夜鷹昴は砕かれる
『ねぇイドラ』
『なんだい、昴』
『イ~ドラ』
『うん?』
『イドラ』
『ここにいるよ、昴』
『知ってる、呼んだだけだから』
『おや、』
笑ったイドラを知ってるよ。いつも笑って、俺の旋毛に顔を押し付けて。恥ずかしいからやめて、なんて、言ったところで君は聞いてくれないんだ。
呼べば必ず返事をくれた。俺に寄り添って、楽しそうに名前を口にしてくれた。
知ってるよ、イドラ。君がいつか俺の元を離れるって。
ちゃんと分かってるよ。君は俺の所から飛び立つために、俺の傍にいるって。
恋さんだって一緒だ。
恋さんはルトとイドラを自由にするまでの間、俺といてくれるだけの人。分かってるよ、大丈夫。俺はその決められた期間だけでも大事にしたくて、忘れられたくなくて、頼られたくて飛んでるだけだから。
俺達の「さよなら」はレリックを全員倒した日。その日だけだ。その日だけしか許さない。それより前の強制退場なんて、誰も望んでいないのに。
「出ていけ、影法師」
炎を背にした男が睨む。イドラは立てない俺を確認し、ルトは赤い目に狙われた恋さんの傍にいた。
俺の脹脛に炎の穴が開いている。恋さんの腹部にも燃え続ける傷があり、痛覚がない俺達は久しぶりに動けないという状況にいた。
飛び掛かるバクは眼球の炎に焼かれていく。忌々し気に目を歪めている男は、ルトの動きを見つめていた。
ルトは恋さんを庇うように左手を広げている。膝をついた影法師は尖った歯を見せ、黒い長髪は地面についていた。
「出て行けって、なぁに言ってんだテメェ。お前は審判の光源だろうが」
ルトの空気が周りを凍らす勢いで冷えていく。しゃがんだイドラは俺の背中を膝で支えてくれた。イドラの足からは黒い液体が流れ続けてる。
「イドラ、」
「私はいいから」
イドラの声が警戒心をひしひしと伝えてくる。恋さんは白い髪を肩から落とし、白い目を燃やしていた。
「貴方に、貴方に指図されることじゃない」
歯を食いしばった恋さんの上で、巨大な左手が水の塊に変わる。全身に水を浴びた彼女の傷からは火が消えて、即座にルトの出血が止まった。
ふと俺にも影がさす。気づいた時には全身が濡らされ、傷が鎮火された。
イドラの傷が塞がって俺が動けるようになる。立ち上がった恋さんが再びアルカナを出して男に飛び掛かり、俺は鎖で宙を抉った。
金色の眼球全てを絡めとり、息つく前に錠前をかける。増やした鎖で男の体も同時に捕縛すれば、相手の膝が地面に埋まった。
人に使う為に作った訳じゃないけど、先に手を出したのはお前だから。
鎖を錠前で重くする。岩の如く、身動き一つ取らせてやるか。
コイツに背中は向けられない。逃げちゃ駄目だ。あの目は何処までも追ってくる。
だから、ここで潰す。
振り被った恋さんの右手が男に叩きこまれる。強烈な勢いで地面にめり込んだ審判は呻き声も出さずに黒い液体を吐き、俺は錠前をかけ続けた。
火のナイトを捕まえた時と同じように。宙で何個も岩石を砕き、相手の再起不能を狙ってる。
コイツの思惑なんて分からない。理解出来ないから怖い。
ここでコイツを潰さないと、俺の大事なものが無くなる気がするんだ。
恋さんが右手の上に左手を強く重ね、白い毛先から水を滴らせる。彼女の目は燃えるような怒りを浮かべ、俺は鎖を締め上げた。
「奪わせ、奪わせません。誰も、私から奪うなんて許さない」
男が作った炎の壁がバクを焼き続ける。周りの空気がどんどん熱くなる。
俺の顎から汗が落ちた時、黒い手の下から低い声が響いた。
審判は関節を痛めながら立ち上がる素振りを見せる。
……嘘だろ。
「奪うん、じゃない……救うんだ」
俺の鎖が炎に砕かれる。
