夜鷹昴は閉じ込められない
「次、次から私が迎えに行く」
「大丈夫だよ恋さん」
「絡ま、絡まれたよね? 夕映さんに絡まれたよね」
「いや大丈夫」
「昴は絡まれて怖がってたよ、可哀想に」
「ほら!」
「イドラちょっと黙って」
本日の恋さんはご乱心である。そりゃもう、比喩ではなく。
顔面蒼白の恋さんとハイドで合流した所までは良かった。良くないけど良かった。ちょっとホームルームが長引いたとか先生に捕まったとか言えば恋さんに心配かけなくていいと踏んでたんだ。恋さんと夕映さんの話題は遠ざけておくべきだと思うし。心労増やす意味ないし。
なのにどうして、どうして俺の影法師は正直なのか。
『夕映零という光源に絡まれて遅くなった。大変だったね、昴』
喉元まで本気の「馬鹿」が競り上がった経験は初めてだ。
恐る恐る恋さんを見たら顔から表情が根こそぎ抜けてた。両方の二の腕掴まれたと思ったら血を止められそうな勢いだし。
イドラは「痛いよ愛恋」とか言ってるけど、これはイドラのせいだから。ゲラゲラ笑うのやめてよルト。
恋さんの背中に刺々しい空気が見える。寄ってくるバクは片手間に黒い手が凪払ってるあたり、恋さんの怒り心頭は目に見えていた。
あ、バクが潰れて本当に影みたいになった。影に向かって投げたらそのまま吸い込まれちゃったし。なに今の現象。
「恋さんって背中に目があるの?」
「真剣、真剣な話してるよ、昴くん」
「ごめんなさい」
戦慄く左手が物語ってる。今の俺が気にするべきは恋さんの機嫌であってバクでもないし影法師でもない。
「あ、おーい愛恋、怒るのは後にしようぜぇ。レリックが来た」
「ねじ、ねじ伏せる。昴くんここで待ってて」
「え"、待って待ってちょっとレリックなんだから流石に、」
遠くから駆けてくるレリックが見える。それなのに恋さんは俺に詰め寄り、鎖と錠前が引かれたんだ。
あ、これ、下手したら俺の首が先に飛ぶ。
冷や汗をかいた俺は、白いのに真っ暗な目をした恋さんを見下ろした。
「強く、強くなるから。見てて、ここにいて、ステイ」
「でも、」
「……アルカナ」
え、
ぐっと眉間に皺を寄せた恋さん。
俺の頭上で水の球体が弾けると、巨大な黒い鳥籠が降ってきた。
咄嗟に躱せば黒い左手に襟を掴まれ、鳥籠に放り込まれる。転がりながら檻にぶつかると、金属音と共に扉が閉まってしまった。
新しいアルカナ。もう結構な数を創ってるのに。
「こう、こうしたら、いいね」
鳥籠の外で恋さんが笑ってる。白い目はうっとりと輝き、向こうからはレリックが近づいていた。
レリックは建物の壁を蹴って跳ねて回ってと軽快な動きを見せ、両手には湾曲したナイフみたいな物を持っている。
ナイトより遅い、でもクイーンよりは速い。キングよりも軽やか。
あれは、
「風のエースだ、強いよ」
「ッ恋さ、」
「奪わせない」
恋さんの周りで水飛沫が弾け、黒い右手が鋏を持って現れる。左手は黒い針と水の糸を持ち、恋さんの指関節から音がした。
白い髪が靡く。ふわりと見えたこめかみには青筋が立っている。
あぁ……あの人ほんとに、本気で怒ってるんだ。
俺が夕映さんと会ったの、そんなに嫌だったんだ。
状況に似つかわしくない感想を浮かべて、俺は恋さんを見てしまう。
「誰にも、誰にもあげない。レリックにも、バクにも、夕映さんにも」
飛び掛かったエースが風を纏い、恋さんの黒い手がしなる。大きく開いた鋏がレリックに迫り、怪異は素早く刃を蹴った。
飛び上がった先で待ち構えるのは黒い針。恋さんは殴るように左手を動かし、レリックの刃と針が激突する。
怪異の風と恋さんの水が混ざって弾け、空中とは思えない動きに俺は息を呑んだ。
「俊足の騎士、堅固な女王、不動の王、獰猛なエース」
俺の旋毛に顎を乗せて、イドラが笑う。俺の体には鳥肌が立ち、ルトを狙ったレリックを黒い手の甲が打ち払った。
レリックが弾丸のように建物へ激突する。砕けた壁から這い出たエースはナイフを回し、恋さんの黒い五指が地面に突き刺さった。
それはまるで、砂を掬うように。
恋さんのアルカナが地面を抉り、隆起した瓦礫をエースに向かって打ち放つ。砂場遊びのように宙を舞ったのは、直撃すれば潰される巨大な礫だ。
エースは瓦礫を砕いて蹴り跳び、恋さんに向かう。
「――返サレヨ、返サレヨ」
聞こえたのは、知らない荼毘声。
男のような女のような、二重になった怪異の声。
真っ黒な影だとばかり思っていたエースの口部分が開かれる。縫われていた糸を千切るように、口だけ開いて咆哮する。
「戻ラレヨ、帰ラレヨッ、捜シ申シタ我ラノ主!」
宙で回転したエースが全ての瓦礫を打ち払い、ルトに向かって叫びを上げる。それは怒号のようであり悲鳴でもあるから、俺の鳥肌が止まらなかった。
「帰らねぇよ、自由を欲した俺たちは」
ルトの両手が恋さんを抱きこむ。
彼女は勢いよくエースの体に針を刺し込み、鋏が左腕を斬り取った。
「邪魔ダ人間、愚カ者ッ!!」
