影への第一歩(1)
街は夕暮れに染まりつつあった。石畳を踏みしめる靴音と、どこかの露店から漂う焼き菓子の甘い香り。犯罪者の住居となっている地区とは違う、柔らかな空気。そんな中を私は迷いなく歩く。遠回りする必要はないし、余計な寄り道をする時間もなかった。
目指すのは、クレプス商会。ダイダリーで最も大きな商会である。表向きは医薬品や日用品を取り扱うが、裏ではより黒い商売にも手を染めているらしい。ルーディックが生前、商会の動きを調べていたことを思えば、それもただの噂ではないのだろう。
高い塀に囲まれた敷地に入り、立派な門をくぐる。商会の受付へと足を踏み入れると、豪奢なシャンデリアが暗がりの多いダイダリーには不釣り合いなほどに輝いていた。
「領主様が直々にお越しとは、これはまた珍しい」
応対に出たのは、商会の管理を任されているらしい中年の男だった。しなやかな身のこなしで一礼しながらも、彼の目は値踏みするようにこちらを観察している。少しルカに似たタイプだ。こういう男こそ信用ならない。
「セイラー・ロスという商人の取引について、少し話を聞きたくて」
私がそう口に出すと、男の眉がピクリと動いた。すっと目を細めながら「セイラー、ですか」と名を繰り返す。
「懐かしい名前です」
「そんなに前ではないはずなのですが……」
「商人にとっては昔のことですよ。古い話にかかずらっているほど暇ではないのです」
男はそう言いながらも、わざとらしく肩をすくめる。その仕草には、まだ話すつもりがあるという含みがあった。
「では、今の話をしましょうか。セイラー・ロスは、もうこちらでは見かけません。取引も、正式にはすべて打ち切られています」
「正式には?」
私が問い返すと、男は小さく笑った。
「どこでどうしているのか、我々には関知しないことになっています。しかし、彼ほどの男がそう簡単に消えるわけがないでしょう?」
「なるほど。では、セイラーの取り扱っていた品は?」
「主に薬品関係です。しかし、彼の商売はそれだけではなかった。どこから仕入れているのか、我々にもわからない貴重な品々を持ち込むことがあったのですよ。領主様ならご存知でしょう?」
ソルミナ。それに類する特殊な薬物……呪いの首飾り。ロゼリアの脳裏に、ルーディックが残した研究の数々がよぎる。
「では、その『貴重な品々』の流れも途絶えたのですか?」
「どうでしょう?」男は意味深に微笑んだ。「流れは絶えません。ただ、顔ぶれが変わるだけです」
つまり、セイラーの影はまだこの都市に残っている。名前を変え、場所を変え、そして……どこかで取引を続けているのだ。私はそれを知らなければならない。知らなければ、この都市を守ることもできないのだから。
「彼が表舞台から姿を消したのなら、今どこで活動しているのかご存じない?」
私が探るように問いかけると、管理人はゆっくりと肩をすくめた。相変わらず目は笑っていない。
「もし今も活動しているとすれば、そうですね……」
男は指先でカウンターの端を軽く叩きながら、わざとらしく間を置く。考えているふりをしているのか、それとも私の反応を窺っているのか。どちらにせよ、はぐらかされるのは癪だった。
「……ああいう人間が行き着く場所といえば決まっています」
「闇市、ですか」
私が核心を突くと、管理人は薄く笑った。
「おや、領主様はお詳しい。いえ、もちろん証拠があるわけではありませんよ? ただ、あそこは流れ者の集まる場所ですから、セイラーほどの商才を持った男ならば、うまく潜り込んでいてもおかしくはない」
それはすなわち、彼が今も闇市場に関与している可能性が高い、ということだろう。表向きの活動を止めたのは、より暗い場所での取引に専念するためか――それとも、何かしらの理由で姿を隠さざるを得なかったのか。
「なるほど。では、彼がかつて扱っていた品々――特に貴族向けのものは、今は誰が扱っているのでしょう?」
私は言葉を選びながら続けた。セイラーが得意としていたのは、貴族相手の珍品や、医師にしか扱えないような特殊な薬品類。もし彼がいなくなったのなら、その市場には新たな誰かが入り込んでいるはずだ。
「良い質問です」
管理人はロゼリアを一瞥し、ニヤリと笑う。そして、まるで楽しむように言葉を紡いだ。
「ですが、それは実際に行けば分かることでは?」
遠回しながらも、それは十分な答えだった。やはりすべてを知るには、あの暗い市場に足を踏み入れるしかないということだ。
私は静かに息を吐いた。
(結局、そこに行くしかない、ということね)
しかし無策で行くにはリスクが高過ぎる。ヒルダがいるとは言え、女二人で踏み込むにはあまりにも怪しく、危険だ。
私が考えを巡らせながら商会から出ようとすると、背後から声がかけられた。
「おや? 領主様がこんなところで悪巧み? ……なんてね。僕に会いに来てくださったんですか?」
本心を窺わせない軽妙な語り口。そこにいたのはルカだった。驚いたことは顔に出さないようにしながら言葉を返す。
「……聞いていたのね。最初からここに?」
思えば『連絡を取るなら商会に』と言ったのは彼だ。私が来ることを見越して待っていたとしてもおかしくはない。
「さて、僕は今ここに来たばかり……ってことにしましょうか。それとも、もうしばらく前からいた方が都合が良いですか? お好きな方をお選びください」
