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己の願いに焼かれる前に  作者: 藍ねず
顕現された黒衣の偶像編
68/113

影法師は名を貰う

 元旅人が息を引き取ってから幾数年。


 影法師(ドール)は人間に呼ばれ続けていた。


 男の傍にいた者達が影法師(ドール)を崇め、願う者から金銀財宝を巻き上げ始めたのはいつからか。


 大陸中の欲深き者に影法師(ドール)の噂が伝わり、人外の独占に批判が集まったのはいつからか。


 影法師(ドール)を囲う城が壊され、人外を呼ぶ陣が流布されたのはいつからか。


 かつて貧しく、縋りつく願望で再建された国は、人々の願望によって散ったのだ。


 人々は我先にと奇跡を求め、影法師(ドール)は壊れた城の跡地へ戻る時間が少なくなった。


「よぉ、死神(デス)


(ザ・タワー)、久しく」


 影法師(ドール)は様々な場所で暗躍した。


 戦場の道具と化したもの。

 搾取する者の装飾品にされたもの。

 愛憎の渦に巻き込まれたもの。

 疲弊した者の支えとなったもの。


 時に願いを叶えてハイドに戻ることが出来れば、影法師(ドール)は自然と(ザ・ムーン)の元へ寄っていた。


「つ"っっっか"れ"た"ぁ"!!」


「おかえりなさい、(ザ・タワー)


「相手の軍に死神(デス)がいるなんて聞いてねぇんだが!?」


「そう」


 その日もまた、(ザ・ムーン)の元にはきょうだいがやって来た。


 赤く燃えるような短髪を逆立てた、影法師(ドール)の中でも異端の存在。

 現状を壊したい、他者の豊かさが許せない、何もかも打破したい。そんな衝動的願望から生まれた破壊の影、(ザ・タワー)


 (ザ・ムーン)は己の膝に乗った赤髪を撫で、疲れた疲れたと零すきょうだいを見守った。


「だーもーやってられか!! 水のエースもそう思うだろ!?」


「私ハ何モ。(ザ・ムーン)ノ傍ニテ動クダケデス」


「テメェはそればっかりだな!」


 喚く(ザ・タワー)の頭を(ザ・ムーン)が撫でる。そうすれば破壊の影法師(ドール)は口を結び、黙ってきょうだいの膝に頭を乗せ直した。


 月光の斜め後ろには水のエースが立っている。それはいつものことであり、(ザ・ムーン)が呼ばれれば必ずエースも同行した。


 レリックは影法師(ドール)の手足である。奇跡の力を有する人外も万能ではなく、補助の存在を必要としているのだ。影法師(ドール)に降りかかる被害を排除し、バクを捕まえ提供することがレリックにとっての使命である。


 彼らは願望器から零れた人外。影法師(ドール)を支え、影法師(ドール)の為に生きている。


 影が淡くなる夜には火を灯し、人間と影法師(ドール)の間に立ち続け、アルカナを使うまでもない願いにはレリックが動く。


 水のエースは常に(ザ・ムーン)の傍らに控え、淀みなくの影法師(ドール)の手助けをした。


 病に伏せ、失った手足に嘆き、胸に開いた寂しさを紛らわせたいと願う者達に呼ばれるのが(ザ・ムーン)である。


 癒しの影は人間の悲嘆に出会ってきた。癒して欲しい、守って欲しい、失いたくない、捨てられたくない。多くの泣き顔が待つ場所へ呼ばれ続ける(ザ・ムーン)は、表情一つ変えないのだ。


 ただ静かに人間達の言葉を聞き、願いを受け入れ、流動する水で不浄も痛みも洗い流す。保護する為には激流となる水飛沫を上げ、傷つく前に害を打つ。


 (ザ・ムーン)が願いを叶えて去る時、人間は縋ろうとする。どうかここで癒し続けてくれないかと。


 それは願いではない。それはただの欲望であり、影を縛るには弱すぎる。


 水のエースは(ザ・ムーン)と共に見てきた。泣いていた人間達が笑顔になったかと思えば、影が去る時に必死の形相で触れようとしてくれる姿を。


 その間に立つのがエースであり、水のレリック達だ。


 彼らが守護する水の影法師(ドール)たちが無事に願いを叶えられるように。影の主人が壊れてしまうその前に。どうか安らぎを。


(ザ・ムーン)


正義(ジャスティス)


 ある日、庭園を訪れたのは公正の影法師(ドール)


