28.厳冬期の猛威を乗り切ろう(8)
ベアトリスとは、王城にいたころからモーリスが手塩にかけて育てていた馬の一頭だ。
性別は牝。毛色は深みのある赤褐色。年齢は四歳。相棒のフランチェスカとともに王家の馬車を引くことが許された、選ばれし馬車馬である。
性格は温厚。よく人に慣れて大人しい。賢く優しい馬だとはモーリスの評価。
そんな馬がなぜ辺境に飛ばされたかと言えば、他の馬に比べてやや体が小さく、王家の馬としては見栄えが足りないからだという。
十分に健康でこんなに賢いのに見た目で冷遇されるなんて、と同じく毛色のちょっとした斑のせいで左遷されたフランチェスカとあわせて、モーリスはひどく可愛がっていたものだ。
なるほどこうして改めて見てみれば、たしかに優しそうな顔をしている。
モーリスの傍で足を折る姿は大人しく、本当に私たちを呼んで鳴いていたのならたいした賢さだ。
そんなベアトリスが心配そうに見守る横で、現在、モーリスは正座をしている。
顔は下を向き、視線は逃げるようにさまよい、握りしめた手は膝の上。この寒いのに口をつぐんで冷や汗をかき、寒さではなく肩を震わせる。
その状態で、ちらりと窺い見るのは真正面だ。
馬房の前に立っていた私は、無言でモーリスを見下ろした。
はい。
じゃあ言い訳を聞きましょうか。
「まさか、こんなことになっていると思わなかったんです。厩までは近くだし、すぐに戻るとも伝えましたし。そんな大事になるなんて……」
ふーん。
で?
「う、厩までは実際に、ちゃんと辿りつけたんです! 確かに吹雪でかなり手間取りましたが……でも、馬たちの世話をして戻るだけの時間はあったはずなんです! 体だって動いたし、急いで終わらせればすぐに戻れた……はずで……」
ふーん。
で?
「だ、だって馬たち、寝藁まで食べていたんですよ!? この寒い中、飼い葉も寝藁もなく震えているなんてあんまりじゃないですか! みんな元気もなくて、期待するように私を見ていて……こ、こんなの放って帰れるはずがありませんよ!」
ふーん。
で?
「………………飼い葉は厩の裏手に詰んであるんです。だけど、この吹雪でしばらく見ないうちにすっかり凍ってしまったようでして……。必死で掘り起こしているうちに、だんだんと体が動かなくなって、これはまずいと思ったときにはもう遅く……なんとか、厩までは戻ったんですが…………」
で????????????
「――――――――――すみませんでしたぁあああああああああああ! すべては私の判断の甘さです!!!!!!!」
「よろしい」
地面にこすりつける勢いで頭を下げるモーリスに、私はようやく口を開く。
やーっと言ったか。この馬バカ無鉄砲が。
「事情はわかったわ。鳴いてくれたベアトリスと、声を聞きつけたトビーに感謝することね」
彼らがいなければ、たぶん生きて厩を出られなかっただろうからね。
軽度の瘴気中毒は、首狩り草の薬茶を飲むか、あるいは数日かけて十分な栄養と休養を取ることで回復する。
この厩では薬茶は手に入らず、休養を取るにも十分な場所とは言えない。馬の食べる物すらない場所では栄養なんてもってのほか。ただでさえ瘴気と寒さで弱っているところにこれでは、とても吹雪が明けるまでもたないだろう。
実際、モーリスはかなり具合が悪そうだ。
元気にしゃべっているようでいて声には力なく、顔色も悪い。正座をしているのも、おそらく反省半分、もう半分は立っているのが辛いからだろう。座っていてさえ、体は半ばベアトリスに寄りかかっている状態だった。
それでも、馬たちの世話は最低限終わらせたらしいのはさすがである。
ベアトリスの馬房には寝藁が敷かれているし、飼い葉おけには少量ながら飼い葉が入っている。ちらりと他の馬房を見れば、同じように整えられているようだった。ここまで馬最優先となると、もはや執念である。
ちなみに、馬はどうやら全頭健在らしい。
馬房の木枠の隙間から顔を出し、なんだなんだとこちらの様子を窺っているあたり、しかも結構元気そうだ。
――まあ、まだ閉じ込められて三日だものね。寝藁を食べて凌いでいたみたいだし。
きちんと発酵させて栄養を持たせた飼い葉と違って、寝藁は単なる枯れ草。栄養はあまりないという話だけれど、それでも絶食よりは遥かにマシということなのだろう。
ま、私たち人間だって、茹でこぼして栄養のないカスカスの魔物肉で生きているのだ。案外、なんとかなるものである。
