影法師という存在
篝火焚火が光源になるより遥か昔。
技術も科学も曖昧な頃。神秘や幻想が深く息づく彼方の時代。
名もなき小さな国の端の端。飢餓に震える町の寂れた教会。
そこが、全ての始まりであった。
病に侵され体が飢えても、精神だけは守っていた住人達。彼らは日々願っていた。痩せた土地が良くなることを。雨が降ることを。寒さが凌げることを。死ぬ者の数が少しでも減ることを。
「どうか」
「どうか」
「あぁ、神様……」
必死にかき集めた優しさと信仰心で願い続けた。どうか我らに僅かな安寧を。子ども達が健やかに暮らせる日々を。
擦り切れた指を組み、骨の浮いた膝をつき、彼らは想いを吐き続けた。朽ちた教会の名も知らぬ女神像に向かって。
神父はいない。修道女もいない。いるのは肩を寄せ合うか弱き民だけ。
女神像は常に陽光を浴びる場所に建っていた。瞼を下ろした造形は厳かであり、床との境には黒々とした影が鎮座している。かの像に人々は頭を下げ、教会内には囁く願いが蔓延し、発酵していた。
誰が聞いているのかも分からない。誰かに届いているかも分からない。それでも願わずにはいられない。願うことでしか心を保てない。
明日がどうか良き日になってくれないか。明日も誰かが息を引き取ってしまうのだろうか。自分に明日はくるのだろうか。
見えない明日に希望を込めて、瞼を開けた時に世界が一変してる夢を描いた儚い者達。
そんなある日。彼らが教会に溜め続けた願望を、一人の旅人が開封した。
「これはこれは、透き通った泥の掃き溜めだな」
現れたのは漆黒の装束を纏った旅人。教会の扉を開けた男は青白い手を広げて笑うのだ。町の者達は窪んだ目で軽快な足取りを追い、旅人の手は冷え切った影に触れた。弧を描いた彼の唇は、遊ぶように言葉を吐く。
「聞いているんだろ。溜めているんだろ。その禍々しい黒の中に。ならば顕現せよ。人の想いは天に上らず、足元に染み落ちる」
旅人が笑った瞬間、教会中の影が女神像の元へ集約した。突然の現象に町人達は怯えたが、ある種の期待を抱いたのも事実である。
怪奇が足元を這う感覚。いつもと違う今の光景。明日が変わる未知の期待。
住人達の視線は旅人を射抜き、男の後ろでは女神像が変わらず目を閉じている。
集まった影は旅人の背後で大きく波打ち、青白い手の動きに合わせて成形されていく。
ある者は奥歯を鳴らし、ある者は子ども達を抱き締め、ある者は涙を流して目の前の光景を網膜に焼き付ける。
これは厄災の前触れか、奇跡の瞬間か。悪魔の戯れか、神の慈悲か。
旅人が指を鳴らした瞬間、宙に浮かぶ二十一の影が弾けた。
それは口伝えされ、いつの間にか消えてしまった始まりの話。ふらりふらりと現れて、偉業を成した誰かの話。
旅人は人差し指を立て、完成された二十一体の影を笑った。弾けた影の残りからは人型の深淵が創られ、恭しく膝をつく。
「そうだな、彼らを呼ぶなら――影法師とでも言ってみようか」
総称が完成した瞬間、二十一体の人外が開眼する。
瘦せ細った願いを溜めた瞳は水晶のように澄み渡り、世界の果てまで見通した。
***
「お前らは見えすぎるから駄目だねぇ」
男は二十一の人外を従え、彼らに役職を与えた。
痩せた土地を耕す為の水を流し、風を起こし、陽光を呼んだ。
病に伏せた者の体を労わり、治癒し、改善までを支えた。
寒さを凌げない町を整備し、不衛生を消し去り、衣食住を約束した。
町を襲う獣を凪ぎ払い、戦う為の知恵と力を授けた。