 右手に剣、左手には天秤。厳かな黒衣を纏い、甘栗色の髪を結い上げた正義(ジャスティス)は中性的な影だ。

 町を保つルール、人を守る規則、豊かな土地との不平等、揺らぎ続けた人間性。あらゆる葛藤を煮詰めて顕現された影法師(ドール)は、座る(ザ・ムーン)と背中合わせに立ち、庭園を見つめた。


 静かな時を月は許す。正義(ジャスティス)は口数少なく、正義の風として呼ばれる日々だ。

 人間の感情や思想を一切除去し、事実だけを見定めて天秤にかける正義(ジャスティス)。戦場にいない筈なのに、かの影法師(ドール)の足元には血が絶えなかった。


 だがしかし、その日の正義(ジャスティス)は少しだけ、穏やかだった。


「……久しぶりに、可愛らしい子ども達に呼ばれていたんだ」


「そう」


「小さな姉弟、願いも可愛らしいものだった。貯めた小遣いで買うならば、一輪の立派な花と、群生の小さな花束。疲れている両親に渡すならばどちらの方が正しいか。そんなもの、我を呼ばずともいいだろうに」


「そうね」


「だが二人は呼んだ。より正しい選択をして、正しく両親に喜んで欲しいからと。一本の大輪か、複数の可憐か。街で見聞きした噂の魔法使いが来てくれたと、我を影法師(ドール)だとも知らないで」


 正義(ジャスティス)の肩がおかしそうに揺れる。(ザ・ムーン)は、真面目なきょうだいが影法師(ドール)についてきちんと教えたことも聞いていた。


「風の七番と共に、我は姉弟の選択を見守った。小遣いで買えるのはどちらかだけ。花束では枯れた時が困るだろうか。一本だけでは両親も貰いにくいだろうか。子どもの考えは飛躍して、面白く、行き詰ったら我を見た」


 天秤が微かに傾き、白い指が剣を握り直す。正義(ジャスティス)はそよ風と共に口角を上げた。


「けっきょく、二人は花束を買うと決めた。我の助言など二言、三言。風の七番など立っていただけ。それでも礼を言った姉弟は、我に名を訊ねた」


「貴方は正義(ジャスティス)


「そう、我は正義(ジャスティス)。公正の影法師(ドール)。そう名乗れば、それは名なのかと問われ、役名であり真名であると肯定した」


 正義(ジャスティス)は続ける。「だがしかし、」と。


「姉弟は、不思議がってしまった。役の名前が真の名では、我は役を全うする為に生きているのかと。それもまた肯定。我は正義の為に生きている。答えれば、兄妹はやはり不思議そうなままであった」


「不思議だったのね」


「あぁ、人間には理解しがたいのだろう。生まれた瞬間から役割を与えられた我らが。どうして我は正義なのか。我はそれでいいのかと、小さな二人は澄んだ瞳で聞いてきた」


 (ザ・ムーン)は口を閉じて前だけ見据える。正義(ジャスティス)は一つ間を挟むと、静かな声を風に乗せた。


「だから――名を貰ってしまったんだ」


 (ザ・ムーン)は微かに首を後ろへ向ける。水のエースは黙って正義(ジャスティス)の声を拾う。


 公正の人外は、形のいい唇で名を告げた。


「我は、グノ」


「グノ」


「そう……意味は、感謝だそうだ」


 また、天秤が傾く。


 小さく笑ったきょうだいに(ザ・ムーン)は返事をせず、静かに虚空へ視線を戻したのだ。


 そう、始まりは――小さな優しさだった。


 人間なりの優しさ、幼き子どものお節介。役に囚われない自由を知っているからこその無垢な救済。


 名を貰った正義(ジャスティス)の表情は柔らかくなった。同時に、影法師(ドール)たちの胸には己が欠落していくような恐怖が巣食っていた。


 名は強すぎる光である。あまりにも輝いて、どこまでも尊く、影に光が宿ってしまった。


 始まりは正義(ジャスティス)


 次に、運命の輪ホイール・オブ・フォーチュン


 緑の短髪を揺らした影法師(ドール)はいつも巻物を抱えている。

 新しい明日、貧しさからの脱却、現状の好転。かつて今置かれている場所からの変化を望んだ人間達が生み出した影法師(ドール)は、審判(ジャッジメント)に報告していた。


「僕にも名前が出来たよ!」


「騒がない。跳ねない。暴れない! 運命の輪ホイール・オブ・フォーチュン!」


「誰がつけてくれたか聞きたい? 聞きたいよね! 仕方ないから教えてあげる! いやまずは質問にしちゃお! 誰が僕に名前を付けてくれたでしょーか!」


「君はこちらの話を聞くことを覚えたまえ」


「正解はねー、山小屋に住むお爺さんだよ! 僕は回転の影法師(ドール)。すべてを回すよ、円滑に、循環に。それを早めて欲しいと願われた。極寒の季節を越せるか分からないお婆さんに、青葉が茂り、花々が咲き乱れる季節を見せたいと願ったのさ!」