――ベアトリスも、思った以上に元気そうね。むしろモーリスの方がよっぽどだわ。
青ざめた顔で座り込み、ベアトリスに寄りかかる姿はまさに死に体。
どちらかというと、ベアトリスの方こそモーリスが心配で仕方がないという様子だ。気遣うように何度も視線を向けるあたり、本当に賢くて優しい馬である。
そして実のところ、ベアトリスが気遣うのはモーリスだけではない。
彼女の反対側には、こちらも疲れたように寄りかかるトビーがいるのだ。
無敵の図太さに見えて、なんだかんだで彼も気を張っていたらしい。
モーリスを発見して以降、彼はいつものわがままを言うでもなく、すっかり力が抜けたようにベアトリスにしがみついていた。
顔はなんと言うか、若干眠たげである。多分疲れ切っているのだろう。このまましばらく動いてくれそうにはなかった。
さて、こうなると動けない人間が二人。動けるのは非力な私一人。
外は変わらぬ猛吹雪。しかも瘴気がたっぷりときた。
私は腰に括りつけたロープに手を触れて、観念したようにため息を吐く。
「……この調子じゃ、助けが来るのを待つしかないわね」
私ではモーリスを抱えられないし、ロープを持つ私が戻っては、もう二度と厩にたどり着けなくなる。
となると、もう待ちの一手の他にない。
自分だけ立っているのも馬鹿馬鹿しく、私はすとんとその場に腰を下ろした。
それから一応、安心させるようにモーリスもこう告げる。
「心配しなくても大丈夫よ。たぶん、もうすぐ誰かが捜しに来るわ。そういうふうに指示を出してきたから」
なにせ、さっきからちょいちょいロープを引っ張られているしね。
話をしているうちに、いつのまにやら制限時間いっぱい。次第にロープを引く頻度が上がっているあたり、屋敷側の焦りも伝わってくる。
おそらく屋敷に残った人々は、そろそろ異常事態だと思い始めているころだろう。じきに探索隊が組まれ、ロープを辿って誰かが厩まで来るはずだ。
「そういうわけだから、もう少し気を楽にしなさい。姿勢も楽にしていいわ。あんまり気を張っているのも体の毒でしょ」
それだけ言うと、私は馬房の板壁に背中を預けた。
休めるときには休む。心配していても、無駄に体力気力をすり減らすだけ。
特にモーリスは、この場で一番体調が悪いのだ。余計なことは考えず、体力を温存することに集中した方がいい。
――ただでさえ気の休まらない状況なんだから。心配事はできるだけ減らしておいた方がいいわ。
いかに立派な厩でも、この猛吹雪では心もとない。
大荒れの風に太い丸太の梁も軋み、なんとも不穏な音を立てる。
こんな場所で、長々とお説教をする趣味はない。
こまごまとしたことは無事に屋敷に戻ってからだ――。
とまあ、そんなことを考えながら天井を見上げる私に、しかしモーリスは浮かない顔を向けてくる。
「殿下……本当に、とんだご迷惑を…………」
私がどう思っていようとも、当の本人が気にしていては仕方がない。
しかもたぶん、私が責めないからこそ余計に責任を感じているらしいのがややこしい。
モーリスは青ざめた顔をしょぼくれさせ、縋るような目で訴えた。
「私の迂闊な行動で、村のみなさんにまで迷惑をかけてしまい……本当に反省しています。いったい、どう償いをすればいいのか……」
「…………」
償い、ねえ。
吹雪は止まない。屋根の軋みも止まらない。
風が吹くたびギシギシと音を立てる板張りの屋根を見つめながら、私はため息を吐いた。
「…………本当に反省してる?」
「もちろんです!」
モーリスが重たげに体を持ち上げ、前のめりに頷く。
顔色は悪いものの、瞳は力強い。本当に反省しているのだと、言葉よりもよくわかる。
ふむ。
私は一度厩を見回してから、改めてモーリスへと向き直った。
「これからは、こんな勝手なことをしないと言える?」
「はい!」
「私の指示をきちんと守れる? 馬に関することであっても?」
「はい!!」
「このあと私がやることにも、一切文句を言わないって約束できるわね? たとえどんなことであったとしても」
「はい!!!!」
と力強く頷いてから、モーリスは眉をひそめた。
彼は今聞いた言葉を反芻するように首を傾げると、どこかおそるおそる私を見る。
「…………はい?」
彼の顔に浮かぶのは、『なんだかとんでもないことを約束してしまったのでは?』という不安の表情だ。
勘のいい彼に向けて、私はにっこりと笑みを浮かべてみせる。
この厩、立派な木造の建物だね。