35.死
アレクシスが眠りについてから、さらに一日、二日。
屋敷に響く咳の音はずいぶんと少なくなった。
マーサたちもついに発熱して倒れ、まだ動ける人間は片手以下。それも全員、今ではかすれた咳をしている。
最初に高熱を発症したアーサーは、これでもう五日目。まだ彼は生きている。
かろうじて生きているという状態だ。
外に出してくれと訴える声は減っていた。
誰もが熱にうかされ外に出る力もなく、今さら隔離したところで意味もない。今、この村で発熱患者の世話をしているのは、咳をしている感染者なのだ。
――薪を運んで、火を絶やさないようにしないと。それからお茶の用意も。衰弱した人には薄めにして、出来るだけ一緒に水分を取ってもらって…………。
冷たい地下食糧庫で氷を割り、残り少ない首狩り草を袋に詰めると、ヘレナは急いで回廊へ出た。
向かうのは、病人たちの待つ部屋だ。病人たちの部屋は今や複数に渡り、扉越しにあちらこちらから呻き声が響いている。
それらの部屋を足早に回り、また地下に戻って氷を割る。その繰り返し。
――日が暮れたら食事を用意して、これも水分を多めに、噛まずに飲み込めるように。小麦は今日で使い切るはず。そうしたら明日はお芋を……。
けほっ、と喉から咳が出る。
思考が途絶え、同時にふと足が止まった。
立ち止まってしまえば、必死になって見えていなかった周囲の景色が見えてくる。
ヘレナは回廊の真ん中に立ち、半ば呆けたように窓の外を見た。
外は今日も雪が降っていた。
窓から見える景色は真っ白で、どこまで行っても変化がない。物音はなく、人の気配もなく、もう三月に入ったというのに、命の息吹すらも感じられない。
この屋敷は、雪の中に取り残されている。
国から見放されたノートリオ領の、さらに見放された場所だ。
誰もこんな場所を訪れない。誰もこんな場所を見つけない。
だって、いったい誰が、なんのために、わざわざこんな時期を選んで辺境に来るだろう?
今は獣さえ眠る季節。白い世界に蔓延るのは魔物だけ。どれほど待ったところで、助けなんか来るはずがない。
――いえ。
咳を繰り返しながら、ヘレナは首を横に振る。
弱気な自分を否定して、ぐっと奥歯を噛み締める。
――殿下がおっしゃっていたもの。誰かが見つけてくれるって。
それが『誰』であるかはわからない。
先住民のことを言っているのかもしれない。もしかしたら、王家の使者が来るのかもしれない。ノートリオ領に来る直前に通った隣領の領主が、なにかしら事情を知って救援を寄越してくれるのかもしれない。
あるいは、もっと別のなにかを想定しているのかもわからない。
わからないけれど、彼女がそうと言ったからには、なにかしらの根拠があるのだ。
助けは来るのだ、絶対に――――絶対に!
「大丈夫……大丈夫……! けほっ。……大丈夫! 弱気にならない! けほっけほっ。きっとみんな、助かるから――――けほっ」
ヘレナは自分に言い聞かせると、再び回廊を早足で進みだした。
喉からあふれるような咳は、いつまでも止まらなかった。
〇
村人たちの不安は、いつしか諦念に変わっていた。
熱に浮かされた人たちが、ふと意識を取り戻すとき。彼らは不満ではなく、祈りを口にすることの方が増えていた。
熱でもうろうとしているとき、彼らはときおり、失った家族の名前を呼んだ。
自分もそうなれたら、幸せだったかもしれないとエリンはたびたび思った。
だけどそうなれない理由が、彼女にはある。
「――エリン。もういいよ。あたしらの世話までしていたら、あんたが倒れちまうよ」
まだ発熱して間もなく、比較的意識のしっかりしている村の女衆が、世話をするエリンにそう呼びかける。
隔離部屋に横たわる人々を順々に回り、食事と水を飲ませていた時のことだ。
「あんただって咳をしているんだろう? もういいよ、もう……どうしようもならないんだよ。こんなことをしたってさ」
「そうはいきません……!」
諦めに満ちた女の言葉を、エリンは首を振って否定する。
どうしようもならないのかもしれない。病気は止められないのかもしれない。
それでもエリンは諦めるわけにはいかないのだ。
「なんとかして食い止めるんです! けほっ、どうにかするんです! けほっけほっ、少しでも、可能性があるのなら……!」
エリンにはよくわからないけれど、王女アレクシスは『いずれ助けが来る』と言ったらしい。ただの根拠のない楽観かもしれない。勇気づけるための嘘かもしれない。
だけどもしかしたら、本当かもしれない。
万が一にも、一縷でも可能性があるのなら、エリンには絶対に諦められない理由がある。
