影法師は掴めない
バクを噛み締めて拳を振るう少女がいる。
彼女が纏ったガントレットは水のエースの刃とぶつかり、爆風で水飛沫が弾けた。
負を呑み込んで炎に昇華する少年がいる。
彼が綴った文字は残影の足元で業火を巻き上げ、荒ぶる水滴を蒸発させた。
それでもレリックは止まらない。水のエースは止まれない。
篝火焚火から距離を取り、焔天明の顔を斬りつける。塔の顔からは黒い血が舞い上がり、目を覆った布が衝撃で破れ飛んだ。
「ッ、ぅ、あ"ーー天明ッ!!」
「黙ってろ!」
レリックと光源の間に、迷える影法師が割り入ることも出来ない程の猛攻。獰猛。鬼気迫る覇気。
エースの青みがかった衣装が焦げる。金属音が木霊する。それでもエースは一歩も引くことなく、上空からは鷹が狙いを定めていた。
歪なバクを噛み切って、翼を畳んだ夕映零が急降下する。エースを射程距離に入れた瞬間、零は鉤爪をしならせた。
しかしエースは反応する。寸での所で鉤爪を躱し、掴んだ鷹の足首を腕力でへし折った。零は力が入らなくなった足と魔術師が体勢を崩した様子を見て状態を察する。
だが、光源が次の動作に移る前に、エースは動くのだ。
零を物のように投げ飛ばし、窓硝子が砕け散る。魔術師は頭や腕から出血し、エースの背面には天明が迫った。
少年の筆が走り、レリックの体に〈影〉と刻む。数秒の間も作らずに文字を爆発させた天明は、その衝撃に巻き込まれながらも立ち続けたのだ。
「グッ、ウゥッ!!」
背中側を焼かれたエースは素早く振り返り、震えた足で地を踏みしめる。倒れないのはただ一つの激情により。
自分の炎で天明は両腕を火傷する。塔は痛みを一心に受ける。それが契約。それが約束。光と影は一心同体。影が傷を背負うから、光は傷つけることを背負うのだ。
着物を焼いた少年は治った腕で筆を走らせる。己の文字を燃やす為に。燃やして悪鬼を殺す為に。
足を治した鷹は猪となって突進する。己の怒りを昇華する為に。人間であり続ける為に。
「邪魔ダ人間!!」
それでも積年の想いは砕かれない。
水のエースは天明の筆を折る。彼の唯一の象徴を容易く粉砕する。
目を丸くした天明は体勢を崩し、一瞬の隙にエースが光源の頭を掴んだ。
猪突猛進の零は自分に向かって天明が投げられても止まれない。進行方向に広がった白の腹部を猪の牙は貫き、塔の口から黒液が吐き出された。
「ッ、う"、」
「こりゃまた災難ッ」
微かに速度が緩んだ零をエースが見逃すはずもない。
レリックは天明の体に蹴りを入れ、少年の体に刺さった牙がより埋まる。腹部を牙が貫通した様に天明は顔を歪め、呼吸の苦しさも感じていた。
零は天明の骨が折れたと感じ、次手を出す前にエースが消える。上部から影で覆われた零は、背中に走った衝撃と共に地面に叩きつけられた。
亀裂が入った地の上で、零の面が歪んで落ちる。無くなった牙は天明の体から抜けたが、倒れた二人にエースは容赦しない。
エースの蹴りが天明の額に迫る。当たれば頭蓋が砕ける勢いだ。
上手く動かない少年の体が危機を察した時、駆けたのは、旋風。
ソルレットから風を全開にし、焚火がエースの体に激突する。
エースは強制的に地面を滑り、豪快な風によって宙へ投げ飛ばされた。体の前面を上に向けられた体勢だ。
自由が利かない空中で、エースは認識する。焚火のガントレットがギアを上げる音を。肘から吹き荒れる豪風が彼女の腕を兵器に変える空気を。
エースが胸の前で両腕を交差させた瞬間、少女の恐怖が炸裂した。
ガントレットを選んだ少女は肩を壊しながら化け物を殴りつける。耐えがたい恐怖を打破する為に。求めた温かさを得る為に。