恋さんの巨大な手が細い火柱に何本も貫かれる。
地面から這い出た男は白い髪を払い、審判が起き上がる。
男の白い目が、炎を反射して燃えていた。
全身に鳥肌が立つ。
夕映さんに会った時とはまた違う。
正に、燃え盛る業火のような怒りが肌を焼く。
咄嗟に恋さんの方へ走り出した俺の前には、赤い眼球が浮かんだ。
右耳と左肩が火に貫かれる。光線って言えばいいのか、槍って言えばいいのか。頭が一瞬別のことを考える間に足が貫かれて、俺は歯噛みするんだ。
「昴くん!」
「っ、恋さん距離とって!!」
俺と恋さんを黒い右手がすくい取り、イドラとルトが宙に浮く。赤の眼球が回り込んで火を吹いたから、俺は燃える傷を気にせず鎖を波打たせた。
恋さんの黒い左手が地面に突き刺さる。男は前傾姿勢で鋭い爪を躱し、俺達の上では眼球が爆発して退路を塞がれた。
炎の壁に囲まれる。熱気が俺達の肺を焼く。
俺の火を消してくれた恋さんは、目を血走らせて喉を唸らせた。
「私から、奪うなんて許さないッ」
「誰の許しもいらないよ。俺は俺の救済を押し付ける」
金と赤の眼球が周囲に浮いた瞬間、俺と恋さんは手から飛び降りる。
一瞬の判断で負ける。やられる。
やられる前に、動きを止めろ。
まだ足が地面に着いてない、瞬きの隙。俺は鎖で男を雁字搦めに縛り付ける。身動きの取れない男には恋さんの両手が迫り、合掌するように打ち合わされた。
響いた掌の音が鼓膜を揺らし、目の前には爆発した火の粉が舞う。
男は俺の鎖と恋さんの掌を焼ききって、躱していた。地面に這いつくばって、白い髪を乱しながら。
穴が開いた恋さんの手はしゃがんだ男の毛先すら捕まえられず、眼球のアルカナが彼女の方を向いていた。
あ、
思った時には体が動いてた。
なんて、あるんだな。ほんとに。
地面を蹴って、眼球と恋さんの間に入る。
瞬間、俺の右の視界がなくなって、意識が一気に暗転した。
***
『じゃあね、昴』
目が覚めた。
そこは恋さんの部屋だった。
ベッドに寝かされてると分かって、俺の左手が痛いほど握られている。見ると恋さんが俺の手を握って俯いていたから、俺は息を吐くんだ。恋さん意外と力が強い。左手ギリギリ言ってるんだけど。
……いや、ちょっと待って。
痛い?
俺の左手が、いま、痛い?
飛び起きて、ベッドのスプリングが軋む。
恋さんの黒い髪が驚きに跳ねる。
見渡した部屋の中には、俺達以外にもう二人いると気が付いた。
一人は篝火さん。口元に弧を描いて俺を観察している。猛禽類みたいな目だと思ったけど、瞬きと共に光がなくなった。
一人は焔さん。白い袴と白い着物で俺を見下ろしている。彼の顔には笑みがなく、静かに瞼が伏せられた。
「恋さん……痛い」
「痛い、痛いよね、痛いよね……昴くん」
顔を上げた恋さんの目元が真っ赤に擦れている。何度も拭ったんだ。確認しなくても分かる。
言葉が出てこない俺は、恋さんの指が右目の下を撫でてくれる温かさを受け止めた。
「……ねぇ……恋さん」
言葉の頭が微かに枯れる。
恋さんは俺の目を大事そうに撫でて、彼女の黒い両目からは涙が溢れ始めるんだ。
「――イドラと、ルトは?」
影の中が空っぽになった感覚がする。
背中が寒くて、無性に寂しさが胸を埋める。
「俺達の……影法師は?」
頬が上手く上がらない。
視界が滲んで喉が熱い。
唇を噛んでいた恋さんの目が一気に暗くなる。
彼女は破りそうな勢いでシーツに爪を立て、喋ったのは篝火さんだった。
「離れてしまったそうですよ、稲光さんいわく」
「は、なれた……?」
『ねぇ昴、私達を自由にしてくれるかい?』
イドラの声が頭を回る。