「――あの子を、あの子まで死なせるわけにはいかないんです!」
そのために、危険とわかって看護師の仕事を引き受けたのだ。
病気に最も近い、死の隣に立つ仕事を。
けほっ、と喉の奥から咳が出る。たぶん、もうじき熱が出る。
それでも倒れる最後の瞬間まで、エリンは止まるわけにはいかなかった。
〇
けほ、けほ、と小さな咳が出る。
ほんのりとした熱が、かえって気分を高揚させる。
屋敷は静かで、誰もいなくて、ひどく退屈だ。
母は忙しそうだし、同じ年ごろの友人たちも寝込んでしまい、よく遊んでくれるモーリスも病気らしい。病気が流行っているとかで、エリンからは部屋でゆっくりしているようにと言われているけれど、誰もいない部屋でじっとしているのは、あまりにも面白くなさすぎる。
退屈を持て余したトビーは、一人きりの部屋を出て、そっとエントランスへと足を向けた。
エントランスは寒々しかった。
常に焚かれていた火はいつの間にか消えていて、まるで外のように冷え冷えとしている。
目当ての馬たちも寒そうで、力なく震えていた。
見れば、飼い葉桶も空になっている。水も少なく、寝藁は汚れ、せっかくのきれいな馬たちの足も排泄物に塗れている。
モーリスが倒れて二日。もう誰も、世話をする人間がなくなってしまっていたのだ。
「おじちゃんの代わりに、おれがお世話してあげるんだぞ!」
咳をしながら、トビーは暖炉に薪を放り込んだ。
エリンはもっと大きくなるまで火に触らないようにと言うけれど、トビーはもう十分に大きい。火つけ石だって打てる。火のつけ方も知っている。
「けほっ。ほら、できた! けほっ!」
火をつけたら、今度は順に飼い葉を与えていく。やり方はモーリスを見て知っている。ときどき世話の仕方を教えてもらって、一緒に厩の仕事をしているというのは、トビーがエリンにしている唯一の隠し事だ。
エリンは、トビーが大人と同じ仕事をするのを喜ばない。でもトビーは馬が好きだし、やってみたいと思う。『お前の母さんには内緒だぞ』と言って、こっそり馬に触らせてくれるモーリスのことがトビーは好きだった。
「おじちゃん、どうしてるんだろうな……」
エリンは隠したがっているけれど、村に病気が流行っていることはトビーだってわかっている。
去年の秋のことも覚えている。どんどんみんなが病気になって、友人たちもほとんどがいなくなった秋。あのときと今は、そっくり同じだ。
忍び寄ってくる暗い気配。必死に駆け回る村の大人たち。その大人たちも力を失い、最後にはただ静けさだけが残る。
今度もそうなるのだろうか。
モーリスもかつての友人たちと同じように、いなくなってしまうのだろうか。
「嫌だなあ……」
呟いた途端、けほっ、と咳が出る。
この咳も、思えばもう二日は出続けている。いつになったら止まるのだろうと思うのに、いつまでたっても止まらない。
咳をすると、エリンが不安そうな顔をする。なんてことないのに、平気なのに、泣きそうな顔でトビーを抱きしめる。
「なんでだろうねえ、ベアトリス――けほっ」
一番仲良しのベアトリスに、トビーは飼い葉をやりながら呼びかける。
だけどベアトリスは、エリンと同じ目をして見つめてくる。優しげな黒い瞳が、心配そうにトビーを映して瞬いた。
「ベアトリス…………?」
首を傾げるのと、体から力が抜けるのは同時だった。
最初はほんのりと感じていた熱が、いつの間にか汗がにじむほどに変わっている。
それでいて、ひどく寒い。体を抱えてもさすっても、少しも熱を感じない。
膝から崩れ落ち、床で丸くなるトビーを、ベアトリスが見下ろしていた。
エリンに似た優しい顔で、エリンと同じ泣きそうな顔で。
静まり返った屋敷。死の気配の満ちる変わり果てたその場所で、ベアトリスは救いを求めるように声を張り上げて鳴いた。
〇
ふと、相棒が足を止めた。
まばらに雪の降る雪原のど真ん中。手綱を引いても動こうとしないのは珍しい。
男は足を止めると、肩を竦めて相棒へと振り返る。
「――――――うん? どうしたバトゥ?」
真っ白の雪の中に立つバトゥは、真っ黒な体を持つ巨大な馬だ。気難しくも勇猛で、進むとあらば我先にと前に向かう性格だが、今は呼びかけても反応すら返さない。
背中に大荷物を背負ったまま首だけを伸ばし、なにか探るように耳を動かす姿に、男は訝しげに眉根を寄せた。
「なにか聞こえたか? このあたりは集落もないし、あるのはセントルムの、あのいけ好かない領主のいる村くらいのはずだけど――」
言いかけて、男は「ふむ」と考え直す。
思えば、最後に訪問したのは三年も前のことだ。
これはなにか、面白いものが見つかるかもしれない。