地面に叩きつけられたエースは呻く間もなく起き上がった。
止めを刺そうとした焚火の拳が地面を砕く。間一髪の所で避けたエースは銀の三つ編みに顔を向けた。
凶悪な風を纏った少女が、月の光源。
エースが走り続けた、たった一つの理由。
「ア、アァァ!!」
自分でも制御しきれない感情でエースは焚火の頭を掴み、空に向かって投げ飛ばした。焚火は体にかかる衝撃をソルレットでなんとか殺し、筆を再計した天明を見る。
再び墨を滲ませた少年に向かってエースは一息で距離を詰めた。自分の懐に入ったエースから天明は距離を取りかけたが、速いのはエースだ。
天明の側頭部にエースの蹴りが直撃し、着物の少年はビルに激突する。エースは体の回転の勢いそのままに、アルマジロとなった零も蹴り飛ばした。硬い装甲に覆われていた零は信号機の柱にぶつかり、折れた信号や標識の下敷きになる。
二人は痛みを感じていない。それでも力の入れ方があやふやになった。
少年の手から白い筆が歪んで消える。
人間の体から動物の鎧が溶け落ちる。
「天明!!」
「零!!」
焦点を上手く合わせられない天明。完全に埋まってしまった零。光源の傍に血だらけの塔と魔術師が駆け、エースは肩で呼吸した。
折れたガードレールを掴んだレリックは、自分に向かっていた焚火に投擲する。空気抵抗を感じさせない柵を躱した焚火は、願いに燃える化け物の懐に入り込んだ。
彼女が嫌いな怖い生き物。人の願いが生んだ、影の住人。
そんなエースの呟きを、焚火は聞いていた。
水のエースが顔を向けている存在が、自分の背後にいると認識しながら。
「見ツケタ……」
水飛沫が焚火の目の前で弾ける。
青みがかった黒い腕が鋭くしなる。
少女はガントレットでナイフを殴るが、刃は折れない。
「見ツケタ」
素早く掌でナイフを回した化け物は、凶器の峰で焚火の頭を殴打した。
強烈な一撃に少女は眩暈を覚える。体が平衡感覚を忘れてしまう。
「見ツケタッ」
焚火はどうにか体勢を立て直そうとしたが、化け物の方が速かった。鳩尾に叩き込まれたのは冷や汗が吹き飛ぶほどの蹴りだ。
地面を転がった焚火はソルレットから風を噴射し、化け物との距離が広がらなうよう心掛けた。
少女は顔を上げる。
白くなった髪を邪魔に思いながら、獰猛な化け物に焦点が向く。瞳孔が収縮して、化け物だけが鮮明になる。
化け物が走る先には、銀の細い三つ編みを揺らす影法師が一体。
「ユエさんッ!!」
焚火の声では止められない。止まる訳がない。
化け物は、求め続けていたのだから。
ただ一体。静かな月光。優しい月。
庭園で同じ方を向いていた日々。詰めなかった距離。音が少ないあの城で、彼女の声だけを聴いていた。彼女の傍にだけ居続けた。
「ヤット、ヤットッ!!」
誰もがいなくなった庭園。座る者がいなくなった椅子。自分一体だけが残された東屋は寒い。
だから帰って来て、帰って来て、どうかあの場所へ帰って来て。
貴方の水が二度と見られなくても、穏やかな貴方がいなくなっても、貴方が暴れる風になろうとも、構わないから。
貴方が貴方であるなら、それでいいから。
ただ傍にいたい。共に居させて欲しい。捨てないで欲しい。
人間の願いなんて叶えなくていいから。人間に頼らなくていいから。今度こそ、自分が貴方を守るから。
貴方の隣にいたかった。
貴方の声を聞いていたかった。
貴方の名前を呼んでいたかった。
貴方が笑ってくれた、大事な――名前を。
「――ユエッ!!」
枯れた声が、ユエの鼓膜を強く揺らす。