「審判の光源に攻撃されたそうですね。稲光さんを庇った夜鷹さんが意識を失われたそうで」
俺の呼吸が浅くなる。
頭より先に体が動いた瞬間を思い出す。
「そこでまず、吊るされた男が離れたようですよ。貴方の傷を治して、相手の言った通りに」
「そのまま、そのまま一緒に、ルトも、行っちゃった……ッ」
泣いてる恋さんの目に怒りが浮かぶ。こちらが焼かれるような激情の眼。全てを許さないと決めた業火の瞳。
「ぃか、行かなくていいって、離れなくていいって言ったのに! 一緒にいたら駄目みたいだからって、ッ」
恋さんの顎を伝った雫がベッドに落ちる。俺の手にも落ちる。その雫は、そこから焦げていくんじゃないかってくらい熱くて、痛くて、しんどいから。
「ごめん、恋さん。俺が、」
「昴くんは何も悪くない」
俺の手が再び固く握られる。久しぶりに痛みを感じた俺は、地に足がつくような感覚になるんだ。
泣いてる恋さんは、真っ赤な目元で言葉をくれる。
「すば、すばる、昴くんは悪くないよ。貴方がいて、貴方だけでも残ってくれて、生きててくれて、嬉しいんだから」
あぁ、駄目だよ恋さん。
イドラのお願いも叶えられない。恋さんのお願いも叶えられない俺に、駄目で仕方ない俺に、そんな言葉をかけないで。
「ありがとう、ありがとう、昴くん」
あぁ、駄目、駄目だ、もう駄目だ。
貴方のその言葉で、俺の涙腺が決壊する。
溢れた涙は止まらなくて、背中がどんどん曲がっていく。
鼻の奥が痛い。目が焼けそうなほど熱い。喉が締まって焦げそうだ。
恋さんは俺の頬を触って、一生懸命指で涙を拭ってくれた。
それでも俺の目頭は溶けたままで、恋さんの手に掌を重ねるしか出来ないんだ。
「ごめん、ごめんね恋さん、ごめんなさぃ」
「大丈夫、大丈夫だよ、大丈夫」
俺の目を覗き込む恋さんが滲んでる。
どうしてイドラは離れたの。
俺が気絶したから? 恋さんが危なかった? あの光源に何を言われたんだよ。そもそもアイツは何が目的だったんだ。
鼻をすすった俺に恋さんが笑ってくれる。俺は奥歯を噛むだけで、まだ笑顔なんて浮かべられないけど。
「なんで、篝火さんと焔さんが……?」
「ジキルの路地で見つけただけだ。夜鷹少年を抱えた稲光愛恋を。焱ちゃんが」
「聞けば審判の光源にやられたと言われるので、情報を貰っておこうかなって」
焔さんは気乗りしない素振りで息を吐き、篝火さんは落書きみたいな笑顔をキープする。恋さんはベッドの縁に腰かけて二人の方を向いていた。
「たきび、焚火ちゃんは知ってる? 審判の光源」
「知ってますよ」
「誰、誰あれ。教えて」
恋さんの空気が肌を刺す。俺からは背中しか見えないけど、目を細めた焔さんの態度からして、優しい顔はしてないんだろうな。
篝火さんは少し間をおいて、微かに目を開けていた。
落書きの笑顔が暗く染まる。
「では、先に私の質問に答えて頂けますか?」
「いい、いいよ」
篝火さんの目がしっかり開く。黒く光を吸い込む目は恋さんを射抜いていた。
「心はどこにあると思いますか?」
それは、いつか俺もされた寂しい問い。
燃える壁を挟んだ先で、篝火さんは聞いてきた。
独りぼっちの部屋で、真心くんなんて名付けたぬいぐるみを抱いてる人。
その人の問いに、恋さんは俺の手を握り締めながら答えるんだ。
「目の、目の奥にあるよ」
篝火さんの瞼が軽く見開かれる。
かと思えばゆっくりゆっくり閉じられて、彼女の肩から黒髪が流れた。
「ありがとうございます」
これにて「忘却を恐れた束縛少年編」閉幕。
次話より「擬態を千切る裁縫少女編」を始めます。
視点は昴くんから愛恋ちゃんへ。
焚火ちゃんがユエと出会う十カ月前。
昴くんがイドラと出会う四カ月前。