23.【イベント】夜毎見る悪夢(2)
それからどうなったかと言えば――――。
「さ、む、い!!!!!!!!!!!!!!!!」
当然のように、私は凍えていた。
暖炉の前に陣取って、火の粉が当たるくらいに体を寄せても、全身の震えが止まらない。
頭から水をかぶったおかげで服はずぶぬれ。髪はびしょびしょ。さりとてこんな場所にタオルも着替えもあるはずがなく、ひたすら火の熱で服を乾かす他にない。
隣では、同じくアントンが震えている。
青ざめた顔で膝を抱き、身を縮めるように火に当たる彼もまたびしょ濡れだ。
ただし、先ほどまでの異様な迫力はもうない。鬼気迫る表情は失せ、今は意気消沈したように目を伏せていた。
ちなみに、護衛の姿はここにはない。
水の当たり所が良かったのか、それとも寒さを感じないタイプなのか。彼は濡れた上着を脱ぐと、身震いを一つしただけで『殿下とアントン殿の着替えを取ってきます』と言って元気に部屋を出て行った。
そんなこんなで、部屋に残ったのは三人。
私と正気に戻ったアントン、それから相も変わらず不愉快そうな顔のトーマスが、ほの暗い部屋で暖炉の火に揺れていた。
「いきなり水をかけるなんて、ありえないわ! 風邪を引いたらどうするのよ!」
「頭を冷やしてやったんだろうが。風邪で済むならありがたいと思え」
「私たちに水をかける必要なかったでしょう!?」
あの場で正気でなかったのはアントンだけだ。
私と護衛は単なるとばっちりである。
「近くにいたんだから仕方ないだろう」
というのに、トーマスは悪びれもしない。
空のバケツを横に転がして、震える私を睨むように見下ろしてくる。
「わしがいなければ怪我人が出ていた。お前だってわかっているだろう」
「む……」
むむ。
たしかに、こればかりはトーマスの言う通り。彼が水をかぶせなければ、おそらく護衛とアントンは揉み合いになっていた。
屈強な護衛と細身のアントンでは、さすがに護衛も負けはしない。だけど手負いの獣のような状態の彼を相手に、互いに無傷で済んだかどうかは怪しい。
我が身を省みない人間は、時にとんでもない無茶をするものだ。無力化させるためには、骨の一本や二本は覚悟する必要があっただろう。
その過程で、護衛が怪我を負っていた可能性もある。そう考えると、水だけで済んだだけマシだったと言えなくもない。
「……そもそもあなた、いつの間に部屋の外にいたの」
なので都合の悪い話は聞き流し、私は話の向きを変える。
これもまた気になっていたことだ。
「あのタイミングで出てくるなんて都合が良すぎるわ。水もどこから持ってきたのよ」
まさか、ずっと部屋の外で控えていたわけでもあるまい。
室内は締め切られ、暖炉の火で暖められているものの、外の回廊はそうもいかない。暖炉もないうえだだっ広く、屋内であっても凍えるほどだ。
もちろん外よりはマシだけど、あくまでマシという程度。今の時期になると村人たちも部屋にこもりきり、部屋の移動すらしたがらない。そんな場所に長々と居座る人間がいるとは思えな――。
「いつの間にもなにも、最初からずっといた」
いるんだなあ。
「冬場の狩りより楽なもんだ。冷たい場所でじっと黙って待っているなど慣れている」
「…………なんでわざわざ、そんなことを」
そう言いつつも、私は苦い顔でトーマスへと視線を向ける。
彼がどうしてあのタイミングで来たのかはわかった。こうなると、水もたぶんあらかじめ用意されていたのだろう。
それからは狩りの要領で、息を潜めて扉の外にいた。私たちが揉めるところを待ち続け、その瞬間を逃さずに飛び込んできたのだ。
…………なんで?
「下手したら一晩中、外で聞き耳を立てることになるのよ? なんのためにこんなことをしたのよ」
「なんのため?」
私の疑問に、トーマスは「フン」とつまらなそうに鼻を鳴らした。
「言っただろう、わしがアントンを見張ると。横入りをしたのはお前たちの方だ」
口ぶりには気負いがない。いつもと変わらず不機嫌で、愛想がなく、突き放すように冷たいまま。
その視線だけが、ちらりとアントンへと向かう。
「こうなるだろうと思っていた。こうなる前に止めてやる必要があった。この男が変わりたいと思うのであれば」
「………………トーマスさん」
俯いたまま、アントンがぽつりと呟く。
消え入りそうな震える声に、トーマスは顏をしかめた。
やはり不愉快そうな――それでいて、今となっては感情の読めない表情で。
「一年半も顔を突き合わせていれば、だいたいわかる。お前が抱えているものも、後悔していることも、あの日のことを繰り返し夢に見ていることも」
「………………」
………………優しい人。
優しい人、ねえ。
――…………なるほどね。
なんとも腑に落ちたような心地で、私は小さく息を吐く。
アントンがトーマスを『優しい』と評したときはなにを言っているのかと思ったけれど、こうなってみるとたしかにアントンの言う通りだ。
「それでも変わりたいと思って、この栽培の仕事を引き受けたことも。だったら水を引っかけてでも止めてやるべきだろうが」
思えばトーマスは、アントンを犯人だと言いきつく責め立てながらも、彼を栽培から外そうとはしなかった。
最後までやらせてやろうとしていたのだ。
アントンが、囚われた過去から抜け出せるように。