必死になって、駆けてくるのは水のエース。
主は覚えていない。瞼を縫われた影は思い出せない。
隣に立っていた残影を。同じ景色を見ていた従者を。
己に名前をつけた、レリックを。
水のエースがナイフを捨てる。彼女に向ける刃など持ち合わせていないから。
黒く鋭い両手が不格好に広げられる。
水のエースは焦がれている。
動けない月は、微かに指先が痙攣したと自覚した。
忘れてしまった過去がある。縫われて閉じられた思い出がある。
それでも、それでも……それでも。
ユエの両手は、過去を閉じ込めた体は、かつての従者を拒めない。
「エース……」
ドレスの裾を掴んで、ユエが一歩を踏み出しかける。
エースの両手が、彼女に届くまであと数歩。
その姿に焚火の風が止まる。少女の頭が、動くことを放棄する。
あるのは略奪でも、終幕でも、破壊でもない。
それは切願。念願。焦がれ続けた淡い激情。エースを動かし続けた、唯一無二の原動力。
今まで一度も埋まることの無かった二体の距離が、初めて近づくその瞬間。
――影を許せぬ光が、動く。
猫の面を被り、俊敏に割って入るは、残影が零した人間の末裔。エース達が殺し損ねた強欲の人形。
水の冷たさを忘れない。人間になれないまま成長した人形は止まれない。
欲に暴れた人間を、愚鈍な残影を、自由を欲した影法師を許せない。影の化け物達を許せる筈がない。
影法師なんていなければ、逃げなければ。レリックが、人間が、きちんと繋ぎとめていれば、零は独りぼっちにならなかったのだから。
走り去った白衣が脳裏でブレる。自分を置いて出て行ったあの日の背中と、重なってしまう。
因果は巡る。歴史は繰り返す。縁は断ち切れない。
爆発する想いは零の体を無理やり動かし、猫の口角が上がった。
魔術師に迫った地のエースの前に、篝火焚火が割り込んだ日のように。
月に迫った水のエースの前で、夕映零は笑うのだ。
「壊れろ!! 化け物ッ!!」
鋭い風を纏った腕が、水のエースを貫通する。
胸を抉り、背中から飛び出したレリックの核が宙を舞う。
塔が言葉にならぬ叫びを上げても、もう遅い。
魔術師を振り切った零は止まらない。
落ちたエースの核に向かって零が駆ける。
初めて足を止めた水のエースは、それでもユエに手を伸ばしていた。
「エース、」
忘れてしまったユエの手が、エースに伸びる。
転がる核に零が狙いを定める。
口角を上げた猫は止まれない。
だから、核を庇った少女にも容赦できないのだ。
「夕映さん!!」
篝火焚火のガントレットがエースの核を覆う。
ユエの手がエースの指を掴もうと開かれる。
だがしかし。
身の内に業火を滾らせた光源は、全てを許せないから。
「邪魔ぁ!!」
夕映零は、エースの核を踏み砕く。
焚火のガントレット諸共、打ち砕く。
瞬間、水のエースの体が崩れ落ちた。
ユエの手が煤に触れ、こぼれて、何も掴めず藻掻いてしまう。
そこで初めて、体の奥底から湧き上がった言葉が、想いが、ユエの唇を震わせた。
「まって……待ってエース、お願い、おねがい待って、」
声を上ずらせるユエは煤しか触れない。
手だけでは駄目だ。声だけでは駄目だ。それでは全てを取りこぼす。
だから月は腕を広げ、エースの顔を記憶に焼き付けようとするのだ。
壊れる残影は、そんな不器用な主を見て――笑ってしまった。
『……月、以前呼バレタ国デ、月ヲ意味スル言葉ヲ知リマシタ』
月に名を与えた残影は、己の行いを悔いたこともあった。自分が言葉を知らなければ。彼女に名前をつけるなど、烏滸がましいことをしなければ、と。
