9 羽化
父と沙瑛二人きりの見知らぬ土地での生活が始まったものの、その実態はほとんど沙瑛の一人暮らしのようなものだった。帰りの遅い父と平日に顔を合わせるのは朝食の時くらいで、特に言葉を交わすこともなかった。
この時期のことは、ほとんど憶えていない。
月に数度は沙瑛が一人きりになる夜があり、食事はやけにカレーが多かった。沙瑛が一人で温めて食べることができるからだ。次の日の朝は、一人で起きて学校へ行った。
学校の中庭に大きな温室があった。そこで飼育されている蝶やその幼虫たちを観察するのが沙瑛たちの仲間内での流行りだ。温室内の世話を担当している教師から幼虫を分けて貰い、家で育てた。
最初の頃、沙瑛は幼虫も成虫も触ることができなかった。あの柔らかくうねうねとした細い体をつまむのが何とも言えず恐ろしかったのだ。
ちょうど授業で虫の変態などを取り扱う時期だった。立派な温室のあるこの学校では教材に事欠かなかったのだろう、実物が否が応でも視界に入り、観察を強いられる。
そのうちに、なんだか幼虫のことがかわいく思えてきた。春の色をした細いもの、黒に白い斑点のあるもの、毒々しく派手な色をしたもの。
色合いも大きさも好む植物も、何もかもが違うのにそっくりな幼虫たち。懸命に葉をかじったり、むにむにと這う、同じく校内で飼育されている鶏に見つかれば逃げることもできないであろうちっぽけな虫。
ぼんやりと眺めていると、あっという間に時間が溶けていってしまうようだった。
葉の裏に隠れて、敵に見つからないように息を潜めることしかできない幼虫が、変態して羽を得る。自由に空を飛び回るのはどんな感覚なのだろうか。自分で制御して飛ぶのならきっと酔ったりはしないのだろう。
家で世話ができるのはサナギになるまでだ。蝶になってしまえば、小さな虫籠の中に閉じ込めてはおけない。
羽化する前に温室に戻してやらなくては。今日は学校に連れて行こうと、慎重に籠を持ち上げる。
昼休み。温室に入り、ふたを開けた虫籠を静かに置いた。羽化したらそのままこの温室内に飛び立ち、花の蜜を吸うことができるだろう。週明け、次に登校してきた頃にはもう籠の中には誰もいないかもしれない。
羽化するところを見られないのは残念だが、植物がいない自宅にいさせてはいたずらに虫の命を奪ってしまう。仕方がない。
同じく幼虫を家に連れ帰っていた友人たちと、サナギの入った籠を並べて眺めながら話す。
「また来年も先生にお願いしてさ、幼虫育てようよ。今からお花育てたらチョウチョになっても家で飼えるかなあ?」
友人の提案に、沙瑛は相槌とも唸り声ともつかない曖昧な音で返した。おそらく、沙瑛は来年の今頃もうここには居ない。きっとこの虫籠ももうこれきり使うことは無いだろう。
しかし、居なくなることが決定したわけでもない。言葉が見つけられず、ただ友人たちの会話を聞いていた。




