30.異変
三日前、咳をしていたのはアーサーと二人の村人だけだった。
彼らの症状は、風邪というにもかなり軽い。熱もなく悪寒もなく、咳の他はせいぜい軽い倦怠感があるくらいだ。
季節がら、体調を崩す人間が出るのは不思議ではない。特にもうすぐ厳冬期も明けようというころ。張り詰めていた気が緩み、体を壊しやすくもなるだろう。
それに、病人もほんの三人だ。病室のベッドで事足りる。それでも念のため、彼らには咳が治まるまで仕事を休み、病室で過ごすようにと言い渡した。
食事も、看護師のエリンに病室まで運んでもらうことにした。少し大げさかと思いつつも、念には念。これでたいしたことなく収束するなら、それで別によかったのだ。
二日前、また一人、咳をする村人が増えた。
病室のベッドは三つ。一つ足りないので慌てて増やし、同じように症状が治まるまでは病室で過ごすようにと言い渡した。
アーサーたちの咳はまだ治まらなかった。咳以外は体調も悪くないようで、病室の面々は不満そうだった。
一日前。昨日はまた二人、咳の目立つ村人がいた。
なんとか場所を作ってベッドを用意し、病室にぎゅっと詰め込んだ。
もう病室は限界だけど、そろそろアーサーたちの咳も治まるだろう。彼らが退院すればベッドにも余裕が出ると見込んでいた。
病人の増え方は少ない。症状も咳だけでたいしたことはない。
咳が出はじめてからはまだ二日。悪化している様子もなく、当人たちは元気があり、食欲もある。さほど気をもむことはないと思っていた。
それが、今日のこの状況だ。
食堂には、隔離中のアーサー含む村人六人を除いたほぼ全員が集まっている。まだ姿が見えないのは、厨房で食事の準備をする数人の女衆と、病人の世話で遅れているらしいエリンだけだ。
村人たちの表情は決して暗くない。見るからに顔色が悪い人間もいない。朝の食事を待つ村人たちは和やかに言葉を交わし、久しぶりの日差しにそう遠くない春の訪れを期待している。
ただ、あちらこちらから響く咳の音だけが異質だった。
「おや、あんたも風邪かい? みんなして咳して、流行ってるのかねえ」
「けほ、風邪ってほどじゃねえんだけどな。咳以外に悪いところもねえし……けほっ」
「それにしても、今日はずいぶん多いわねえ。みんなの咳を聞いていたら、あたしまで喉がむずむずしてきた気がするよ」
「先生に診てもらおうにも、その先生がごほごほ言ってんだよな。まあ、たいしたこたねえし、ほっときゃそのうち治るだろ……けほっけほっ」
――――いえ。
放っておいていい状況ではない。
明らかにおかしい。
見る限り、咳をしているのは食堂に集まった村人の半数近く。私の部下である護衛たちの中にも、数人ほど咳をしている人間がいる。
昨日まではほんの六人だけだ。それも全員隔離して、世話を看護師のエリンに任せていた。
エリンは前職も看護師だ。病人への接し方は心得ている。世話をする際は鼻と口を布で覆い、病人たちの隔離部屋から出たあとは、すぐに石鹸で手を洗い、うがいをする必要があるとも知っていた。
その結果がこの状況だ。
村人の半数、約二十人。六人から、一気に二十人である。
――六人だけだと油断していた? 最初は増え方が鈍かったから甘く見ていた? だとしてもこんなに広がるなんて――いえ、いえ、それよりもこの状況をどうするのよ。
流行病は、『病人の吐き出す悪い空気から感染する』と言われている。
この『悪い空気』が瘴気であるか否かが神学者と瘴気学者で意見の割れるところだけれど、とにかく病人の吐く空気を吸うことで、次々に病気が広がっていってしまうのだ。
だから感染の抑制をするためには、病人を隔離する必要がある。
病人の吐く空気を一か所に留め、健康な人間がその空気を吸わないようにするべきなのである。
だけど――どうする?
もう病室はいっぱいで、隔離しようにも空き部屋がない。以前の吹雪で未だ一部の部屋が使用できず、今や三階にある領主家族用の部屋まで村人たちに明け渡しているのだ。
これを無理やり再編して部屋を用意したとしても――それでどうなる?
すでに村人は食堂に集まり、咳をしている人間と和やかに会話している。今さら隔離したところで、どれだけの意味があるだろう?
隔離となると村人から反発が出るのは間違いない。
これだけの人数が動けなくなれば、仕事にも支障が出る。
今は厳冬期明けが近く、狩りの準備のために人手が欲しいところ。ここで村人の半数が労働から外れるのはかなり痛い。
準備が進められなければ、狩りの再開も遅れるだろう。村の食糧は残り少なく、薪もいつまでも持つわけではない。狩りの遅れは、村にとって致命的なことになりかねなかった。
それでも、隔離を推し進めるメリットはあるだろうか?
――症状は軽いわ。咳だけで、他に不調があるようにも見えない。
流行病にもいろいろある。必ずしも、致死的な病気ばかりが流行るわけではない。
このまま悪化しない可能性はある。安静にしていれば、軽症のまま治ることもある。
これはちょっと感染力が強いだけの、あまり深刻でもない流行り風邪。慌てる必要なんてない。その可能性は十分にある。
だけど、そうでない可能性も捨てきれない。
どうする、どうする?
余裕があれば隔離一択だけど、今は食糧に余裕がない。もともとの計算では、二月末には食糧が尽きるはずなのだ。
温室栽培のおかげで当初よりもわずかに余剰があるけれど、それでも伸びて三日か四日。狩りの開始を遅らせるわけにはいかない。天候と瘴気の都合がつき次第外に出られるよう、やっておくべきことが山ほどある。
一方で、この状況を放置するには不安要素が大きすぎる。
もしもこれが深刻な病気の場合、わずかでも拡散を遅らせるには可能な限り早く判断を下さなければならない。迷えば迷うほど病気は広がり、こちらもまた致命的な結果になってしまう。
「今日はずいぶんとお風邪の方が多いようですね、殿下――――殿下?」
ヘレナの他愛無い呼びかけにも、返事をする余裕はない。
即断が必要なのに、どちらの判断を下すにも決定打が足りない。そのくせどちらも致命的なリスクを持ち、見極めを誤れば文字通り死につながる。
――でも深刻な病気だったとして、治す手段はある? 隔離したところでなんの意味がある? どんな病気かもわからないのに? 薬の一つもないのに? 吹雪で助けを呼ぶこともできないのに?
隔離して拡散を遅らせている間に、なにか最善の手段は見つけられるだろうか。それとも今の状況であれば、狩りの準備を優先すべきだろうか。
もしも咳以外になんの症状もなく収まってしまったら、下手な隔離をしても村を窮地に立たせるだけ。
もしも咳以外の症状が出てくるならば、狩りの準備を進めている間にも被害が広がっていく。
どうする、どうする、どうする――――。
「――――王女様! 大変です!」
焼き切れそうな思考に割って入ったのは、高い女性の叫び声だった。
バタバタと慌ただしく駆けてくる足音に反射的に振り返れば、食堂に飛び込んでくるエリンの姿が目に入る。
息を切らせ、この寒いのに額に汗までにじませて、彼女は私を見てか細い声を張り上げた。
「先生が――ハワード先生が、急にすごい熱を出されて、倒れてしまわれたんです!!」