篝火焚火は弛まない
ガントレットが砕かれた。
水のエースの核が砕かれた。
砕いた猫はいなくなった。
〈Unknown〉
スマホの連絡先を開き、焔さんと私、夕映さんでまとめていたチャット画面を開く。そこにはアカウントが消された形跡があり、焔さんと私だけが取り残されていた。
最近は動いていなかった画面。消えたあの人が焔さんとギクシャクしやがったから。
夕映零さんは、水のエースを破壊してから、私達の前に現れてない。
***
テストの点はそこそこだった。どれも赤点ではなかったし、平均点以上あったし、十分すぎる。補習期間に登校する理由はなく、後は終業式を待つだけとなった。早くやってこい夏休み。
テスト返却最終日、私は終礼後に職員室へ向かう。拒絶され、逃げ去った白衣を探して。今日を逃せば暫く会う口実がなくなってしまうから。
「夕映先生はおられますか」
入室が可能になった職員室入口から声をかけ、席にいた夕映先生がこちらを向く。目の下に隈を増やした大人はぎこちなく笑っていた。
私が動くより先に、立ち上がった先生がやって来る。廊下に出れば私も先生も雑多の一部に成り下がった。
「こんにちは、篝火さん。やっぱりテスト、良い点だったね」
「こんにちは、夕映先生。先生の問題が易しかったお陰ですね」
社交辞令を口にして先生の眼鏡を見つめる。視線を逸らしている彼は、私が喋るよりも先に口を開いた。先手を取られてばかりだな。まぁいいか。
半笑いの大人が始めたのは、弁明だ。
「あの日は別に、零に会おうとしてた訳じゃないんだ。たまたま偶然だったんだ」
「そうなんですね」
「愚者が、レリックが近くにいるって教えてくれて、俺も仕事が落ち着いてたから、ハイドに行って。そしたら、会っちゃって」
「そうですか」
「そう、だから、その……まさか零に、興味も持たれないなんて、思ってなくて……ね」
夕映先生が脱力気味に後頭部を掻く。疲れた彼の目元には影が落ち、口角は糸で引っ張っているかのように上がっていた。
「……自惚れてたよ。俺は零に、恨まれる価値すらなかったんだ」
眉を下げた先生に目を細める。
私は揺れた影に一度視線を落とし、直ぐに満点笑顔を浮かべてやった。
「だからまた逃げるんですか?」
先生の喉仏に力が入る。見開かれた目元が引きつったと眼鏡越しに観察する。
背中を廊下の壁に触れさせた先生は、白衣のポケットに両手を入れた。
「私は、夕映さんが何に、どうして、あれほど怒っているのか知りません。あの人は他人の心情を土足で荒らすくせに、自分の領域は入り口すら見せない人ですから」
あの日、夕映さんの行動は光源として正しかった。レリックの核を壊して影法師を自由にする道を切り開く。それが私達に願われたことなのだから。
夕映さんは何も悪くない。しかし別に、割り込んだ先生が悪かった訳でもない。
泣いたユエさんが悪かったのかと言えば、それも違う。
煤になった水のエースを思い出す。
強烈な一撃。止まらぬ激情。並々ならぬ覇気。
それでもアイツは、ナイフを捨てた。ユエさんへ向かって走り出したその時に。
ほのかに熱が残った煤に私は心を見つけられなかった。
だが確かに、エースに心はあったと思うから。
あの場に悪い奴などいなかった。
いたのは自己本位な、愚か者達だけだった。
私はスカートのポケットの中で、一つ繋がりを失ったスマホを握り締めた。
「私も焔さんも、夕映さんの友達かと言われれば即答しかねます。私達は光源という肩書きで繋がっているだけですから。……ですが先生」
自分の顔から笑みが落ちる。先生の肩に力が入る。
「先生は、逃げない方がいいんじゃないんですか。視界に入れてもらえなくとも、信頼されていなくとも、それは相手を心配しないに繋げなくていいと思うので」
だってそうだ。貴方の願いはそうじゃないか。
何年も会っていなかったんだろ。ずっと見ないふりを続けていたんだろ。背中を向けて、耳を塞いで、見ないふりを続けていたんだろ。
それでも、それでも貴方は。
「先生は、夕映さんを忘れていなかったんですから」
私の影が大きく揺れる。
先生の影から、滲むように愚者が現れる。
廊下の隅だけ空気が冷たくなり、目を見開いた先生は固まっていた。
