31.急変(2)
瘴気によって起こる病気というのなら、普通は瘴気に弱い人間の方がかかりやすいはず。
誰よりも瘴気に強いアーサーは、誰よりも病気にかかりにくいはずではないだろうか。
瘴気への耐性は、基本的には生まれ持っての体質差だ。
環境次第で『慣れる』ということはあっても、根本的な性質が大きく変わるわけではない。
生まれつき病弱な人間がいるように、生まれつきすぐに瘴気に当てられる人間がいる。
同じように病気にめったにかかりにくい人間がいて、強い瘴気の中でもけろりとしている人間がいる。
アーサーの耐性は、瘴気研究をする人間にとっては才能と言っていいくらいだ。
私が見た限り、これまでアーサーが瘴気に当てられたことは一度もない。どれほど瘴気が濃くなろうと平気な顔で外に出て、平気な顔で戻ってくる。
最も瘴気の濃かった一時期、村のほぼ全員が瘴気に当てられ、倒れるまではいかずとも肌荒れや食欲不振を訴えたときにさえ、『今日は少し肌がピリピリしますね』と笑っていたくらいだ。
――薬だってほとんど飲んでいなかったわ。義務として、一日一杯か二杯くらい。
それも医者が飲まないと示しがつかないからと、私とエリンで無理やり飲ませていただけだ。
それで平気だった。ここまで問題は起きなかった。挙句最近は、節約のためにと少ない薬茶を飲み控えるようにさえなっていた。
それでも、彼は平気でいられたのだ。
――それなのに、どうして? 瘴気に強いことと病気とは無関係ってこと?
瘴気に蝕まれて病気が発生するわけではない……のだろうか?
瘴気そのものと病気は無関係? それじゃあ、瘴気は病気とどう関係があるのだろう?
だいたい、瘴気と病気が関係あるというのなら、瘴気のピークを過ぎてから病気が流行り出したのが不可解だ。
瘴気が病気を連れてくる。これが本当なら、一番危険なのは最も瘴気が濃い時期のはず。
だけど瘴気のピーク時、瘴気に当てられる人間はいても病気を訴える人間はいなかった。
――瘴気が濃ければ濃いほどいいってわけではないの? 今くらいの瘴気が病気の流行りやすい濃さということ?
それはまあ、ありえない話ではないだろう。でも、だとしたら今は瘴気の濃さは下り坂。次第に濃度が低くなっていく時期だ。
つまり、ピークを迎える前、上り坂の時にも同程度の瘴気濃度の時期があったはず。こちらで病気が流行らなかったのはなぜだろう?
ただの偶然だろうか。たまたま、今回は運が悪かっただけ? いつでも病気は忍び寄ってきていたのに、幸運にもここまで乗り越えてきた?
――わからないわ。共通点もそれほどあるようには見えないし……。
今病室にいるのは男性だけ。だけど食堂では女性陣にも咳をしている姿が目立った。
咳が出はじめてまだ三日。男性の方が感染しやすいと言えなくもないけれど、有意な差とは思えない。
職業、体型、年齢、瘴気への耐性もバラバラ。よく会話するとか、いつも一緒にいるとかいうわけでもなく、この六人の感染が早い理由もわからない。
偶然、と言えばそれまでだ。
だけど偶然で終わらせては、打つ手がなくなってしまう。
熱を持った頭に手を当てて、私は重たく首を振る。
――……情報が足りないわ。でも情報を増やすわけにもいかないのよ。
すでに村の半数近くが感染しているのだ。
今の村にあるのは、わずかな熱さましと、いくつかの頭痛薬と胃腸薬だけ。食糧も残り少ない、薪も心もとない、春にはまだ遠い状況でこれ以上病人が増えれば、もはや抱えきれなくなってしまう。
高熱は体力を奪い、衰弱させて死に至る。
村人は長い冬で疲弊していて、あまり体力が残っているとは言い難い。これだけの熱が十日も続けば、耐えきれるかはわからなかった。
そしてそれよりも早く、おそらくは食糧が先に尽きる。
もともと食料の備蓄は厳冬期が明けるまで、二月いっぱいの予定だ。
今はすでに二月下旬。もう十日もかからず三月になる。病人相手に食糧を節約するわけにはいかず、誤魔化し誤魔化し水増しすることもできない。
狩りの再開を考えず、今ある物資を使い切るとしても、残り時間は十日弱。
この短い間に、私は数少ない手がかりから情報を得て、感染の拡大を抑え、病気の対処法を見つけ出し、死者を出さないまま村の機能を再稼働させなければならないのだ。
果たしてそんなことが――――できるのだろうか?
この真冬のど真ん中。唯一の医者も倒れ、病気の知識もなく、薬一つ手に入らない状況で。
深い雪に閉ざされたノートリオ領の、雪原にぽつんと取り残された、こんな小さな屋敷の中だけで。
あまりに絶望的な状況に息を呑む。
熱もないのに身震いがする。
不安げな村人たちの視線を受けながら、私は無意識に口元を歪めた。
――やってやろうじゃない。
たぶん、これがこの冬の最難関だ。
ぞくぞくする。
平民層の病気の認識
・1~2日で回復する病気 →風邪
・1~2日で回復しない(自然治癒できない病気)
・感染力強 →悪い空気のせい
・感染力弱 →弱い(薄い)悪い空気のせい
・感染なし →呪い、もしくは親や先祖の悪業の報い、悪い血筋
・感染するが感染経路不明 →無作為の呪い、もしくは悪魔の気まぐれ
・原因の特定できる病気 →毒
医学者たちの中には『目に見えないほどの極小生物』によって病気が起きるのではと主張する派閥もあるが、肝心の極小生物が発見できていないため異端の学説。
神学者は瘴気が病気の原因と主張し、瘴気学者は無関係だと主張する。ここは犬猿の仲。