焔天明は裏切った
空が白い。肺を膨らませて呼吸が出来る。汗が引いた。爛れた服は未だに皮膚と仲良くしている。塔は頭を押さえて蹲った。黒煙を吸いすぎたか、熱くなりすぎたか、俺の頭は気づかぬうちにダメージを負っていたんだろう。直ぐに治るだろうが。
意識的には「アルカナ」と口にしたつもりでも、出てくるのは掠れた咳だけだ。小刻みに痙攣している指先では暫く筆など持てそうにない。
ここは、焱ちゃんに雑に下ろされた無傷のアパート屋上。俺と祀が燃やした一帯が見える距離であり、空気には微かな熱が混ざっていた。
俺は仰向けに倒れた体を動かせない。同様に、隣に投げ捨てられた祀も動けない様子だった。審判からは薄く煙が上がっている。
俺達を放り投げた焱ちゃんは、屋上から何か見下ろしていた。
「焚火ちゃん、凪がすっごく疲れてるわ」
「疲れることをお願いしましたから」
「お願いっていうか脅してたわよ?」
「受け取り方って人それぞれですよね」
何やらよく分からん会話をしている。かと思えば「あら、帰っちゃった」とユエの残念そうな言葉を耳にし、俺は深く息を吐いた。
「……ぇんちゃん」
「あぁ、意識あったんですか」
頭の途切れた呼びかけを焱ちゃんは拾ってくれる。俺は体を起こそうとしたが、塔が呻くので断念した。力の入れ方がいまいち思い出せないことも理由の一つだ。
立っている焱ちゃんは白い瞳で俺を覗き込み、段違いの髪が肩から流れ落ちた。
「約束通り、止めませんでしたよ。焔さんが朱仄さんと戦うの」
「そ……だな」
「見てるこっちに気づかないのは結構ですけど、心中を図るとは予想外でした」
「じこだ」
「そうですか」
予告なくしゃがんだ焱ちゃんの目は何を考えているかさっぱり分からない。食い入るように俺を見ているかと思えば、横目に祀へ視線を向けたようだ。また直ぐに、視線は俺に戻るのだが。
「死ぬのも止めないのが正解でした?」
ガントレットをつけた指先が俺の喉仏に触れる。冷たさは墨が染みる速度で喉を圧迫し、焱ちゃんは続けるのだ。
「心中の続きがしたいなら、あちらまで送り届けますが」
片手は俺の喉に添えたまま、焱ちゃんはもう一方の手を業火の海へ向ける。真っすぐ伸びた指先に迷いはなく、俺が頷けばこの子は本当に送ってくれるのだろう。
だから俺は首を横に振り、少しだけ目を細めた焱ちゃんに視線を固定した。咳をすれば徐々に喉が楽になっていくと分かる。
「俺は、止めてくれるな、としか言ってないからな」
「そうですね」
「だから、助かった。丸焦げも身投げも、即死とならなければ地獄も同然」
「灼熱地獄に落ちるところだったと」
「正しく」
「おれには……きっと、その地獄がおにあいだったよ」
所々覇気のない声に焱ちゃんと一緒に顔を向ける。
俺と同じように倒れている祀は、その目尻から細く涙を流していた。焱ちゃんの指は俺の喉から離れ、ソルレットを鳴らしながら祀の頭側にしゃがむ。
少女の指は祀の額に乗せられた。
「お久しぶりです朱仄さん。私のこと覚えてます? 月の光源、篝火焚火と申します」
「おぼえてるよ、かがりびさん」
「それはよかった。制服代、まだ貰ってないんですけど」
「そうだったね」
祀が力の抜けた顔で笑う。焱ちゃんの指先は祀の額を滑り、男が目尻から零した涙を掬った。祀の瞼は静かに閉じられる。
「朱仄さんは火達磨でダンスがご趣味で?」
「いいや」
「では地獄行きをお望みで?」
「そうだね……」
目を開けた祀の目が俺の方を向く。それ以上無駄口を叩くなら殴ってやりたい所なのだが、未だ体に力は入らなかった。
