彼女が愛した幻は
「君が愛しているのは私ではない!」
この王国の貴族子女が通う学園の卒業パーティで、侯爵令嬢である私の婚約者だった王太子殿下はおっしゃいました。
殿下の隣には、彼が学園に入学してから仲良くなった男爵令嬢アマポラ様がいらっしゃいました。
アマポラ様の可愛らしいお顔には嘲笑が浮かんでいましたっけ。
「君が愛しているのは理想の王太子という幻に過ぎない! 真実の私を愛してくれているのは彼女、アマポラだけだ。私は君との婚約を破棄して、アマポラを妃とする!」
だれもがそんなこと無理だと思いました。
だってアマポラ様は男爵令嬢に過ぎなくて、私の実家の侯爵家は王国一の権勢を誇っているのですもの。
ですが、だれからも理想の王太子だと思われていた殿下は、親友であった公爵令息の助力もあって王太子の座を失うことなくアマポラ様を新しい婚約者になさったのです。
……ご自身は幻だとおっしゃいましたけれど、殿下は本当に理想の王太子でいらっしゃいました。
国のため民のため、無理をしてそう演じていらっしゃったのかもしれません。
一番近くにいながら、愚かな私は真実の殿下に寄り添えず、そのお心を癒すことも出来なかった役立たずだったのでしょう。
でも、その幻にはひとかけらの真実もなかったのでしょうか。
周囲からの期待に応えて理想の王太子を演じていらしたのだとしても、仮面の下にはいつも真実の殿下がいらっしゃったはずです。
同じ理想の王太子を演じていても、真実が変われば見えるものも変わったはずです。
私は王太子殿下をお慕いしておりました。
理想の王太子が幻だったとしても、国のため民のためにそう演じていらした真実のお心を含めて愛していたのです。
私が理想の王太子妃を目指していたのが、殿下を愛する真実の気持ちからだったように、幻の向こうにはいつも真実があったのだと、私は今も思っています。
★ ★ ★ ★ ★
文武に秀でた王太子の尽力で新しい婚約者となったアマポラだが、妃教育は遅々として進んでいない。
王太子がそう望んでいるからだ。
彼が求めているのは無邪気で奔放な男爵令嬢で、かつての侯爵令嬢のように自分を律した理想の王太子の婚約者ではない。
あの侯爵令嬢を退けてまで王太子の婚約者になったのに、と周囲はアマポラに侮蔑の視線を投げかけてくる。
仕えてくれる侍女達からも心からの忠誠は感じない。
そもそも王宮の侍女達は男爵令嬢に過ぎないアマポラよりも高位の貴族令嬢達だ。
王太子の婚約者として、アマポラはいつも監視されている。
ひとりになれるのは、王宮で与えられた寝室で天蓋付きの寝台へ入り、四方の布を降ろしたときだけだ。
いや、本当はひとりではない。
「……ふ、ふふふ、ふふ」
アマポラは寝台に隠してある箱の鍵を開けて、壺を取り出した。
壺には蓋の代わりに頭がある。
公爵令息の頭だ。四肢はなく壺の中には最低限の内臓がある。
アマポラは生きた人形だった。
恋した公爵令息の言うままに王太子好みの女性を演じてきた。
だって幻の女性として王太子を篭絡出来たら、公爵令息が愛してくれたから。アマポラに愛を囁く公爵令息もまた幻だったけれど、それでもかまわなかった。
公爵令息は頭と内臓だけで壺に入れられていても生きていた。
光のない瞳はアマポラを映さず、唇から漏れ続ける呟きは意味を成していないが。
これはこの国の王家に伝わる秘術だった。
アマポラは王太子に公爵令息との関係が気づかれて、そのままふたりで処刑されてしまうのが理想だったのだけれど、今の状態も悪くないと思っている。
「……アナタが好きよ。アナタが本当は侯爵令嬢が好きでも、アタシに演じさせた王子様好みの女性が妃教育を始める前の侯爵令嬢の姿でも、王太子妃になったアタシにアナタの子どもを産ませてくれると言ったのが嘘でも、アタシに愛を囁いていたアナタが幻でも……ずっとずっと大好き」
最初から利用されていることはわかっていた。
それでも好きだった。
王太子を虜にするたびに愛を囁いてくれるのが嬉しかった。それが幻でも良かったのだ。
とはいえ公爵令息が王太子に婚約を破棄された侯爵令嬢と結ばれるのは嫌だった。
だから王宮へ上がってから、愛しいアマポラの姿が演じているだけの幻ではないのか、本当は男爵令嬢に前の婚約者の面影を見ていただけではないのか、そう気づき始めていた王太子を公爵令息と睦み合っている現場に誘導したのだ。
王太子はアマポラに演じ続けろと言った。自分はその幻を愛し続けると誓った。
そしてその代償に公爵令息をくれたのだ。
公爵家の人間は令息の末路を知って受け入れている。
アマポラと令息がやったことは国家反逆罪だ。一族郎党が処刑されてもおかしくないのだから、令息が壺に入るくらいで済めば恵まれている。
アマポラと王太子が結ばれることはないだろう。
さすがに閨の中でまで演技は出来ないし、公爵令息に演技指導もしてもらえない。
後継にはどこかから養子を取って、アマポラと王太子はこれからも幻を愛して生きていく。
「ねえ、気づいてた? ときどきアナタが間違えて、アタシのことを侯爵令嬢の名前で呼んでたこと。今もあの人の名前を呟いてるのかなあ?……ううん、それでも良いの」
アマポラは公爵令息の唇にキスをした。
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幻の中にも真実があるのです。
理想の王太子殿下の隣に立ちたくて、必死で理想の王太子妃を目指していた私のことを好ましいと言ってくださる方が現れました。
理想を目指し幻を演じる心の奥にある真実を認めてくださったのです。
私はその方に嫁ぐことになりました。
王太子殿下に婚約破棄された当初は殿下の親友だった公爵令息との縁談の話があったのですが、彼はアマポラ様が殿下の新しい婚約者になってからしばらくして、婚約破棄を止められなかったことの責任を取ると言って国を出たのです。
私はそう聞いています。
幼いころは殿下と三人で仲が良かったので、公爵令息が私との縁談が嫌で国を出たとは思いたくありません。
ありませんが、公爵家の令息でありながら学園を卒業しても婚約者がいない状態だったのは、昔からだれか愛する方がいらっしゃったのかもしれないと考えてしまいます。
……もしかしたら彼もアマポラ様を愛していらっしゃったのかもしれません。アマポラ様のご実家の男爵家は、公爵家の寄子貴族だったのですもの。
今の私が愛している未来の夫も、理想の自分を目指していらっしゃいます。
それもまた幻かもしれません。
けれどその幻の奥にある真実も含めて、私は夫を愛して生きていくのです。