45.負傷者の治療をしよう(1)
ベースキャンプ内はひどいありさまだった。
トビーを命からがら救助し、無事にイベントクリア。ミッションコンプリート! と思いきや、その後がひどかった。
高濃度の瘴気は、人体に悪影響を及ぼすもの。目の前も見えないほどの蒸気の中に居続ければ、いかに息を止めようが無傷では済まない。
噴出直前という状況に張り詰めていた緊張も、助かったとなれば切れるもの。蒸気の中でロープを引いていた村人たちも、ロープを引かれていた私も、今は糸が切れたように気が抜けていた。
これがつまり、どうなるかというと――――。
「お、おえええ……気持ちわる……!」
私はガンガンに火の焚かれたテントの片隅で、膝を抱えてうずくまっていた。
テント内で火を焚いてはいけない、なんて言ってはいられない。というか言っている余裕もない。最低限の換気のために、入り口の天幕をめくり上げただけでも褒めてほしい。
それきり、私は動けなかった。
吐き気がして、寒気がして、頭が揺れて気持ち悪い。しかも目も痛いし肌も痛い。これぞ、全身くまなく濃厚な瘴気を浴びた人間の末路である。
痛む目で周囲を見れば、他の村人も同じような状況だった。
窮屈なテントに大の男が揃いも揃って膝を抱え、何人かは吐き気を催し外へ出る。護衛のランドンに至っては、真っ青な顔でぴくりとも動かない。
ピンピンしているのは、村ではアーサーひとりだけときた。なんだあの化け物。
そういうわけで、トビーの看病はアーサーに任せきりだ。
凍傷は体を温めるのが重要ということで、今は濡れた服を着替えさせ、ぬるま湯に手足をつけているところ。このぬるま湯で、冷え切った体をゆっくりと暖めていくのだそうだ。
なんでも一気に温めるのは危険だとかで、けっこうな時間がかかるらしい。下手に急ぐと余計に悪化するとのことで、あらゆる意味で私たちは身動きが取れない状況だった。おええ。
「――これは、今日中に屋敷に戻るのは無理そうだな」
おえ?
と吐き気で返事をする私の前に、湯気の立つ木製のカップが差し出される。
重たげに視線を上げれば、カップを手にしたスレンが立っていた。
「白花房の薬湯だ。飲んどけ」
「しろ……はなふさ……?」
「ああ、お前たちのところだと別の名前で呼んでいたな。首狩り草だったか?」
なるほど、と思いつつ、私は重たい手でカップを受け取る。
首狩り草の名称は、そもそもたぶん村の人々が勝手につけた名前である。先住民たちは先住民たちで呼び名があるのだろう。
首狩り草は、見た目は小さな花の集合だ。花弁が二つだけ長い白い花で、私たちの村ではこれをウサギに見立てて首狩り草と呼んでいる。
それに対して、白花房だ。
首狩り草に対しての白花房。ううむ、どちらも見た目から名前を付けているのは同じなのに、センスの違いが著しい。なんでこっちの村人たちは、あんな不吉な名前を付けてしまったのか。今からでもこっちの名前にできませんかね?
などと気持ち悪さに現実逃避をしていれば、スレンが気づかわしげに呼びかける。
「飲む気力がないなら、しばらく湯気を嗅いでいるだけでも良い。それとも、横になった方が良いか?」
「だいじょーぶ……」
おっ、珍しい態度。
なんて言っている余裕すらもない。私は首を横に振ると、あまり大丈夫ではない声でそう答えた。
どうせ横になっても、気持ち悪さは変わらない。それなら座って膝を抱えていた方が、気分的にはまだマシというものだ。
「そうか? ……まあ、それならいい。もっと薬湯が欲しくなれば言え。今はむしろ、飲みすぎて腹を下してでも瘴気を外に出した方がいい。俺は他の連中にも配ってくる」
「おえ……よろしく……」
私が軽く手を振れば、スレンが立ち上がって他の倒れた村人たちのところへと移動する。
その背中を、私はしばし痛む目でぼんやりと眺めていた。
村で元気なのはアーサーひとりだけだ。
だけど、村の人間ではないスレンもまた、瘴気に倒れる様子はない。アーサーがトビーの看病に手を取られている分、彼は代わりに他の村人たちの面倒を見て回っていた。
――アーサーは異常者だからいいとして……。
いや良くないけど。瘴気への耐性は体質によるとは言うけれど、それにしたってなんなんだあの瘴気怪人、とは思うけど。
アーサーは、それでも間欠泉周縁部の外側にいた。噴き出す蒸気を浴びはしたけれど、一定の距離は取っている。
一方のスレンは、私と一緒に周縁部の内側にいた。噴出直前の、『先住民でさえ一瞬で気を失う』瘴気の中にいたはずなのだ。
だけどスレンは、あの場でなにをしただろう?
私には息を止めるように言いながら、私とトビーを抱え込み――彼は、『引っ張り上げろ』と叫んだのだ。
「…………」
彼は今、アーサーと同じくらいピンピンしている。
村人たちに薬茶――スレンの言う薬湯を配って回りながら、彼が口にする様子はない。
「…………………………」
息を止めたまま、叫び声は出せるのだろうか? 片手でロープを掴み、子供とは言え二人を片腕で抱え、雪崩から守りつつ傾斜を上るなんて力仕事を、呼吸を止めたままできるのだろうか? しかも上ってすぐに、「っしゃ!」と声を上げられるものなのだろうか? いや、それ以前にそもそも――――。
「――お、おええええ……わ、悪いな、にいちゃん……」
「世話をかけるな、にいちゃん。あんたのおかげで助かったよ」
「今まで蛮族扱いして……すまなかったよ。俺たち、今まであんたらのことぜんぜん知らなかったんだ」
「草原の連中ってのはすげえんだな。まだまだ青くせえガキのくせして、たいしたもんだ!」
ばんっ、と村の男衆がスレンの背を叩く音に、無意識の私の思考は途切れた。
どうやら倒れている男衆の中にも、まだ元気な人間がいたらしい。けっこうな威力の張り手に、薬湯を運んでいたスレンが「あだっ」と悲鳴を上げる。
「ガキ扱いすんな! じゃなくて、危ないだろ!」
「ガキ扱いもなにも、俺たちから見たらガキそのものだろ」
スレンが抗議をするも、男たちは聞いちゃいない。「くっそ、元気じゃねーか!」とスレンが苦々しく悪態をつき、男たちが笑い合う。
スレンを取り囲む男たちの、わははと明るい笑い声に、私は重たい首を横に振った。
――ま、今考えるようなことじゃないわね。
いろいろ思うところはあれど、ここで水を差すのも野暮と言うもの。
そもそも彼がなにを抱えていても、彼の問題は彼の問題だ。だからどうということもないし、村の開拓に影響が出るわけでもない。せいぜい、いざというときの集落への脅迫手段になるくらいだろう。
なので頭の片隅には置きつつも、今は疑問を追い払う。
それからやかましい男たちの騒ぎを横目に、ぬるくなった薬湯に口をつけた。




