稲光愛恋は守りたい
青い男の子は夜鷹昴という名前を教えてくれた。綺麗な名前だって思うと同時に、目と同じくらい空気も森みたいな子だと感じている。
私が裁縫したバクを見た夜鷹くんは瞬きを繰り返した。それが怖くて、緊張して、私の視線は下がってしまう。
「私、私は、こういうの、凄く可愛いと思うんです。けど、き、きっと、他の人とは違うんです」
嵐ちゃんや凪くんみたいに怖がっちゃうかな。直ぐに私の所から離れちゃうかな。変な奴だって思われてるかな。
私が鳩尾の前で両手を握り締めていると、夜鷹くんの深く穏やかな声がした。
「それって、他の人と一緒じゃないと駄目なんですか?」
青い瞳に問いかけらえる。責める目じゃない、気味悪がってる目でもない。夜鷹くんの目は会った時と変わらないまま、暗い森として問いかける。
そんなことは初めてで、私の言葉はいつも以上に詰まってしまった。なんて言ったらいいんだろう。
他の人と一緒じゃないと、奪われちゃう。捨てられちゃう。だから私は擬態して、一緒であるようにして、そうしないと駄目だって。
……誰が言ったんだっけ、そんなこと。
夜鷹くんの向こうにバクを見て、私はアルカナを振り下ろす。黒いお化けを大きな掌で叩き潰した時、夜鷹くんの鎖は私の背後に向かって伸びていた。
誰が言ったんだっけ。誰が一緒じゃないと駄目だって教えたんだっけ。
捨てられた人形。取り上げられた道具。描き直すよう言われた絵。
違う、違う、誰も言ってない。
言ってないのに示したんだ。態度で拒絶して、目で教えてきた。視線が私に擬態の殻を被せてきた。
アルカナが止まらない。バクを薙ぎ払って、材料に出来そうな子だけを掴んでルトの影に入れていく。
息が、出来てる気がした。
初めてハイドに来た時とはまた違う。
「よ、よだ、夜鷹くん」
深い森の目、私の殻を解く不思議な人。
この子の空気は、あまりにも優しい。私を否定しないでくれる気がして、私からは奪わないんだろうなって感じられる。
でも、でも、きっとそれは平等なものだ。この子の感性が私を拒絶しないだけで、他の人にも平等に分け与えられる優しさだ。
どうしよう、どうしたら彼は傍に居てくれるだろう。私に息をさせ続けてくれるだろう。
何度も息を吸って短い間に考える。
私と彼が一緒にいられる方法。
私が夜鷹くんに呼吸を許してもらえる方法。
私が、悲しい目を見続けられる方法。
私と夜鷹くんは――光源だ。
「よか、よかったら、よかったら私と一緒に、ど、影法師を自由に、してくれません、か?」
「いいですよ」
迷わず了承してくれた夜鷹くんの目は、少しだけ木漏れ日が射した気がした。
***
夜鷹くんは、なんか変わってる。
そう思ったのは、夜鷹くんと初めて会った次の日だ。
私が学校を出ると近くで待ってたのは別にいい。彼を見つけて呼ぶまでの空気が変なんだ。
なんて言ったらいいのか、よく分かんない。お湯が煮立ってる感じだろうか。ぐつぐつぐらぐらと、今にも吹きこぼれそう。
「よだ、夜鷹くん」
でも、声を掛けると落ち着いた。溢れる前に火を消せたって感じ。それに安心してるのは誰でもない、夜鷹くん自身に見えた。ニコニコ笑ってくれる彼は隣に並んで、不意に兎のキーホルダーを指摘される。
「それ、貰いものですか?」
「え……か、可愛いですよね」
反射的に擬態する。可愛いと思った事はないけれど、夜鷹くんには可愛く見えているかもしれないから。私の感性は人と違うから、だから、あぁ、緊張する。
私が瞬きを繰り返すと、やっぱり夜鷹くんの穏やかな声がした。
「……そうだねって、言いませんよ」
同意ではない言葉。予想してなかった返事に息が止まる。
咄嗟に顔を上げると、深い静けさがあった。
こちらを探るような薄暗さを孕んだ目。どんな花を咲かせようか後出しで考えてる蕾、なんて表現は変なのかな。
この子の目は繊細な森だ。私の一言で木漏れ日が射したと思えば、不安そうに葉が垂れて影を落とす。どうにか蔦を伸ばそうとするけど、それは優しすぎて直ぐに千切られてきたみたいな、不安の樹海。
どうしてそんな目をしてしまうのか。どうして私が欲しい言葉が分かってしまうのか。
分からないけど、君のお陰で、私はジキルでも息を許された気がした。
「……夜鷹君くんの目は、凄いですね」
「目?」
「そう、目。凄く、深い目。静かな森みたい。誰もいない森。息を潜めて周りを見てる。だから、綺麗」
赤信号の横断歩道でお喋りする。いつもより呼吸が楽で、言葉が零れて、笑顔になれる。
「その喋り方がいいです。敬語じゃなくていい。俺の方が年下なんで」
「え、あ、」
「稲光さんが良かったらですけど」
「い、良いよ。分かった。ありがとう」
胸の前で両手を握り、何度も頷く。青信号で歩き出せば、夜鷹くんは可笑しそうに笑っていた。……なんだかこの子の方が落ち着いてる気がする。自分の方が年下だって言ってるけど。
いや、それより夜鷹くんだけ敬語って言うのは、やっぱり嫌だよ。
「ね、あの、夜鷹くん。なら、夜鷹くんも敬語じゃなくていいよ」
「……良いの?」
「うん。私は、その方が嬉しい」
