医師レインの診察(5)
私は首飾りをじっと見つめる。光を受けて柔らかく輝く宝石。しかし、その奥底にはどこか暗い影が潜んでいるように見えた。歪んだ神の文様を指先でそっとなぞると、ひやりとした冷たさが肌に残る。
――何かがおかしい。
突然、背筋に寒気が走った。まるで誰かに見られているような感覚。いや、それどころではない。この首飾りが、私を見つめている。
「ロゼリア様!」
鋭い声が静寂を切り裂いた。
扉が勢いよく開き、シグベルが駆け込んでくる。今の彼に普段の冷静さはない。その表情と声は、強い怒りと警戒心に満ちていた。
「すぐにそれを外してください」
彼の青い瞳が、まっすぐ私の首元を射抜く。
「……え?」
反射的に手を伸ばし、自分の首元を触れる。そこには――確かに、さっきまで手にしていたはずの首飾りが、何の前触れもなく掛かっていた。
「……え? ど、どうして……!?」
私は着けた覚えなどない。それなのに、確かにそこにある。首飾りは心臓の鼓動に合わせるように、静かに淡い光を放っていた。
「…………っ!」
カーラも息を呑み、目を丸くする。シグベルは言葉を発する間も惜しむように素早く歩み寄ると、乱暴とも思えるほどの勢いで首飾りを外した。彼らしくない、と私は混乱したままの頭でそんなことを考える。
シグベルの指がそれを握りしめた瞬間、バチッ! と空気が弾けた。紫色の閃光が奔る。それを握り潰すように力をこめ、彼はそのままパキリと首飾りを壊してしまった。
(えっ、素手で……!?)
絶対にそれどころではないのにシグベルから目が離せない。バクバクとうるさい心臓を押さえ、私は恐る恐る口を開いた。
「い、今のは一体?」
「呪いです。それも特別悪質な、ね」
「呪い……」
シグベルが首飾りだった物の残骸をテーブルに置く。完全に壊れたと思ったのに、宝石とそれを囲む歪んだ神の文様はしっかりと残っていた。
「……! この宝石、魅了の魔術がかかってるわ。どうして気付かなかったのかしら」
私は思わず自問する。魔術の扱いには心得があり、普通ならば宝石に施された魔力の流れを感知できたはずだ。しかし、この首飾りにはそれを感じさせる不自然な魔力の痕跡はなかった。シグベルが指で宝石の表面をなぞる。
「この魅了の魔術は極めて微弱に調整されているようです。持ち主に強制的な影響を与えるものではなく、自然と惹かれるように作用する程度でしょう」
「なるほど……確かに、強烈な魅了であればすぐに違和感を覚えるでしょうね。身に着けさせるには不向き、ということですか」
私は納得するように呟く。シグベルも頷き、「それに、」と首飾りの残骸を指し示す。
「首飾りの意匠そのものが魔術の痕跡を隠すためのものでした。これを作った人間は、魔術も呪いも隠す術に長けた優れた術師でしょう」
「優れた芸術家でもありますね。……才能の使い道は、間違ってるけれど」
「ええ。これは人を呪うためだけに作られたもの。歪められた神の文様は、身に着けた者の体を弱らせ、やがては死に至らしめる……」
シグベルの言葉にカーラが息を呑んだ。後からやってきたヒルダも、状況を把握し首飾りを睨んでいる。
「つまり、ヴィオラ様は……この呪いのせいで……?」
震える声でカーラが言う。シグベルは短く頷いた。
「可能性は高いでしょう。この文様は強い悪意によって刻まれています。神に詳しい者が見れば、すぐに異常に気付くはずです。しかし、そうでない者が持てば……知らぬ間に蝕まれていく」
知らぬ間に蝕まれる――その言葉の重みが、ひしひしと胸にのしかかった。それを一瞬でも身に着けてしまったことが酷く恐ろしく感じる。ジグベルが壊してくれなかったら、気付かないまま着けていたのかもしれない。そしてそのまま、ヴィオラ様のように……。
(でも誰が……何のために、こんなものを?)
