笑っていたが、刻印を何度かなぞるうちに表情が変わった。
「……なるほどね」
何が「なるほど」なのか、問いただしたい。だが、それよりも次に進むための言葉の方が重要だ。商人が言っていたのは確か――
「薬を探しているの。とびきり危険で……強力なものをね」
私はにこりと笑って見せた。久しく使っていなかった社交用の笑み。ちゃんと笑えているだろうか。引きつってはいないだろうか。少し心配になりかけたところで、薬売りが楽しげに笑った。
「色恋かい? くくっ、女は怖いねぇ……」
「それで、案内してもらえるのかしら」
薬売りは「十分だ」と言いながら、ゆっくりと扉を開く。その向こうには、深い闇が広がっていた。足元に広がる影が、果てのない奈落のように思えた。震えそうになる手を強く握る。ここまで来たのなら、引き返す道はない。自分にそう言い聞かせながら、私は奥へと続く闇を睨み、一歩を踏み出した。
「ここから無事に戻れる保証はないぜ、お嬢さん。せいぜい気を付けることだ……」
背後から投げかけられる警告を振り返らずに受け止める。踏み出した足は、迷いなく影の中へと消えた。
評価や感想などお待ちしております。