10.……なんでいるの?
「お前なあ……最初に言うことがそれかよ」
影、もといスレンは、窓枠を乗り越えながらも不機嫌そうに言った。
時刻は夜。どう考えても不法侵入者。見つかってはまずいという自覚はあるのだろう。
人目を忍ぶような声は小さく、ささやかで、しかし静かな部屋にはよく響く。
声とともに、トスンと床に着地する音を聞きながら、私はしかし首を傾げていた。
月明りを背に窓辺に立つ影は、どこからどう見てもスレンである。
部屋は暗くとも先住民独特の服のシルエットは見間違いようがなく、声も態度も別人のようには思えない。
一方、私の方が寝ぼけているということもなさそうだ。
意識はしっかりしているし、感覚も鮮明で、頬をつねってもしっかりと痛い。
ということは、これは紛れもない現実。
夢でも幻覚と言うわけでもなく、目の前にスレンがいるわけで…………。
……………………。
いや、なんで?
「えっ、いや、本当になんで? なんでスレンがここにいるの? というか、どうやって??」
最初に言うことがどうと言われも、どうやっても頭に浮かぶのは疑問でしかない。
むしろ大声を出さずにいられた理性に感謝してほしいくらいである。
だって、ここは隣領の関所であってノートリオ領ではない。
スレンたち先住民の住まう聖域の外。普段の彼らなら、近づきもしないような場所である。
田舎領地ではあるが、ノートリオ領開拓以前までは隣国との境界だったこともあり、関所はそれなりに立派。不法入国者を捕まえるために、辺境にしては待機している兵も多い。
特に今は、私の誘拐のためにずいぶんと人手が集まっている。反抗的な私への警戒も忘れず、扉の外には二十四時間体制で見張りまでついている状態だ。
当然、正面から誰にも気づかれず入ってくることはできない。
ならば窓からはどうかと言えば、こちらは飛び移れそうな木の一本もない絶壁だ。
私の軟禁されている部屋は三階。階下には窓枠くらいはあるものの、それ以外はとっかかりになりそうなものもない。梯子でもあれば登ってくることはできるだろうが、そうすると今度は巡回の兵の目についてしまう。
そんな状況で単身侵入するなど、常識的に考えて不可能だ。
周囲は静かで、どこかで騒ぎが起きている様子もない。
それじゃあいったい、スレンはどうやってここまでやってきたのという話。
私が疑問に思うのは、至極当然のことなのである――が。
「どうやってって、普通に壁をよじ登ってきたけど」
は?
「石を積み上げた壁だ。掴むところならいくらでもある。慣れればそんなに難しくもない」
「どんな身体能力してんのよ……」
うーん、ゲームバランス壊れる。
なんだこのフィジカルモンスター。
「で、どうしてここにいるのかは、お前のところにいる――なんだっけ? あのキャンキャンした姉ちゃん。あいつが知らせに来たんだよ。お前が誘拐された、って」
などと唖然とする私をよそに、スレンは大したことではないと言いたげに話を進める。
キャンキャンした――というのは、おそらくヘレナのことだろう。もしかしたらとは思っていたけれど、彼女が先住民たちのところへ掛け合ってくれたらしい。
きっと、ヘレナにとっては大変な勇気だっただろう。
相手は蛮族。言葉も通じない相手。ヘレナからすれば、丸腰でライオンの群れに入るようなもの。
それでも覚悟を決め、私のために勇気を振り絞ってくれたのはありがたい。
ありがたいけど――――。
「だから助けに来た」
その結論がわからない。
なぜ?
「説明はこんなところだ。さすがに、ここで長々と話をしている時間はない。門番を縛り上げてきたから、あまりぐずぐずしていると気づかれる」
スレンはそう言うと、窓辺から私へと歩み寄る。
足取りに迷いはない。足音を忍ばせながらも、まっすぐに近づいてくる。
「できれば、気付かれる前にここを出たい。お前を連れた状態で囲まれたら、俺でも逃げ切れる気がしない」
その足音が、ベッドの前で止まる。
月明かりを背に、彼は私を見下ろして、ためらうことなく手を差し出した。
「ほら、行くぞ。――逃げる気はあるんだろう?」
その手を、私はしばし無言で見下ろした。
逃げる気は、ある。逃げたいと思っている。このまま前領主の思い通りになるのは癪だし、いいように利用されるというのはもっと癪だ。
それでも、私は差し出された手を掴めない。
頭の中を、ずっと疑問が埋め尽くしている。
なぜ、なぜ、なぜ? いったいなんの目的で、なんの得があって?
「なんで…………」
繰り返すのは同じ言葉だ。
どうしようもない本音だった。
理解ができない。わからない。得体が知れない。
得体のしれない親切は怖いものだ。いったいどんな裏があるかわからない。どれほどの思惑があって、どれほどの見返りを求められるかわからない。
伸ばされたスレンの手を、掴んでいいのかわからない。
「お前、人の話聞いてたのかよ。助けに来たって言っただろ。それともお前、逃げる気がないのか?」
「あるわ。…………あるけど」
けど、と言って私は首を振る。
この手は、まさしく天の助け。前領主から逃げるための最良の手段だ。
逃げるなら早くした方がいい。今は良くても、いつ見張りに気付かれるかわからない。静かな夜だけに、少しの物音ですら聞きつけられる可能性があるのだ。
だけど、けど、けど。
「だけど、意味が分からないわ。なんであなたが私を助けようとするの。なんの理由があって、なんの見返りがあって、なんのために」
どうやったって計算が合わない。
ここでスレンが私を助けても、得られる見返りなどろくにない。
先住民である彼にとっては私の身分など価値はなく、ノートリオ領に戻っても手元にあるのは寒村だけ。危険を冒したところで報酬は得られず、逆に隣領から敵視される危険もある。
だとしたら、将来への期待? 王になる保証もないのに?
金銭面をあてにして? そんなもの私の身分以上に価値はない。
刺繍のための女手を求めて? まさか! それこそ釣り合いが取れていない。
ただの親切? そんなもののために命を危険にさらす人間がどこにいる。
人間は、だれしも行為に対する見返りを求めるもの。
なにかしら目的があるはずだ。なにか、得られるものがあるはずだ。
でも、わからない。これでスレンがなにを得るのかわからない。
この手を取っていいのかわからない。
わからないのは――――怖い。
なによりも、それが一番怖かった。
「あなたは…………なんの得があって、私を助けようとするの」
私の問いに、スレンは一度瞬いた。
それからすぐに眉根を寄せ、不愉快そうに口を曲げる。
「得。……得、ねえ」
吐き出す言葉は、表情にも増して不愉快そうだった。
視線は一度私に向かい、差し出した彼自身の手に向かい、すぐにまた私に向かう。
そのままベッドから立ち上がれない私を見据え、彼は怒りのにじむ低い声で、思いがけない言葉を口にした。
「それって、『友達だから』じゃ駄目なのかよ」