『ユエ……コノ響キガ、貴方ノ名ニ相応シイト思ッテシマッタ私ハ……淀ンデイマスデショウカ』
それでもエースは呼びたかった。名づけられていくきょうだいを、月が見つめていると知っていたから。彼女の傍で気づいてしまったから。
『ユエ……そう、ユエ。ユエ、ね』
自分を見上げた主の口角が上がった姿を、エースは忘れない。
『素敵ね』
髪を揺らした彼女の声が少しだけ弾んでいたと、エースだけが知っている。
例えそれが、全てを壊す言葉になっても。歯車を狂わせた一手になっても。
今、この瞬間、瞬きの間に終わる刹那。
己の願いに内側から焼かれ、燃えて、朽ちてしまうその前に。
求めた主に名を呼ばれ、手を伸ばしてもらえたのだから。
『エース』
『ハイ』
『……呼んでくれる?』
縮められなかった距離を思い出し、再びあの日を繰り返そう。
「……ユエ」
最期に名前を口にしよう。
「ユエ、」
伸ばせる腕はもうないから。距離を縮める足もないから。
「ユエ……」
優しく笑った水のエースを、月の腕が抱き締める。
初めて触れた煤は熱く、儚く、抱擁に応えるように宙へ舞い上がった。
地に落ちた残骸。黒い服に残った屍。冷たい腕が抱えた熱。
銀の髪を揺蕩わせ、月が膝から崩れ落ちる。
煤に残った温かさを一心に抱き寄せて。目を覆った布が湿っていくのを感じながら。
「ゆえさん……」
ガントレットを砕かれた焚火は、覚束ない足取りでユエの元へ向かう。白い頬に大粒の涙を伝わせる影法師の元へ、歩み寄る。
「……ねぇ……焚火ちゃん」
力のない声を吐き、ユエは焚火を見上げる。これ以上煤が落ちてしまわないよう、自分を抱き締めるような姿をして。
月の涙が地面の煤に染みていく。それでも壊れたものは固まらない、治らない、戻らない。
「おかしい、おかしいの。わたし……私ね、水のエースと話したことなんて、そんなにない、はずなのに……いま、すごく……さびしく、て」
ユエの口角が震えながら上がる。焚火の腕からガントレットの欠片が消える。
「焚火ちゃん、どこもけが、してないでしょ? なのに、いたいの、痛いの……とても、とても……いたぃの……」
焼けるような熱を孕んで、雫がユエの顎をうだる。地に落ちた三つ編みの先が煤を撫でる。
腹部を庇うように起きた天明はそこで見るのだ。
月の前に膝をついた焚火が、ゆっくりと両手を広げた姿を。
心を追い求めて泣いていた少女が、心が分からない影法師を、静かに抱き締めた姿を。
焚火の胸に顔を埋めて、ユエは泣く。
きょうだいを守りたいから影法師は走り出した。使う者になりたくないから、自由になって欲しいから、レリックを置いてきた。
その選択が全て間違いで、自分達は最初から失敗していたならば。犠牲を増やし、命を踏みにじることばかりしていたならば。
これ以上、間違いを続けたくない。道を誤りたくない。
人間になりたいとは言わない。それでも人間のように、レリックの気持ちが分かるようになりたい。
そうしなければ、この胸を焦がす感情で、焼かれてしまいそうだから。
銀髪に頬を寄せた少女は目を伏せる。
不器用で、中途半端で、愚かな影を抱き締めて。
自分が垣間見た光景には――確かに心があったのだと、噛み締めて。
零は砕いたエースの核を足の裏で潰す。これでもかと、強く、雑に、躊躇なく。
「……やめてよ」
白い面を被ったままの光源は、一人で猫の尾を垂らしていた。
「これじゃあまるで……自分が、悪者みたいじゃないか」
光源の言葉は届かない。傍に戻った魔術師だけが拾って、返事はない。
烈火の少年と豪風少女に背を向けた猫は一人、光の国へと帰還した。