「分かった……あ、勝手に稲光さんって呼んでたけど、どう呼んだら落ち着く? 愛恋さんがいい?」
たぶん、普通の友達の会話ならこういう確認はない。もっと自然と近づいて、離れて、居心地のいい距離を見つけるものだ。
でも夜鷹くんも私もそういうのは不慣れなんだろう。不器用な会話を、不器用同士がなんとか繋ごうとしてる。
私は名前でいいと言いかけて、ふと口を噤んでしまった。
もうお父さんとお母さんは呼んでくれない。ルトも呼べないと断った、私の愛称。呼んで欲しいと思ってしまった私の名前。
これは、私が私である為の呼び名だから。
「……恋でいいよ」
笑ってみれば、夜鷹くんは一度瞬きする。確認するように「恋さん?」と口にしてくれたから、私の肩から力が抜けた。
「うん、うん。それでいい。私も、昴くんって呼んでいい?」
「いいよ」
頷いてくれた彼は星の名前を持つ人。暗くて寒い空の中、頑張って自分を輝かせる恒星の一つ。その光がこちらに届くのは、燃え尽きてしまった後なのかもしれない。
そんな名前の昴くん。一緒に行動するようになってまざまざと感じる。彼の名は体を表してると。
寂しく寂しく輝いて、一生懸命こちらを照らそうとしてくれる。鎖を操って、私の裁縫を支えて、怖がらずに感想をくれる優しい光。健気な一等星。
その輝きで先に君が燃えてしまわないか、私は心配だよ。
どうか燃えないで、燃え尽きないで。頑張りすぎなくていい、太陽みたいにならなくていい。どうか私の傍で、しんどくない程度に輝いてくれてたらそれでいいから。
ねぇ、昴くん。私は君の光を、守りたいって思い始めたよ。
「すば、昴くん」
「ん?」
「ぇ、と、昴くんの高校って、この近くだよね」
年が明けて寒い夕方。そろそろ雪でも降るのかなって思う時期。私は昴くんに聞いてみた。
彼は多分、いつも私の学校まで来てくれてる。私と同じ電車通学だって言ってたけど気を遣ってくれたんだろうな。私の学校の近くで、君と同じ制服の人が歩いてるの見たことないよ。
一緒にいて分かった。昴くんは何でもかんでも私を優先して、一歩下がったところでニコニコ笑ってる子だって。私に近づくことはないのに、私が離れないか森の瞳で観察してる。私が動こうと思った時には昴くんの鎖が波打って、私が裁縫に集中出来るようにしてくれてるんだ。
『凄いね。変に人間味を残してるバクよりよっぽど良い』
昴くんは私の裁縫を真正面から見てくれる。感想はいつも嬉しくて、否定されなくて、私のブレーキはどんどん壊れていくのにね。人を駄目にしちゃう優しさを持った人だ、昴くんは。
そう思ったことは何度もあるけど、甘えているのは私なのだ。
だから、少しでも君の負担を減らしてあげたいと思って聞いたのに。
「ご、ごめんなさい」
「え、」
「嘘つくつもりはなかったとか正に嘘ついた奴の常套句なんだけど。ぇっと、嘘つくのは悪い奴がすることだから恋さんが怒るのも分かる。分かりますごめんなさい」
急に謝り始めた昴くんに驚いてしまう。無理しないでねって言いたかったのに、君を困らせるようなことを指摘しちゃったのかな。
ネックウォーマーに顔を埋めた男の子は、顔面蒼白で震えていた。いつものニコニコしてる昴くんとは違う。捨てられることに怯えた子犬みたい。
昴くんは、土で作った仮面をつけてる子なのかもしれないな。
ニコニコした仮面は乾燥しやすくて、私のちょっとした言葉でヒビが入ってしまう。その土の仮面は彼の目の奥にある森を育ててるから、彼は仮面が渇かない言葉を求めてるのかも、なんて。森とか土とか星とか、抽象的な考えは私の脳内をぐるりと回った。
ごめん、ごめんね、私は君を傷つけたいわけじゃないんだよ。君に燃え尽きて欲しくないだけなんだよ。
こういう時、どうしたらいいのか分からない。お礼を言って、励まして、それはちゃんと昴くんに伝わるのかな。伝わらなかったら彼の仮面は分厚くなる気がするから、星がもっと輝こうとしてしまうから、丁寧に、丁寧にいかないと。
裁縫だって、人の関係だって、手を抜けばそこで綻んでしまう。綻びを直すのは大変で、下手をすれば広がる一方だから、気をつけて。
「おこ、怒ってないよ、怒ってない。昴くんがわざわざ私の所まで来てくれてると思ったら申し訳ないから、大丈夫だよって言いたかったの」
「え、あ、それ、それこそ大丈夫。全然、俺がしたくてしてるだけだから」
昴くんの目が大きく揺れてる。不安で不安で堪らないって、森の暗さが増していく。大きな葉を茂らせて、蔦の向こうに隠れるように。日の光が届かない目になっていく。
駄目だよ昴くん。
その目は素敵だけど、私の声も姿も届かなくなってしまうでしょ。
「な、何が不安?」
昴くんの言葉が詰まる。それは初めてのことで、急に彼が年下らしく見えてしまった。それが可愛くて、失礼だけど面白くて、私が守ってあげないといけないって思ったんだ。
寒いと体が冷たくなる。頭も回らなくなる。だから、
「ここ、ここは寒いね。コンビニであったかいの、買う?」
「ぇ、ぁ、う、うん」
「よし!」
手袋越しに引いた手は、迷子みたいに自信がなさそう。
握り返してもいいのかなって問われてる気がしたから、私は昴くんの手を握り締めた。