エピソード 1
1980年代の日本を舞台に書いてみました。スマホもなく、パソコンも普及していないところからのスタートです。汗 (途中から、ポケベル、携帯電話と普及していきます)
あの頃、仕事が出来て余裕のあるかっこいい大人がたくさんいたんですよねぇ。。(遠い目)
エグゼクティブ・チーム
エピソード1
静まり返った深夜の街を、男を乗せたタクシーが進んでいく。この男、藤森涼という。学生時代、バスケットをしていたからか、手足が長く、すらりとした体形だ。前髪をかきあげ、アルマーニのスーツを軽く着崩している。子どもの頃から脳科学に異様なほど興味があり、留学先から帰っても、そのまま大学院の研究室にとどまっている。
その日は、とある大学病院との合同プロジェクトが無事終了したことで打ち上げに参加していたのだ。窓を少し開けると、夜風が酒で火照った頬に心地いい。藤森を乗せたタクシーは、彼の自宅マンションに向かって海沿いの道を行く。視線の先では、月が波間に光を躍らせていた。
「そこの角でいいよ」
「分かりました」
タクシーを見送ると、吸い寄せられるように波打ち際までやってきて、水面に輝く月の光を眺める。長らく外を歩いた記憶がない。そういえば、気に入って観ていた大相撲も、先の夏場所でだれが優勝したのかさえ知らない。こんなに集中して仕事をしたのは、久しぶりだ。
ゆっくりと深呼吸をすると、藤森は街中に向かって歩き出した。月の光は水面に限らず、住宅の屋根にも降り注いで、すっかり街の風景を変えている。異世界に来たような不思議な感覚を味わいながら進んでいくと、小さな足音が聞こえてきた。
不安げなその足音の主は、月の光を浴びてふわりと空から降り立ったように、交差点の角から現れた。ふんわりとしたシフォンのブラウスにひざ丈のチェックスカート。いわゆるハマトラファッションだ。出会いがしらにぶつかりそうになった女性は、「ごめんなさい」と丁寧に頭を下げると、再び何かを探す様に歩き出した。
こんな夜更けに大丈夫なのか? 藤森の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。そのまますれ違って数歩も行かないうちに、車のブレーキ音とズカズカと派手な音楽があふれ出した。
「ねえねえ、彼女。どうしたの? これから一緒に夜のドライブなんてどう?」
「え? いえ。結構です」
「なんだよ。冷たいこと言わずに。こんな遅い時間に一人じゃ危ないよ」
「い、いや!離して!」
異変に気付いた藤森はすぐさま踵を返す。
「おい、なにやってるんだ!」
「ち! 男連れかよ」
車はすぐにその場を去っていった。
「あの、ありがとうございました。」
「いや、それはいいんだが、さっきから何か探しているのか?」
「そうなんです。カバンに入れていたはずのウォークマンが無くなっていて…防波堤で音楽を聴いていたので、そこまでは確かにあったんですが」
困り果てた様子は迷子のようだ。藤森はとりあえず海岸まで付き合うことにした。ウォークマン、それは、最近発売された携帯型音楽機器だ。多くの若者が列をなして買い求めたとニュースでも取り上げていた。
「今日は月が大きく見えるね」
「そうなんです!だから、波に輝く月の光をゆっくり堪能したくてつい遅くまで居座ってしまって…。」
再び月の光が跳ね回る海岸沿いまでやってくると、その輝きに藤森がぽつりとこぼした。それまで迷子の様だった女性は、ぱっと破顔して答えながら、自分の立場に気付いて尻すぼみになっていく。
「あ!ありました!」
見ると、防波堤の手前にぽつんとシルバーに輝く機器が見えた。
「ちゃんと動くか試した方がいいな」
「はい。」
ヘッドフォンを耳に当ててスタートボタンを押すと、静かなメロディーが流れだした。
「ありがとうございました。ちゃんと動いています。ほら!」
女性は、藤森の耳にヘッドフォンを当てた。
「あ、この曲は…。ドビュッシー?」
「ええ、月のひかりです」
「うん、いいなぁ。少し聞いててもいいかな」
繊細なメロディーが目の前の情景に同化していく。ん、悪くないな。1フレーズ聞いたところで、少し名残惜しいとさえ感じながら、ヘッドフォンを返す。
「さて、では自宅まで送ろう。もう、落とし物はないか?」
何気なく言う藤森に、女性の頬がほのかに赤らんで、恥じらうような笑顔になった。
「何から何まで、ありがとうございます」
彼女が出てきた交差点の角まで送ると、羽衣がフワっと流れるように微笑んで去っていった。
自宅マンションまであと数分、藤森は頭の中でドビュッシーの月の光を再現しながら月夜の街を楽しんだ。
つづく
読んでくださってありがとうございます。
よろしかったら、ブックマーク、評価をお願いします。