それらは全て影法師の力。人の願いを溜め込んで顕現した人外が具現化した奇跡。
影に落ちた人々の感情は滲み続け、人外達に取り込まれた。重たい影を食らう人外は、凝縮された願望を糧にする。
願いとは光だ。縋る灯、望んだ夜明け。人を照らす希望の象徴。光を取り込んだ影は影ならざる力で神秘を呼ぶ――アルカナを備えていた。
そんな彼らの目はどこまでも見通し過ぎてしまうから、旅人は黒い影の布を与えたのだ。
「見え過ぎることは知り過ぎてしまうこと。善悪関係なく見通し続ければ辟易するだろ。救える者を見過ごせない奴もいるだろ。見たくないのに見てしまった醜悪さもあるだろ」
旅人は穏やかに影法師の目を塞ぐ。見えすぎてしまう彼らに、慈悲として。
「全て知ることはしなくていいよ。お前らに助けてくれと言った奴らだけ助けときな」
いつの間にか旅人は旅人ではなくなっていた。町の者達に神の伝道者として崇められ、地位を貰い、築かれた城に繋がれた籠の鳥になっていたのだ。
旅人――否、元旅人の言葉は傍にいる信者達が記録した。影法師に関する全てを理解し、使いこなそうと筆記具を持ち、人から人へと語られた。
小さな国の端の端。かつて貧しかった町は今や理想郷に等しく、肥えた土に衛生的な環境、人々の笑い溢れる場所へ発展したのだと。
そこには、なんでも願いを叶えてくれる神の御使いがいるそうな。
豪華絢爛に飾り立てられたかつての旅人は、影の国で伸びをする。黒い髪に白髪が混じり始めたのだろう。昔は真っ白に変わっていた髪が、今では所々に黒が見える。
「貴方も衰えたものだ」
「やめろよ、まだ若いぞ?」
男は腰に手を当て、目線の先には人外の左足首。足枷のついた部位は影で出来た大樹の枝に繋がれ、影法師の頭は地面に着きそうな位置にあった。
銀の短髪に黒いシャツ。黒いズボンの美しい影。背中で両腕を縛られた影法師――不屈の吊るされた男。
薄い唇に弧を描いた影法師の姿は元旅人が望んだわけではない。人の想いが吊るされた男を創り上げたのだ。
かの影法師は飢えや寒さに耐え忍んできた人々の願いを凝縮して完成された。どこの土地へも移ることが出来ない不自由。飢えた命を守り切れなかった悲痛。それが吊るされた男の足を吊るし、両腕を縛り上げたのだ。
吊るされた男は不完全こそ完成形。
息を吐いた男は、旅人時代から変わらないカサついた手で吊るされた男の目に布を巻く。閉じられた水晶の瞳は、それでも人間レベルで世界を認識し、影の国を映していた。
「貴方も耐え人。かの町人達、今や国民達は既に飢えを忘れ、享楽を知り、豊かさに満たされている。そこに旅人である貴方が残る意味など如何ほどにありましょうか」
「そうさねぇ」
吊るされた男の足を持ち、旅人は前後に揺らす。逆さまの世界が前後に移動しようとも影法師は何でもないのだが。
「鬱憤、憎悪、理不尽、無理解。あらゆるものを私は受け止め耐えますよ」
「どんな精神してんだか」
「精神論とは似て非なりましょう。私は不屈の影法師。耐える事こそ我が使命であり命題なのですから」
「小難しいことを」
旅人は吊るされた男の足から手を離す。美しい庭園は光の国で彼が住んでいる城そのものだ。影の国にいる影法師たちは影の城にて、自分が呼ばれる時をいつもいつでも待っている。
「欲深い、欲深い、どこまでも欲深いなぁ人間様は」
そして、帰るのもこの城なのだ。国のどこで呼ばれようとも、大陸のどこで呼ばれようとも、彼らの家は影の城。