「おれは、多くの光をきずつけすぎた」
「その光が貴方の地獄行きを望んでいると思うんですか」
焱ちゃんの指先が祀の頬に食い込む。水分の減った肌は皺を寄せながら破かれ、審判が肩を震わせた。
「幸せな頭ですね」
ガントレットの指先が深く深く祀の頬へ埋まっていく。祀の口はゆっくりと開き、不意に肉が貫通する音を聞いた。思わず、鳥肌が立つ。
呻き声を漏らす審判は黒い血を吐き出した。祀は微動だにしない。
焱ちゃんの指は完全に、根元まで、祀の頬に埋まっていた。
「誰かを傷つけました。不快にさせました。だから謝罪します。頭を丸めます。土下座します。何をしても償えないから死んで詫びます?」
「っ、」
「それは傷つけた側の自己満足ですよ」
壁を這い上がってきたバクがいる。俺は上半身に力を込めたが、水分を取っていないせいで体が思うように動かない。それは祀も同様で、焱ちゃんの指は前置きなく引き抜かれた。
「傷つけられた側の気持ちって、二つではないでしょうか」
立ち上がった焱ちゃんは、蠅の頭に蛇の胴体を持つバクを見る。相変わらず気持ちの悪い存在を少女は問答無用で殴り飛ばし、慈悲なく解体し始めた。
黒い液体をまき散らし、頭と胴体を分離させる。引き千切って、引き裂いて、異形が完全に死ぬまでなぶる。そうしなければ少女は止まれない。
白いガントレットを黒く染め、焱ちゃんはバクの頭を叩き潰した。
台風のような制圧に祀から唖然とした空気が感じられる。なんとか体を転がしてうつ伏せになった俺達に対し、焱ちゃんは笑わなかった。
いつもの書きやすい笑顔を、今日の彼女は浮かべていない。一度だって笑っていない。
無表情の焱ちゃんは淡々と語り出す。
「一つは、二度と関わって欲しくない気持ち。死んだことだって知りたくない。ただただ平穏の中にいたい。思い出したくもない。金輪際、自分の平和を崩さないで欲しい。忘れたいんですよね、存在を。綺麗さっぱり。恐怖も痛みも忘れて進みたい」
黒く汚れたアルカナを撫でる少女。背後に控えるは白銀の月。
「もう一つは、目の前で苦しんで欲しい気持ち。死にたいのに死ねないギリギリで藻掻いて、詫びて、死んだ方がマシだと叫ばせたい。再起不能にしたい。幸せになって欲しくない。死後に地獄へ行くのではなく、生き地獄にいて欲しいですよね」
焱ちゃんが無造作にバクの頭を地面に叩きつける。
弾けた影は黒く溶け、少女の白い瞳が輝いた。
「……怒っているのか、焱ちゃん」
思わず問えば、焱ちゃんのこめかみに青筋が浮かぶ。少女の瞳孔が収縮する。
……藪をつついたな、これは。
感じた瞬間、俺の顎を硬い靴が蹴り上げた。視界が回って数秒暗くなったが、次の瞬間には額を掴まれ、後頭部を叩きつけられていた。なんとも過激。触れたのは逆鱗か。
「ぎッ! あ"! 焚火ッ!!」
「黙っていなさい、塔」
俺を跨いだ焱ちゃんの目は冷ややかだ。バクの黒い粘液を顔になすりつけられたが、拭く許しなど出ていない。
「ムカつくんですよ、笑ってたのが」
焱ちゃんの顔に髪がかかる。ソルレットに胸を踏まれ、肺の広がりを制限される。
「焔さんは審判を剥がしたかった。朱仄さんは塔を剥がしたかった。だからあれだけ猛火を広げたんですよね。見てましたよ。見届けようとしたんです。どちらの光が消えるのか。どちらの影がいなくなるのか」
靴底が俺の胸を踏みにじる。何か言いかけた祀の上にはユエが足を組んで腰掛けた。
この場を仕切るのは、二つの月か。
