教わらなかったこと
大学生になったある日、自分の今までの人生を振り返った。
本当にこの道でよかったのだろうか?
このまま進んでもよいのだろうか?
自分の学んだことは本当に正しかったのだろうか?
スマートフォンが普及しSNSで昔なら一生関わらないはずだった人間と画面越しでコミュニケーションをとるようになった。
テレビや新聞を見なければ知ることもなかったニュースに目が行く。
政治家の汚職から承認欲求モンスターの迷惑行為まで流れてくる。
みんな同じことを学んできたと思っていた。
家などの身柄は違えど同じことを学んでこれた同士だと思っていた。
みんなどこかでやったらいけないことの線引きくらいできるものだと思った。
多分この考えはみんなどこか思っていたんだと思う。
だから誰も教えてくれない。
先人は自分たちの知ってることを共通の認識だと思っている。
自分の普通は隣は異端で、隣の普通は自分の異端で。
同じ価値観の人間で集まって、イレギュラーを貶める。
気づかない無意識の選民思想が人との壁を作る。
救われない人間は救いを求め、自ら地獄に歩んでいく。
学校では教えてくれない。
それは『常識』
みんな言う。
「常識で考えろ」
常識を僕たちは教わらなかった。
授業もなかった。
只過ごした数年で得た『なんとなく』が常識に代わるのだ。
僕たちの世代は先人の失敗を知りすぎた。
小さな失敗が許されなくなった僕たちは改善する精神をなくしてしまった。
改善できないから壊れていく。
修正できないから狂っていく。
助けがないから死んでいく。
15~6で飛び降りる人生の原因はなぜだろうか?
自らの失態を面白いと勘違いし人生を終わらせたがる破滅的な承認欲求が出てきたのはなぜだろうか?
みんな自分がないのだ。
僕らは多くのことを学んできた。
国語、数学など様々な教科を学んできた。
教科しか学んでこなかった。
教えてくれなかった。
失敗だけ許されなくなった。
理想を押し付けられた。
かなわずに失望された。
たまりにたまったストレスは自身を認めてくれる場所を求めてしまった。
自身を認める場所はこの世にはなくて他人を下げることでしか生きられなくなった。
僕たちは知りすぎたのだろうか?
それとも知らなさ過ぎたのだろうか?
正しさがわからない世界で、正しく生きた英雄にあこがれる。
この世に救いはないのだ。
意志を持たぬ亡者を助けてくれる者はいないのだ。
僕はこれからも歩き続けるだろう。
何度も挫折するだろう。
そのたびに泣いて救いを求めるのだろう。
救われ方も知らない。
幸せになる方法も知らない。
生きるのに必要なことは何一つ教わらなかった。
ただ生まれたのなら何かなせるように生きていこう。
18歳の生意気な考えでした。