旅人と吊るされた男の元へ帰ってきたのは、黒い長髪の影法師。袖口の広い黒装束に身を包み、茶褐色の肌が仄暗さを倍増させる。不満げに口角を下げた表情こそ、この影法師の表情だ。
「帰ったか、悪魔」
「帰れと言われて離れたまでだ。人間とは愚かだな。強欲な願いを口にして、叶えば更に強欲を。欲に欲を重ね、最後には崩れた欲の下敷きさぁ」
陰鬱な空気を纏い、悪魔の背後には地のレリックが数体並ぶ。背中を曲げて気だるげに歩く悪魔に対し、数字持ち達は無言で着いていた。元よりエース以外のレリックには喋る機能がないのだが。
「レリック解散。手助けご苦労」
悪魔がやる気なく振った手を合図に、レリック達は一礼する。それから別の地属性の影法師の元へ行く者、悪魔の傍にいる者とに別れるのだ。
悪魔は自分の背後に立った地の王と地の四番を確認し、軽く甲冑を小突いていた。
「そちらの二体は相変わらず、悪魔の傍がお気に入りのようですね」
「荒い願いでは助かる奴らだ」
「それは上々。さてそれでは、今日も貴方の鬱憤をお聞きしましょうか」
微笑む吊るされた男を見て、悪魔は鋭い爪で頬を掻く。かと思えば地面に倒れるように寝転び、欲まみれの願いを叶えてきたのだと吐き出した。
元旅人は二体の影法師から距離を取る。あと黒布を渡していないのは誰だったかと考え、真白の宙で踊る太陽と恋人で視線を留めた。二体の目には既に黒布を巻き終わっている。
そこで男は物静かな影法師を思い出し、庭園の方へと向かった。
迷路のように整備された庭園の奥の奥。いつも美しい東屋にいる一体の影法師。
黒いドレスに銀色の髪。項の部分だけ細く三つ編みにした髪を揺蕩わせ、水晶の瞳はぼんやりと遠くを見つめていた。
「月」
「……あら」
ぼんやりと首を傾けた癒しの影法師――月が旅人を視界に入れる。白い頬と水晶の瞳、彼女の髪色が月の薄明な美しさを助長し、まさしく月光の化身であった。
一人がけの椅子に腰かけていた月はゆるりと立ち上がりかける。それを男は制止し、影法師の斜め後ろに立つレリックを確認した。
月の傍に控えているのは水のエース。きっちりと背中で腕を組み、青みがかった黒い衣装で整然と直立している。かと思えば、元旅人が揺らした黒布に表情を微かに歪めた。
「ソレハ何ダ?」
「お守りだよ。いや、俺の願望かね」
月は男の説明を聞き、小さく頷く。水晶の瞳を隠された影法師はゆっくりとした動作で布に触れた。
「視界が落ち着いたわ……ありがとう」
元旅人は月の言葉に肩を竦める。
水のエースは息を吐き、月はそれ以上喋ることはなかった。
清らかに、全てを静観している月の影。癒しを求め、保護されることを望んだ人間達の祈りの集約。守りたい、守られたい。身も心も楽になって許されたい。そんな止めどない切願を詰め込んで生まれた影法師は、影達の癒しでもあったのだ。
何も喋らない。何も語らない。ただ全てを聞き、ただ居たいという理由だけで傍に寄ることを許してくれるみんなの月。
彼女の周りには清涼な空気が流れ、それは月光の冷たさか、水の涼やかさか。
元旅人は力を抜いて笑ったが、月は反応を示さなかった。水のエースは背中で両手を組み直す。光の国へ戻る男は親し気に手を振ったが、月もエースも応えることがなかった。それでも男は満足そうなのだから不思議である。
――男は影の国を楽し気に歩く人間だった。ハイドと名付けた世界は影が主役のチグハグな場所。住むのは人間の願いが詰まった人外と、人間の欲深さが滲んだ醜いバクのみ。
元旅人はハイドだけで笑っていた。ジキルと名付けた光の国では徐々に口数が減り、表情が硬くなっても。彼はハイドで自分を保ち続けたのだ。