「人は、簡単に忘れます。意識を向けず、視界の外に追い出し続けていれば、自然と時間が消してくれるから。事実を曲げて、罪悪感を希釈し、新しい一歩を出させてくれるから。でも先生は忘れていなかった。忘れてないから願ってしまった」
消してしまえば楽なのに。忘れてしまえば貴方は隈など作らなかったのに。酷い顔で自責の念に駆られることもなかったのに。
思い出したのは、忘れられない罪悪感を背負った光源。赤い瞳を輝かせ、業火で他者を救おうとする愚か者。審判を引き連れた自己中の善人。
彼と先生は似ていますね。誰かの為に動き、自分以外の者の為に願えた人なのだから。
「封寿」
愚者が先生の白衣を引く。青白い手が光に触れる。
夕映先生の瞳に滲みが認められた時、彼は片手で目元を覆ってしまった。
だから私は顔を背けて、今日も青すぎる空を見上げたのだ。
ねぇ先生。
先生はどうして、アルカナで盾を創ったんですか。
その盾で守りたいものは、なんですか。
なんて聞くのは愚問だから、良い子の私は吞み込んだ。
***
「ハイドに行きたいんですけど」
「だ、駄目よ」
この体たらくな茶番をどうしてくれようか。
コンクリートの照り返しが暑い高架橋の下。日暮れが遠くなり、今も空は青いばかり。日陰と言えども熱気はこもるし喉は渇く。不快指数は上昇中。
私はガントレットの肘から風を出し、今日もきっちり着物を着ている焔さんに向けていた。先日から駄々をこねるユエさんに呆れながら。
「では今日も私は留守番で、焔さんと塔だけがハイドに行くと?」
「あ、う、うぅぅ、」
「まー俺達はそれでも構わねぇけど、」
「塔はちょっと黙っててください」
「お、おう」
冷たい空気を発しながら手をこまねくユエさん。彼女の隣では塔が浮遊し、焔さんは黙って風を受けていた。彼の手には直った大筆が握られている。
「レリックとのいざこざは全て焔さん達に丸投げしていいんですか?」
「ぇっと、」
「でもハイドには行かないといけませんよね? 私はかれこれ三日ほどバクを捕まえてないんで、食べ物は調達しないと。怖いですけど」
「その、」
「というかそもそもレリックってどれくらい残ってるんです? けっこう倒してきましたよね。そろそろいなくなりません? 私の願いが叶って味覚と痛覚が戻るのもあと少しだったりしません?」
「あ、た、焚火ちゃん……」
「ユエさん」
名前を呼べばユエさんが固まる。それからボロボロと泣き出すのだから私がイジメてるみたいではないか。まぁちょっとイジメてるんだけどさ。
さめざめと顔を覆ったユエさんを塔は慌てて抱き寄せ、背中を摩っていた。きょうだい愛とは素晴らしいですね。それで私の食糧貯蔵数が減ってる事実を丸め込ませる気はないんですけど。
「た、焚火! そうだな、レリックはもう残り少ねぇと思うんだ! エースはもう火しか残ってねぇし!!」
塔が仲介しようと頑張るが、影法師は相変わらず喋るのが下手だ。あーだこーだと私の意識をユエさんから離そうとしている。私が爪先で地面を叩けば直ぐに黙った。良い子だね。
影法師の冷たい空気と混ざった風を浴びている焔さんは、今日も片頬を上げていた。
「焱ちゃんのバクなら俺が取って来ても構わんが?」
「貢がれるのはちょっと」
「褒美は焱ちゃんの記入済みノートでいいぞ」
「通報案件」
「何故」
私は腕に浮かんだ鳥肌を摩り、カフェで顔合わせした時を思い出す。そういえばコイツ、人の文字が欲しいとか言って名前を書かせてきたな。
先日は稲光さん・夜鷹さんと喋った内容をメモしたノートが欲しいとか言われたし。帰り際に「いくらでくれる?」と真顔で聞かれた時は本気で指が一一〇を押しかけた。非売品だわ畜生。
筆を肩に担いだ焔さんは「褒美の話はまたとして、」と話の筋を戻してきた。褒美の話は白紙にしろよ怖いだろ。
「ユエにその気がないならば、今日も焱ちゃんがハイドに行くのは不可能だろ。出来るとすれば互いに落ち着くまで話をすることだな。バクは俺が届けよう」
「ご親切にどうも」
「こうして冷風を送ってもらっている礼としてな」
毛先を少し靡かせて、焔さんが意地悪く笑う。勘違いどうも。貴方に風を送っていれば影法師の冷気が混ざり、私も微量の冷風が感じられるってだけだよ。ガントレットは肘から風を出す仕様なので自分に向けるなんて出来ないし。