 飛び跳ねる運命の輪ホイール・オブ・フォーチュン審判(ジャッジメント)は呆れた様子で見るしかない。


 審判(ジャッジメント)は救済の影法師(ドール)。覆せない過去を見定め、過ちを拾い、善行を掬う。それが審判(ジャッジメント)であり、今日も裁きの火種を投げてきた所なのだ。きょうだいに捕まる予定などなかった。


 覇気のない審判(ジャッジメント)は、それでも運命の輪ホイール・オブ・フォーチュン――ラビアの話を聞いた。


 老人の願いを叶えた後、彼が愛した人は息を引き取った。これでよかったと泣いた老人もまた、数日後には冷えていた。


「僕の名前は彼らが生きた証だね! ラビアの意味はどこかの国で春というそうだ! さぁ呼んでよ審判(ジャッジメント)! 僕の名前が呼ばれるたびに、名付けてくれた彼らも蘇る気がするんだ!」


「馬鹿を言うのはよしたまえ。死んだ者は蘇らない。それは影法師(ドール)である俺達でさえ叶えられない絶対の理だよ。名前を呼んだくらいで生き返っていては何の為の審判だ」


「だーもー! じゃあいいよ! (ザ・ムーン)の所に行くからさ!」


 それもまた小さな優しさだった。小柄で陽気な影の神。崇められる存在は役名だけで生き続ける。生き様だけで息をする。深い皺が入るほど生きた人間は、そんな影を子どものように見てしまっただけなのだ。


 役柄に囚われずに生きて欲しいなど、人の傲慢だ。人間の切願を集めた影法師(ドール)に対し、自由の楽しさを教えようとしたのだから。


 名とは存在証明。名付けた者と名付けられた者を深く繋ぎ、明確な個として生かしてしまう。


 縛られた者に自由を与えたいなど、それは無用な慈悲でしかないのに。それが毒のような救いになるとも知らないで。


「イドラ」


「イドラ?」


 逆さまの影法師(ドール)が笑い、地面に寝転がっていた悪魔(ザ・デビル)は体を起こす。つい先ほどハイドに帰ってきた吊るされた男(ハングドマン)は、静かに口角を上げていた。


「そう、とうとう私も名付けられてしまったんですよ」


「意味は」


紫陽花(あじさい)という花だそうです。色によって花言葉が異なるそうですが、私には青い紫陽花。辛抱強い愛情が似合うと」


「辛抱強いはお前の代名詞だが、愛情はどうなんだよ」


「おかしいですよね、私は友愛も親愛も、敬愛も慈愛も、持ち合わせていないのに。影になんという名をつけているんだか」


 喉の奥で笑ったイドラ。悪魔(ザ・デビル)は長い毛先を地面に広げ、愉快な空気のイドラに息を吐いた。


 頬をかいた悪魔(ザ・デビル)の頭上には、仄暗い陣が形成される。


 空に浮かんだのは呼び出しの文様だ。伸びるのは影の雷。(ほとばし)る影は悪魔(ザ・デビル)の首をくくり、光の国へと連れて行く。まるで絞首台に吊るされた罪人のように。


 逃げる術はない。抵抗する様子もない。ただ脱力している悪魔(ザ・デビル)に対し、イドラは少しだけ首を曲げた。


「幸あれ、悪魔(ザ・デビル)


「幸ある所に不幸ありだ」


 疲弊した悪魔(ザ・デビル)の声にイドラは口を結び、やんだ雷に目を伏せた。


 彼ら影法師(ドール)は幸いをもたらすと同時に不幸を撒く。その場にいる全員を幸せにする願いなどないのだ。


 誰かの幸せの足元には誰かの涙が染みている。成功した者の裏には失敗した者がいなければ価値がない。勝者がいれば敗者がいる。それこそ世界の摂理なり。


 イドラが垂れ下がる大木。そこへ柳のように現れたのは魔術師(ザ・マジシャン)だ。


 発端の影法師(ドール)はイドラを見下ろし、微かに揺れた鎖の音を聞いた。


「名を貰ったと」


「はい。私はイドラ。一組の男女に貰ったんです。大きな屋敷に勤める庭師たち。女性が屋敷の息子の妻にされてしまう前に、逃げる為の道を作って欲しいと願われました」


 イドラの瞼の裏に浮かぶのは、抗う為に願った二人。安定した庭師の仕事も、両親の信頼も、屋敷からの信用もすべて捨てる。誰から後ろ指をさされようとも耐えていく。だからどうか、自分達が共にいられる未来をくれ、と。


