47.春へ(1)
さて、こうなると残る問題はトビーのことだ。
トビー失踪事件から三日。発見時に一度目を覚ました彼は、その後すぐに再び眠りに落ちてしまっていた。
屋敷に戻るまでの間は一度も目覚めず、屋敷に戻って介抱されてからも、はっきりと意識を取り戻してはいない。ときおり目を開けても意識混濁状態で、うなされたようなうめき声を漏らすだけだった。
おそらく極度の疲労と緊張のせいだろう、というのがアーサーの見解だった。
瘴気毒の影響は、救出当初こそは大きく出ていたものの、今はもうほとんどないらしい。これは、無理やりにでも薬茶を飲ませて体外に排出させたことに加えて、そもそも発見当初は気絶していて呼吸が浅かったことが幸いしたようだ。
おかげで間欠泉の瘴気をあまり吸い込まずに済み、致死量には至らなかった。後遺症が残る可能性もあったが、これも対処が早かったために避けられたという。
凍傷の方も、今のところは深刻な被害は出ていない。
手足が壊死する様子もなく、せいぜい顔に凍傷跡が残っている程度。どうやらこちらは雪に埋もれていたおかげで、外気に晒されずにいられたのが良かったのだそうだ。
『今の時期は、雪の中の方がよっぽど暖かいですからね。それに気絶していたおかげで、下手に動かず汗をかくこともありませんでした。体が濡れると一気に体温が下がるので、本当に運が良かったですね』
とはアーサーの言葉。
今は疲れて眠り続けているけれど、致命的な問題はなく、いずれ目を覚ますだろうとのことだった。
実際、トビーは日を追うごとに少しずつ回復していった。
冷たかった体温が戻り、顔色が良くなっていき、そして――――。
〇
「――――――トビー! ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
スレンが去ったその日の夕刻。西日の差す病室に、涙交じりの謝罪が響く。
トビーが目覚めたとの噂を聞きつけ、集まりに集まった野次馬たちの囲む先。同じく一足遅れて病室にやってきた私が見たのは、半身を起こすトビーと、その傍らでうなだれるエリンの姿だ。
エリンの後ろにはモーリスが控え、さらにその後ろをアーサーが戸惑ったようにおろおろと見守る。野次馬たちはそれらを取り囲み、どうしたものかとざわめいているところだった。
「ごめんなさい、トビー。ママが悪いの。ぜんぶ、ママが悪かったの……!」
「すまん、坊主! エリンが――お前の母さんが倒れたのは、俺のせいなんだ……!」
野次馬を割って前に出た私は、その様子に「ふむ」と腕を組む。
今来たばかりではあるけれど、なるほどなんとなく状況は理解した。思えばそもそも、事の発端はエリンが倒れたことである。
アーサーが彼なりに気を利かせ、エリンの容体をモーリスだけに伝えたことから回りまわってこの事態。元凶である二人としては、そのせいでトビーが命の危機に陥ったことに深く責任を感じていただろう。
事実、エリンはトビーが屋敷に戻ってきてから、ずっと彼の傍を離れようとはしなかった。
かいがいしく身の回りの世話をして、いつまでも目を覚まさない彼を無言で見つめ、引き攣れた凍傷の跡に目を伏せる。夜になっても離れたがらないエリンを、村の女衆はほとんど無理やり引きずってベッドに寝かせていたくらいだ。
一方のモーリスも、二人を心配してたびたび病室に顔を覗かせていた。
あの、暇さえあれば厩に入り浸るような男が、ここ数日は時間の許す限り見舞いに行っているのだから相当なものである。
そんな状態だから、待ち望んでいたトビーの目覚めも、ただ素直な感動の再会とはいかない。
なにせ二人には、トビーへの罪悪感がある。エリンには薬など必要なかったし、体調不良の原因は他にある。このことを、どうやったってトビーには伝えなければならない。
しかも、この『体調不良の原因』というのがまた不安の種で――――。
「…………ママ、病気じゃなかったんだ?」
どうやらすでに話を聞かされたらしいトビーが、目を瞬かせながらぽつりとつぶやいた。
視線はエリンとモーリスを行き来する。未だ呆けた瞳は、まだ状況を呑み込めていないらしい。口にする声は、言葉の意味を咀嚼するように、ゆっくりとしたものだった。
「おなかに、赤ちゃんがいたからなんだ?」