「あの猛攻が続いた結果の落下なら、それも見届けようと思いました。あの高さから落ちれば火達磨になるより即死の可能性の方が高い。塔と審判は離れて、焔さんと朱仄さんは焼却されて。でも、それが、最期までお互いにどうにかしてやろうと殴り合った結果ならいいです、が」
一瞬だけ、焱ちゃんの声が震える。足を上げた少女は強く俺の肺を踏み、骨が軋んだ。流石に呻きが漏れるぞ。
俺が眉を寄せた時、温かい雫が落ちてきた。
「諦めましたね、お二人とも。落ちる時、その瞬間。もう満足したみたいな顔しやがりましたね。仕方ないって感じで笑いやがりましたね。決着をつけず、なぁなぁで、勝手に、二人で。やり遂げて燃え尽きるでもなく、不完全燃焼でもいいかみたいな雰囲気で。ほんとに、心中みたいに」
見たのは、顔を歪めた焱ちゃんの姿。
その下瞼から零れた雫が、俺の頬にぶつかって。
少女のガントレットは音を立て、喉を絞った声が続いた。
「そんなぬるい覚悟なら、人に命令するなよ。中途半端で、友達ごっこして、まぁこんな最期もありかみたいな顔して。お前の願いは何なんだ。お前は何がしたかったんだ。散々人を怖がらせて、領域を踏み荒らして、私が、期待を、消そうって、思った瞬間! 笑いやがってッ」
焱ちゃんの瞼が固く閉じる。涙が数滴、俺の頬に落ちて流れる。
彼女の言葉が、俺の胸を焼いていた。
「逃がさないって、置いていく理由がないって……ほんとだったのかもなって。見てるうちに湧いてきた期待を、諦めて、見届けてやろうって、思ったのにッ!」
唇を噛み締めて、誰との縁も捨てられない少女を見つめる。
自分の声が脳裏に浮かぶ。
『なぁ焱ちゃん、どうして俺が置いて行かないといけないんだ? 先に焱ちゃんを見つけたのは俺だろうに』
あぁ、そうだ。俺が言ったんだ。俺がこの子に、言ったんだ。
『篝火焚火、俺は絶対にお前を逃がさない。そう決めている。だから奪われるなんて以ての外だ』
自分が置いていかれると、捨てられる側なのだと思い続けていたこの子に、俺は言った。
逃がさないと。
捨てないと。
置いて、行かないと。
なのに俺は、焱ちゃんが言う通り、自分達の炎に焼かれるならいいと……思ったんだ。
審判を剥がしもせず、言葉だけで最後は片付けようとして。そういえば焱ちゃんは泣き虫だったと少しだけ思い出して。
瞼を上げた焱ちゃんは俺の胸から足を退け、いつも筆を握る右手を踏みつけた。
手の甲に浮いた関節がすり潰され、塔が低く身もだえる。
不意に体重がかけられたと思えば、俺の右手は簡単に、骨が折れる音を上げた。
「……うそつき」
消える。
光が入りにくい焱ちゃんの瞳から、輝きが消える。
拭き消された蝋燭のように。
一瞬で、簡単に。
俺の胸にも隙間風が吹き、冷や汗が浮かぶ錯覚を抱いた。
「焱ちゃ、」
動かした手は少女の足首を掴めず終わる。
迷いなく動いた焱ちゃんは祀の首を持ち、審判に視線を向けた。
「賭けは終わりました。私が動かない理由はもうない。だから決めてください審判。私がこの善人の首をへし折るか、貴方が光から離れるか」
ガントレットの指が祀の喉に食い込んでいく。退いたユエは何も言わない。祀も抵抗していない。
喋らない審判は焱ちゃんを見つめ、少女の腕は揺るがない。
彼女は恐怖を潰さなければ耐えられないから。その任を俺が全うしなかったから。
「やられたらやり返されるんです。因果は巡るんです。覚悟はありましたよね?」
涙を止めた少女の腕から、黒い雫が滴った。