その疑問にまだ答えは出ない。ただ一つ、確かなことがある。
――ヴィオラ様は、この首飾りによって殺されたのだ。
「しかし、いったいどうしてこんなものをロゼリア様が?」
元凶の一人が何を言う、と私はシグベルを白い目で見ながら説明のために口を開いた。
「シグベル様が意味深長なことをおっしゃるので、亡くなったヴィオラ様について調べていました。彼女が弱り始めた時期に出入りした人間や購入したものを調べていたところ、その中にこれが」
「そうでしたか。……まさか、今日の内にそこまで調べてしまうとは」
「ですが、肝心のルーディック様の死との関係については……」
私はゆっくりと首を振った。推測ばかりが先に立ち、本題には触れられていないのが現状だ。そもそもこの呪いの首飾りはヴィオラ様亡き後しまいこまれていたと言うし、どこまでルーディックと関わっているかは疑問が残る。
ただ命日が同じと言うだけでここまで来てしまったが、この道を追うのは正解だったのだろうか。
「それについては別の観点からの情報が必要でしょう。例えば……レインなら何か知っているかもしれませんね」
でも彼が素直に話してくれるかしら。私の不安を察したように、シグベルは柔らかく微笑んだ。
「本来の彼は義理堅い人ですから」
私がその言葉の意味を考えていると、バタンと扉が乱暴に開かれる。
「先ほどからずいぶんと騒がしい。病室で何をしているんです? 少しは大人しくできないんですか」
現れたのはレインだった。眉をつり上げ、見るからに苛立った表情で私達を見る。忘れかけていたが、ここは診療所だ。他の病人もいるのにうるさかったかもしれない。縮こまる私とは対照的に、シグベルは悠然とした態度でレインに話しかける。
「落ち着いてください、レイン。我々はただ、ルーディック氏とヴィオラ様の死について話していただけですよ」
「ヴィオラ様の……!?」
レインの目が大きく見開かれる。彼の唇が一瞬震え、何かを言いかけたように見えたが、言葉は続かなかった。
彼の動揺は、ただの知人以上の何かを思わせる。だからこそ生まれた隙を利用し、私は聞きたいことを直接聞いてしまうことにした。
「あなたは、ヴィオラ様とルーディック様の命日が同じなのは偶然だと思いまして?」
私がシグベルに聞かれたことをそのまま問うと、レインは首を振った。
「そんな訳がない……あの男は、死ぬまで気付かなかったでしょうけどね」
『あの男』。随分憎々しげにルーディックを呼ぶものだ。彼の目の奥には暗い炎が燃えている。その揺らめきは首飾りの輝きにも似ていた。不吉な、光だ。
「ルーディック様を、恨んでいたのね」
「当然です。あの男がヴィオラの手を離していれば、彼女が死ぬことはなかった……!」
レインの仮面は剥がれかけていた。口調は荒くなり、ヴィオラ、と名を呼ぶ声には怒りと後悔が滲んでいる。それほどまでに、レインの中で彼女は大きな存在だったのだ。
「それは……子を望まなければ、ということですか」
「それさえなければ、彼女は今でも生きていたはずだ。生きて……いつものように、笑って……」
レインの視線が窓へ向く。その向こうに、ヴィオラ様がいたのだろうか。診療所にやってきてレインに声をかける彼女の姿が、私にも見えるような気がした。
「だから、ルーディック氏を殺した」
シグベルの言葉が容赦なく振り下ろされる。レインは大きく息を吐いた。
「……」
何かを言おうとして、言葉をのみ込んだようだった。「そうだ」とも「違う」とも言えない――そんな沈黙が、答え以上に雄弁に語っていた。
「私は、医者だ。医神カカムルに誓って……俺は、まだ……」