理由をぐだぐだ説明する気もないので適当に頷き、焔さんと塔はハイドに消えた。私はユエさんへ向き直り、鼻をすする彼女と対峙する。
「弱くなりましたね、ユエさん」
「そうかしら……いえ、そう、そうよね。私、弱くなっちゃったみたい。影法師なのに……」
「初対面の時は我が道を駆ける天真爛漫な月だったくせに」
「焚火ちゃんは変わらないわね。手にフォークを刺したあの日と……」
言葉を止めたユエさんの指は、細い顎に添えられる。私は月の顔に視線を向け、ユエさんはちょっとだけ笑っていた。
「……焚火ちゃんも、ちょっと変わったかしら」
どこがだ。
反射的に訝しんだ顔をしたんだろう。私の前でユエさんは喉を鳴らして笑った。かと思えば、再び細々と涙を流し始めたのだ。
水のエースの煤を抱いてから、彼女は天真爛漫ではなくなった。私をハイドに行かせないし、レリックと戦うなと泣くし、朝起きるとベッドに潜り込んで寝ていたりするし。こちらからすれば気付かぬうちに氷枕を抱いてたくらいの驚きなんだけど。
ユエさんは頬に落ちた涙を拭い、肩を竦めて謝罪した。
「ごめんなさいね。私、焚火ちゃんを振り回してばかりだわ」
「ほんとに」
「レリックは、私達が止めないと意味がないわよね。焚火ちゃんは壊しちゃうわよね」
「きっと」
「……焚火ちゃんは、願いを叶えたいものね。温かい心に、抱き締めて欲しいわよね」
「是が非でも」
ユエさんは息を吐き、曲がっていた背中を伸ばす。儚さを増した月光は、私を冷ましてはくれないのだ。
「私、これ以上レリックを壊すの、嫌だわ」
「そうですか」
「えぇ。でも、何と言えばいいのか、まだちゃんと分からないの」
「そうなんですね」
「そう、そう……だから、焚火ちゃんを見ていることにするわ」
ユエさんの手の甲が私の頬を撫でる。冷たさは私にじわりと移ったが、それだけだ。彼女は脆く笑い続ける。
「天明や他の光源も見て、人間を見て、考えるの。分からないままは苦しいから、ちゃんと、考えたいの」
ユエさんの額が私の鎖骨の間に触れる。銀の頭部を見れば今日も三つ編みが揺れていた。私の段違いの黒髪は、首元に熱気をこもらせて駄目である。
私はユエさんの頭に手を置いて、美しい髪に顔を寄せた。
「勝手に頑張ってください。私も勝手に頑張るので。自分の願いの為に」
「えぇ、えぇ……私、頑張るわ。頑張りたいわ。私の願いの為にも」
微かにユエさんの声が明るくなり、私のシャツの裾が握られる。永遠を知る化け物はまるで小さな子どものようだ。
「焚火ちゃんはあったかくて、火傷しちゃいそうだわ」
「ユエさんは冷たいので、今の時期はちょうどいいですよ」
「あら、それなら良かった」
鼻を軽く啜ったユエさんは私に額を押し付け続ける。私は彼女の髪を軽く梳き、言いたいことを口にした。
「ほんと、良かったですね」
「んん?」
「ユエさんと水のエースに何があったか知りませんし、貴方も身に覚えのない涙なんでしょうけど」
顔を上げたユエさんの泣き跡を指で撫でる。彼女はのろのろと私より高い目線へ戻り、やっぱりちょっと泣いていた。
名前を与えられた影。創り変えられた影法師。自分が水であったことを忘れた貴方には、新しい記憶が刻まれた。
「貴方はこれで、二度と水のエースを忘れなくなりましたよ」
ユエさんが息を吸った音を聞く。彼女はぎこちない動作で俯いた後、湿った黒布を撫でていた。
「えぇ……そうね。忘れないわ……二度と」
凛とした声が私の鼓膜を揺らす。月が私を見下ろしている。
「行きましょう、ユエさん。進まなければ変わらない。時間だけでは解決できないことがあります」
「えぇ、えぇ、行きましょう。私の光、月の光源、怖がりな焚火ちゃん」
よく分かってるじゃないか。
私は怖がりだよ。化け物が怖い。戦うのだって怖い。でも、その怖いを砕いて進めば光がある。私の願いが待っている。
だから、立ち止まってなんていられない。
ユエさんの指が鳴り、私の髪が反転する。
久しぶりにハイドの地を踏んだ私は、上がった火柱を確認した。
あぁ、いるな、あそこに。怖い人が。
「アルカナ」
私はソルレットを履き、焔さんの方へと駆け出した。
これにて第二章「絡まりあった欲望編」閉幕。
次話より最終章を始めます。
焦がれて、燃えて、輝いて。
灰となれ、子ども達。