 二人が逃げたのは遠い遠い異国の果て。朝日を見ながら泣いた二人は、たしかに笑っていたのだ。その土地に二人を知る者は誰もいない。嬉しさに輝いていた二人を、イドラは記憶に焼き付けた。


「名を貰うとは、私たち影法師(ドール)には不必要な事項。人間の勝手な感傷であり干渉。善意の押し付け、自己満足にして自己陶酔。そう分かっている筈なのに」


 吊るされた男(ハングドマン)の唇が「イドラ」と零す。


 魔術師(ザ・マジシャン)は縛られたきょうだいの腕を確認し、再び鎖の音を聞いた。


「……名という響きの抗えなさ。温かさを知ってしまった事実と、何度も繰り返したいという愚かな欲求。これは毒薬。しかし私は解毒を拒む……名もなき吊るされた男(ハングドマン)の頃に戻るには、これはあまりに、優しすぎます」


「理解しがたいな」


「貴方も名を貰えば分かりますよ」


「私に名をつける物好きなどいない」


「いつか現れてくれるでしょう。今から練習しておくのも一興かもしれませんよ。名を貰った時の感謝の伝え方など」


「いらん」


 魔術師(ザ・マジシャン)は呆れた様子でイドラの元を去る。イドラは微笑んだまま逆さの世界を見つめ、自分を呼ぶ陣が展開されたことにも気が付いた。


「次はどんな願いでしょうか」


 雷が鎖を切断し、イドラの首に素早く巻きつく。誰も彼もが早く願いを叶えてくれとせっつくから、影法師(ドール)には暇もない。


 それでも、名を貰った者達の空気が晴れやかだったのだ。


 皇帝(エンペラー)のローナ。

 悪魔(ザ・デビル)のルト。

 (ザ・スター)のミラ。


 (ザ・ムーン)はきょうだいから報告を受け、その度に名前を記憶する。


 水のエースは月を観察し、今回も人間に帰らないで欲しいと乞われた主人に拳を握った。


「……名前」


 (ザ・ムーン)の溶けるような呟きをエースは拾う。影法師(ドール)はそのまま口を閉じ、限られた休息に力を抜いた。


「オ疲レ様デス」


「エースも。いつもありがとう」


 静かな水面に滴を落とすように、水の二体は言葉を紡ぐ。


「……(ザ・ムーン)、以前呼バレタ国デ、月ヲ意味スル言葉ヲ知リマシタ」


「そう」


「ハイ」


 二体は同じ方を向いていた。視線が交わることはなく、座った(ザ・ムーン)の斜め後ろに水のエースは立っている。それがいつも通り。ハイドでもジキルでも、静かな月の傍には水の人外が控えている。


 壁も溝もありはしない。それでも二体の距離は変わらない。影法師(ドール)残影(レリック)。共に人間の願いの為だけに存在している。


 だがしかし、二体の周りは流れる水の如く変わっていく。人間の願いも、きょうだいの名も、世界の環境も。変わる姿を見続ける中で変わらない選択をし続けるというのは、人であろうと人外であろうと難しい。


 だからエースは口にする。


 耳にした美しい響きが、銀の髪を輝かせる影法師(ドール)のようだと、焦がれてしまったから。


「――ユエ」


 (ザ・ムーン)の顎が微かに上がる。


 水のエースは前だけ向き、波風を立てない喋り方を続けた。


「コノ響キガ、貴方ノ名ニ相応シイト思ッテシマッタ私ハ……(ヨド)ンデイマスデショウカ」


 レリックの言葉に(ザ・ムーン)は暫し黙る。細い指でゆっくりと顎に触れた影法師(ドール)は、口の中で名前の響きを転がした。


「ユエ……そう、ユエ。ユエ、ね」


 銀の三つ編みが微かに揺れる。


 癒しの影法師(ドール)の顔が、レリックの方へ向く。


 いつも変わらない彼女の口角は少しだけ、本当に、少しだけ……上がっていた。


「素敵ね」


 水のエースは口を結ぶ。


 背後で組んでいる手に力を込める。


 (ザ・ムーン)――ユエは再び前を向き、膝の上で両手を重ねた。


「エース」


「ハイ」


「……呼んでくれる?」


 ユエの言葉にエースの返事が一拍遅れる。それをユエが指摘することはなく、エースは少しだけ下を向いた。


「……ユエ」


 淡いエースの声にユエは小さく笑う。


 エースは固く口を結び、手に力を込め、影法師(ドール)が望む数だけ名を呼んだ。

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