「なぁ、愚者」
「なにかな、創造者」
影法師に寿命はない。人の願いに終わりがないのと同様に。人が願い続ける限り、人が願いを忘れない限り、影法師は影の中で生き続ける。
しかし人間には終わりがある。まだ叶えていない願いがあろうとも、やり残したことがあろうとも、彼らは永遠を生きられない。願いを残し、後悔を滲ませ、この世のどこからも消えてしまう。
それは影法師を影から引きずり出した元旅人も同じである。彼が人外を創ることが出来た理由は彼だけしか知らない。人の願いを溜め込んだ影を見つけ、引きずり上げた男は、救世主として信仰された。
かつて手にしていた自由を奪われ、巨大な城に縛り付けられ、人々の期待と願望に翼をもがれた哀れな人間。
老いた彼は広いベッドの脇に一番目の影法師――愚者を呼ぶ。
かつての男の姿を映したように、身ボロな黒い衣装と荷物を纏って、可能性の影法師は微笑んでいた。
寝台に横たわった男は深く息を吸い、重たくなった瞼を閉じる。
「お前達に影法師と名付けたこと……不満だったか?」
「まさか。我らは何とも思っていないさ」
「そりゃ、よかった」
肺の深い所で男が笑った。かと思えば咳き込んで、愚者の冷たい空気を全身で感じている。影法師は老いた男を見下ろし、少しの興味で問いかけた。
「だが、なぜ影法師と?」
「……ドールとでも呼ばねぇと、可哀想だろ」
当たり前のような声色に愚者は首を傾ける。影がなんとなく握った皺だらけの手は、彼らを冷たい深淵から引きずり出した光の手だ。何年経とうとも、何十年経とうとも。
温もりが引き始めた男は瞼を上げずに言葉を続けた。
「お前達は、人の願いから出来た。それが人形でなく、喜怒哀楽に翻弄される生き物だったら……願いに押し潰されるかもしれねぇと、思ったんだよ」
愚者の手に微かに力が入る。男はそれを感じ取ったのか否か。傍目では判断できないまま口を動かした。
「若い俺が形を与えてしまった……影法師。それをドールと呼ばねぇと……生き物ではないものとしてやらねぇと、心が、壊れちまうかも、しれねぇから」
渇いた唇が弧を描く。それは教会に現れた日となんら変わらない、飄々とした笑みだ。
「咄嗟に守ったんだろうな……俺は。お前達が壊れねぇように。何も感じない人形である方が、コイツらはきっと、いいんだろうなんて……」
男は呟く。「傲慢だよ」などと、仕方なさげに。
愚者は「そうか」と軽く返事をし、男は胸を大きく上下させた。
「……最後の願い、聞いてくれるか」
「最後も何も、お前は今まで何も願ってこなかったじゃないか」
愚者の言う通り、男は影法師に何も願わなかった。誰よりも願望器に囲まれ、誰よりも願いを告げられる場所にいたというのに。この男は今まで、一度たりとも影法師に願うことはなかった。
そんな人間の最後の願い。最期の願望。
翼をもがれた旅人は、愚者の手を弱く握り返した。
「――影法師を、頼む」
笑った男を愚者は見下ろし、命が吹き消える瞬間を記憶に刻む。
力の抜けた手を握り締めた影法師は、肩を落とし、呆れたように天井へ顔を向けたのだ。
「……聞き届けた」
冷たい口づけに意味はない。
「愚かだなぁ、人間」
悪態に対する返事はない。
「お前が願ってくれたなら……我らはみな、お前をここから逃がしたのに」
告げたところでもう遅い。
影法師の言葉は誰にも届かず、記憶に残らず、記録もされない。
歴史に遺されたのは、冷えて固まる肉だけだ。