そうだ、彼なら闇市についても知っているはずだ。完全に信用するわけではないが、利用できるかもしれない。そう思いついた私は、思い切って彼に誘いをかけた。
「前からいてくれると話が早くて助かるわね。闇市について、あなたの知っていることを教えてくださる?」
「そんな無粋な名前で呼ばないで、領主様。僕らはあそこを『影の市』と呼びます」
声のトーンが一段下がった。冗談めかして口元に指を当てるが、その目は一瞬鋭く光る。すぐ笑みに隠れてしまったが、もしかするとそこは、彼にとって特別な場所なのかもしれなかった。
「それで、闇市については――」
「影の市」
「影の市について、聞かせてほしいの」
「よろしい。うーん、でも聞くだけじゃ味気ないですよ。百聞は一見にしかず、なんてね?」
そんな予感を裏切るようにルカの言葉が軽くなる。やはり、どんなに危険でも行かなくてはならないようだ。護衛を連れていきたいところだが、衛兵では闇市から浮いてしまうだろう。連絡だけは入れておくが、ライルもオリバーも今回は頼れそうにない。
「分かったわ。案内して」
「ロゼリア様!」
ヒルダに心配と迷惑をかけるのは分かっていたが、もう引き下がれない。こちらを見るルカはそんな迷いもお見通しと言わんばかりに微笑んでいる。そちらが私を利用する気なら、私だって利用してやる――そんな思いで、影の市への一歩を踏み出した。
「ちょっと待ってください、ロゼリア様。まさかその格好で行くおつもりですか?」
覚悟を決めた矢先に水を差され、思わず眉をひそめる。
「どういう意味かしら」
「どういうも何も、見てくださいよ。上等な生地に、貴族特有の仕立て、さらに身のこなしまで……ああ、これはもう『私は領主です』って名札を下げて歩いているようなものですね」
「よくお似合いではありませんか?」
「影の市にはお似合いではないですね」
ルカの返しにヒルダのフォローが虚しく響いた。彼は大きく溜息をつき、「まずは服屋です」と歩き出してしまった。
「髪も解きましょう、シンプルな三つ編みにしますか」
「ヒルダ、お願いできる?」
「かしこまりました」
連れてこられた服屋の品々は見慣れないデザインばかりだった。その中からルカが迷わず手に取ったのは、茶色いだぶだぶのローブ。フード付きでポケットが多く、埃っぽい上に妙な臭いが染みついている。
「これなら動きやすいんじゃないですか? ポケットに金でも詰めて、商人っぽく見せれば完璧」
「も、もしかしてこれ、人の着古しなの……?」
信じられない。手触りも悪いし、人の汗と泥と……得体のしれない臭いの混ざったものが、服? これを私が着るの?
戸惑う私より、ヒルダの反応の方が早かった。
「不衛生ですし、ロゼリア様にこんな粗い布は合いません!」
「影の市じゃこれが正解なんですよ。そのドレスじゃ走れないでしょ? 我慢してくださいよ」
「いえ、やはりこんな服をロゼリア様に着せるわけには……!」
そう言ったヒルダが困惑する店員を押しやり持ってきたのは淡いピンクのドレス。ちょっと少女趣味過ぎるし、何より目立ってしまうだろう。
「ロゼリア様はダイダリーに来られてから喪服ばかり……こういう明るい色を着られれば気分も晴れるかと」
「え、ええ、こういうのも素敵ね。でも今は違うと思うわ」
「あ、あの……よろしければ、こちらはいかがですか?」
私達三人のやり取りに狼狽えていた店員が、恐る恐る服とコートを持ってきた。平民でも手に取れる素材だが、目の詰まった上質なものだ。くすんだ緑の色合いは落ち着いており、シルエットも動きやすいようゆったりしている。シンプルなロングコートは繊細な仕立てを隠すのにも丁度よかった。
私はふと、屋敷で見つけたルーディックの服を思い出す。平民そのもの服に古びた靴。あれが影の市に出かける時の彼の正装だったのなら……彼は影の市でどう見られていたのだろう。薬や情報を得るために粗末な服に身を包んで、望んだものは手に入ったのだろうか。それもまた、影の市で確かめるべきことのひとつだ。
「……これにするわ」
「うーん、まだまだ貴族らしい気がしますけどねぇ」
「領主に見えなければいいのよ。影の市に興味を持った危うい貴族の娘とそのお付きの従者。情報を集めるには良いと思わない?」
「……まあ、浮かれた貴族の娘ってのも確かに悪くないですね。金も落としそうですし。でもせめてコートの裾はもう少し汚したほうがいいんじゃないですか?」
ルカが納得してくれたので、私は少し多めにお金を払って店員に礼を言った。すっかり恐縮されてしまったが、迷惑料だと思って受け取ってほしい。
服屋を出た私は、ヒルダとルカを連れて歩き出した。ロングコートが埃っぽい風に揺れ、フードが顔を隠してくれる。「これで本当に大丈夫かしら?」と呟くと、ルカが笑った。
「大丈夫じゃないですか? 影の市じゃお金がすべてだ。さあ、行きましょう」
ヒルダが私の背に手を添え、「お気を付けて」と小さく言う。上層区域の石畳は静かで、商会や貴族の屋敷が並ぶ通りは、まだ夕暮れの穏やかさに包まれていた。だが、これから向かう先は全く違う世界だ。ごくりと唾を飲み込み、私は犯罪者達の住む区域に向かった。
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