32.拡散(2)
「――――殿下!」
ヘレナが悲鳴じみた声を上げる。
いやいや、一度咳をしたくらいでそんな大げさな――――げほっ! げほげほげほ!!
うわこれ本気のやつだ。自分でかかってみてわかるけど、本当に咳以外に症状がない。
熱っぽさもなく、悪寒のたぐいもない。風邪らしい症状が一切ないのに、咳が止まらない。
咳は続けば激しくなるけど、出はじめは軽い。喉がくすぐったいような、乾燥したような感じだ。痛みはなく、あるのは咳が続いて少し息苦しい感覚くらい。なんとも変な咳である。
「殿下、待っていてください。すぐに誰か、人を――」
「いえ、いいわ。どうせ寝るだけだし――けほっ」
医者は倒れているし、できることもないしね。
そもそも村人の過半数が倒れているのに、私が感染しないというのも変な話。いずれ来るタイミングがここだっただけだ。むしろ、真っ先に感染しなくて良かったと言うべきだろう。
「それから、ヘレナはもう部屋を出て行って。寝るだけなら自分でできるし、私と一緒にいてあなたまで感染したら大変だわ」
「ですが……!」
「元気なうちにやれることをやっておいてほしいの。指示は出したでしょう」
感染者は隔離。屋敷内を自由に動けない。
ヘレナには少なくとも、明日までは健康でいてもらわなければならないのだ。
「こうなった以上、外部に助けを求めるしかないわ。私たちが助かるには、もう他に手段はないのよ」
というよりも、最初からこれしか方法はないと思っていた。
厳冬期も終わりかけとは言え、気温は日中でもまだ氷点下よりはるかに低い。とても雪解けには至らない。
ノートリオ領は雪深い。二月三月はまだ厚い雪に覆われ、徒歩はもちろん馬でも移動は難しい。私たちは、雪解けの時期である四月の半ばから、遅ければ五月までは雪に閉ざされることになる。
私が進めたがっていた狩りの準備とは、つまりこの雪をなんとかすることだった。
屋敷から屋敷の入り口までの雪かき。屋敷の入り口から村までの雪かき。村の中の、特に狩りのルートの雪かきに、魔物を誘き寄せるための村周辺の雪かきである。
狩りの道具作りや手入れだけなら、厳冬期の間に屋敷内でいくらでもできる。だけどこの雪かきばかりは、瘴気濃度と相談して決める必要があったのだ。
ただし、これは雪慣れしていない私たちの話だ。
この地に長く暮らしている人々であれば、深い雪には慣れているだろう。猛吹雪ならばまだしも、好天時には外に出ることもあるだろう。場合によっては、雪の中を遠出することさえあるかもしれない。
幸いにして、吹雪の季節はほとんど過ぎ去った。
私たちが外に出られなくとも、誰かが雪原に出ている可能性はある。
物資もない、食糧もない、薬の一つ調達の当てがない私たちにとって、救済の一手は外部に頼るより道はない。他力本願でひどく運任せな方法だとしても、神に祈るよりはこちらの方がはるかにマシというものだ。
雪原に突如現れた真っ赤な旗を見たら、誰かしら異変に気付くだろう。
もちろん、異変とみて助けに行こうとするか無視するか、あるいは好機だと思うかは見つけた人間次第。春の近いこの時期は、多くの人間が動き出す。スレンたち部族が最初に旗を見つけてくれたらありがたいけれど、必ずしもそう都合よくは動かない。場合によっては、略奪のうえ虐殺も十分あり得るだろう。
それでも、誰にも見つからないよりはずっといい。
今の状況では、変化こそが打開への第一歩だ。
「私たちは、誰かに見つけてもらうまで生き残らないといけないの。全員が感染して倒れたら、それも不可能になるわ」
すでに村の過半数が感染した。二、三日後には、彼らの全員が熱で倒れているとみていい。
彼らには世話をする人間が必要だ。食事を与え、水を飲ませ、暖炉に薪を足す誰かが必要なのだ。
そうして生きながらえることが、今の村が助かるための唯一の方法なのだから。
ヘレナは言葉に詰まったように、ぐっと押し黙る。
言い負かされたとか、反論が出てこないとかいうわけではないのだろう。薄暗い部屋の燭台の火には、彼女の泣きそうな顔が揺れていた。
その顔を見据え、私は突き放すように言い切った。
「あなたの役目は、出来るだけ感染しないことよ。――わかったら、早く部屋を出て行きなさい」