エリンが怯えて瞳を揺らし、モーリスが居心地悪そうに目を逸らす。
周囲の人々も、はらはらと不安そうに息を呑む。
私と一緒に駆けつけてきたヘレナも、心配そうに横から小声で囁いた。
「ど、どうしましょう殿下……」
「どうしましょうって言われてもね」
その言葉に、私は肩を竦めてそう答える。
ヘレナがなにを言いたいのかはわかっていた。
エリンが怯え、村人たちが不安がるのは、トビーの反応を恐れているからだ。
エリンはトビーのたった一人の肉親だ。ただ一人生き残った幼い息子に、エリンは過保護なまでの愛情を向けていた。
トビーはエリンの愛情を独占し、依存し、すっかりその状況に慣れきっていた。今や誰もが認める甘ったれ。母親にべったりの、わがまま勝手な暴君である。
そこへきての、エリンの妊娠発覚だ。
つまりはトビーにとっての弟妹ができるということ。母親の独占を失うということ。特に赤ん坊のうちは、母親は弟妹にかかりきりになって、トビーを構う時間が減ってしまうだろう。
今までのように甘えてはいられない。母親にべったりくっつくわけにもいかない。我慢を強いられることも増えるはず。
そのことに、この甘ったれは耐えられるだろうか。
この新しい変化を、トビーは受け入れられるだろうか――というわけだ。
だからアーサーも珍しく気を回し、エリンの不調の原因をトビーには伏せていた。
三人で時間を取って話すように、という気遣いがこうなってしまったのは皮肉であるが、まあなってしまったものは仕方がない。
誰が悪いというわけでもないし、そもそもこっちは単なる野次馬で、いくら心配したところでどうしようもない。なにより――――。
「そんなに心配することはないわよ、たぶん」
私はそう言って、ベッドの上のトビーへと視線を向けた。
野次馬たちの取り囲む先。エリンとモーリスの正面。
トビーは今も瞬いていた。
言葉もなく瞬き、息を呑み、エリンを見つめてしばらく。
長い間のあとで口にしたのは、短い言葉だった。
「……………………そっか」
声は責めるでもなく、拒むでもない。怒りもないし悲しみもない。
ただ感情があふれ出すような――――明るい、喜びの声だった。
「おれ、お兄ちゃんになるんだ……!」
トビーの凍傷で引き攣れた顔が、じわりと滲むように笑みに変わる。
それは、長くて短い一人旅を経たあとの、以前より少し大人びた表情だった。
〇
――これで問題解決ね。
一気に緊張の解けた病室を横目に、私はやれやれと息を吐く。
これにて一件落着。この冬最後の問題も終わったと言って良いだろう。
あと気になるのは、せいぜいアルドゥンの『やらかし』を聞き損ねたことくらい。だけどまあ、屋敷に爆弾を仕掛けたとかでもない限り、これも致命的な問題にはならないはずだ。
瘴気も今は落ち着き、魔物の数も減り始めた。
食糧もある。燃料もある。そろそろ雪の下から芽が伸びはじめ、来月頭には首狩り草も再収集ができるようになるだろう。魔物が減ったということは普通の獣が戻ってくるということでもあり、狩りの方も今よりぐっと楽になる。
雪解けは、早ければ来月半ば。遅くても五月初旬なので、だいたいあと一か月ちょっと。
さすがにここまできたら、もう村が崩壊するようなイベントも起こるまい。無理せず素直に過ごしていれば、無事に春を迎えられるだろう。
となれば残るは消化試合。これにてミッションコンプリート。冬編クリア。GGということだ。
ううむ、勝負あり。勝ったなガハハ。風呂入ってくる。
と、喜びあふれる病室から背を向けようとしたときだ。
「――――――大変だ、先生!」
大団円の空気に割って入ったのは、切羽詰まった村人の声。
なにかと思って目を向けるまでもなく、病室に駆けこんで来る村の男衆たちの姿が見える。
その数、総勢四名。ばらばらに駆けこんできた男たちは、アーサーの姿を見ると口々に叫んだ。
「俺のかみさんが」「嫁が」「つれあいが」「と、友だちが…………」
「急に体調を崩して倒れちまったんだ!!!!」
あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
クソゲー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!