レインは拳を握りしめ、唇を噛む。そこから先には何も続かない。強い葛藤が彼の身を苛んでいるように見えた。だから私は彼の良心に問いかけることにした。どうか本当のことを教えてほしい、と。
「ルーディック様を手にかけたのは、あなた?」
「……違う、俺はただ、眠らせただけだ……」
「永遠の眠りに、ですか」
レインの眉がわずかに動く。挑発するようなシグベルの言葉に、怒りとも苛立ちともつかない感情が滲んだ。ギロリと睨みつけ、もう一度「違う」と繰り返す。やがて、低い声で語りだした。
「屋敷に商人がいただろう。あの男が持ち込んだ帝国原産の葉……煮出した茶を飲めば、死んだように眠る薬代わりにもなると。俺はそれを利用しただけだ」
私は思わず息を呑んだ。あの日……ルーディックが亡くなった日の、皆の話を思い出したからだ。商人が持ち込んだ葉は、不眠に悩むルーディックに執事のテオドアを通して提供された。そしてその後――レインはルーディックに、薬を渡している。
「あの夜、ルーディック様が口にしたもの……まさか」
レインの視線が一瞬揺れた。それが答えだった。代わりに、シグベルが言葉を続ける。
「ルーディック氏の心拍や呼吸は私でさえ死者と間違えるほど弱まっていました。葉と薬の相乗効果で、影響が強く出たのでしょう」
「あの葉だけじゃ、まだ足りなかった。だから『適切なもの』を加えただけだ。商人には、いい取引材料をくれてやったがな」
最早繕う気はなくなったようだ。彼は嘲るような笑みを浮かべ、ふっと息を吐く。そしてゆっくりと目を閉じた。
「ヴィオラが死んで、まだ一年も経たない。それなのに、あの男はもう次の女を迎える。――そんな薄情者には、これくらいがちょうどいい薬だろう?」
その瞼の裏にいるのはヴィオラ様か、それとも憎きルーディックか……。私が何も言えずにいると、レインは小さく息を吐いた。
「……結局、俺は医者なのか、それともただの人殺しなのか。どっちなんだろうな」
彼の言葉は夕暮れの静寂に溶けていく。窓の外には茜色の空が広がっていた。赤と紫が混ざり合い、まるで血の滲んだ絹布のように美しい。
私は彼の横顔を見つめながら、答えを探そうとした。私の治療をしてくれた彼は優れた医師であった。ヴィオラ様に向き合っていた時も、確かに医者だったのだろう。しかしレインは、『命を奪う』という一線を越えてしまっている。そんな彼相手に、相応しい言葉は見つからなかった。
その時、ふと耳を澄ます。どこか遠くで市場の鐘が鳴る音がした。商人たちが店を閉じ始める気配がする。
「なあ……あいつは、これで満足したのか?」
レインの呟きが、誰に向けたものなのか分からないまま、夕暮れの風にさらわれていった。
――――――――――――
鐘の音が止む頃、レインは衛兵に連れられて診療所を後にした。彼の背は夕陽に長く伸び、やがて影が地面に溶けるように消えていく。
誰も、しばらく口を開かなかった。
「……終わったの?」
小さく息をついたのは、私だった。シグベルは何も言わず、ただ窓の外を見つめている。街の向こうに消えた男の行方を追うように。
『罪には罰を、過ちには導きを』。……そんな彼の言葉が、聞こえる気がした。
「ヴィオラ様が呪われた理由は、結局分からないままですね」
そう呟いたのはヒルダだ。どこか納得のいかない顔をしている。私も同じだった。
「……レインにとって、これは復讐だったのかしら」
問いかけても、答えは返ってこない。ただ、茜色に染まった空が静かに広がっているだけだった。夕陽が完全に沈み、夜がやって来る。
事件は、まだ終わらない――そんな予感だけを、私の胸に残して。
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