それでもエースは咆哮する。肌を震わせる冷たい熱量に、恋さんの足が初めて揺れた。それを許さないのがルトだ。
怯むなと言っている。倒せと示している。
黒い怪異は、光源が逃げることを許さない。
怪異自身の願いの為に。俺達の願いの為に。
戦わないという選択肢はないんだ。
俺が見るのは恋さんに駆け寄るバクの群れ。
彼女が一瞬だけ周囲を確認する間に、針が刺さったままのエースが飛び上がる。かと思えば近場のバクをナイフで突き刺し、鋭い歯で齧り取った。
バクを咀嚼するレリックは旋風を纏い、斬り落とされた腕を拾う。無遠慮に左肩に押し付けられた腕は直ぐに肩と繋がった。
バクを食える。再生できる。
獰猛なエース。
アイツらは、他の何よりも影法師に近い。
バクを蹴散らした恋さんは抜かれた黒い針を凝視する。彼女の鋏と刃をぶつけたレリックは哀れなほど怒り狂うのだ。
「邪魔ダ、邪魔ダ、アァ邪魔ダ!!」
豪風に乗って投げられたナイフが恋さんの肩に刺さる。俺の体からは血の気が引き、呻いたルトが笑っていた。
「俺を切り離すか? 愛恋」
黒い怪異の問いかけに、白い目は一度だけ瞬きする。
「離さない、離さないよ、ルト。私の願いを叶えてもらうまでは、絶対に」
その言葉は、どこまでも揺るぎない。
ルトの口角がつり上がり、俺は檻を握り締める。肩からナイフを抜き捨てた恋さんは、横目に俺を見て笑うんだ。
「そこに、そこにいてくれるだけでいいの。可愛い可愛い、昴くん」
あ……――駄目だ。
お願いを聞くだけじゃ駄目だ。この人の言う通りに動いて、座って、見ているだけじゃ駄目なんだ。
それは恋さんにとって良い子になるけど、俺の気持ちが軋みを上げる。
俺は貴方の為に動きたい。貴方の為になることをしたい。影法師を自由にするその日まで、貴方の傍にいる約束をしたんだから。
心は行動に乗ってる。
俺はそう思うから。そうだと信じているから。
ここで恋さんが望む通りにするのは、駄目だ。
俺は寂しがり屋の一等星。
燃えろ、弾けろ、閉じ込められて輝く星なんてないんだからッ
鎖を巻きつけた檻を引き、黒い鳥籠を破壊する。
砕けた鉄格子。折れた鳥籠。踏み超える破片。
目を丸くした恋さんの向こうにいるバクは、俺の鎖で絡めとった。
鋭い鞭のように鎖を操ってバクを千切る。握り締めた錠前に俺の熱が移り、恋さんに手を伸ばしていたエースの首を鎖でくくった。
バクの首を力強く引き寄せる。瞬間、恋さんの黒い手はバクの体を首とは反対方向へ凪払った。
真反対の負荷がかかったレリックの体が上と下で引き千切れる。エースの上半身を地面に叩きつけた俺は、弾けた黒い飛沫に奥歯を噛んだ。
「人間ッ!!」
風を纏った腕が忌々し気にナイフを投げる。俺の顔に迫った刃は、豪速の黒い手によって砕き折られた。
俺の手は鎖に錠前をかける。重さの増した鎖にエースは喘ぎ、鎖は一気に収縮した。
エースの首を絞めて、潰して、細くして。
首が落ちたエースは、そこで初めて沈黙した。
周りには俺と恋さんの息遣いだけが響き、どちらともなく顔を見合わせた。
「す、昴く、」
「恋さん」
エースが煤みたいに消えていく。走り寄るバクは俺の鎖に阻まれる。
「やだよ、俺。恋さんの役に立てないの、ほんとにやだ」
小さい子みたいな駄々を零す。それに恋さんは目を見開き、俺は首を掻いてしまった。
あぁ、何て言おう。どうすれば伝わるのかな。どんなことをしたら恋さんは分かってくれるのかな。
俺は飾られる人形になりたいわけじゃない。大事に守られたいわけじゃない。宝箱に入れられるのは仕舞いこまれるのと一緒で、それはいつか埃を被って、思い出になってしまうわけで。
いつか褪せて忘れられるんじゃない? 貴方が覚えていると言い張っても、俺は忘れられた心地になるんじゃない?
だから、だからさぁ、恋さんさぁ。
俺が口を開きかけた時、空から瓦礫が降ってくる。
白い文字が書かれた、それは――ッ
言葉より早く、俺の腕が恋さんを抱え込む。
そうすれば背中と頭を押さえつけるように黒い手が覆い被さり、頭上で爆発音が響いた。
衝撃を払うように黒い手が開かれ、俺と恋さんは建物の上を見る。周囲は爆発の残り火で熱されていた。
いたのは空に溶けそうな白い着物。袴の膝を曲げ、こちらを覗き込んでる白い瞳。大筆を担いだ火の光源。
炎の筆使い、焔天明さんの目は苛立たしげに歪んでいた。
エースだった残骸は、火が爆ぜる音と共に燃えていく。
「おぉい天明、悪魔と吊るされた男もいるじゃねぇかよ」
「分かっている」
「分かっている!?」
「分かってやった」
ぎゃいぎゃい騒ぐ塔を焔さんは筆で押し、隣には軽い動きで篝火さんが現れる。彼女の両手には白い防具、両足には銀の靴が纏われており、彼女の背中には月がおぶさっていた。
「レリック、死んでますね」
「風のエースだったわね。声を覚えてるわ、あの子の声が聞こえたの!」
嬉しそうな月の声だが、お前が聞いたものは二度と聞こえないよ。俺達が殺してしまったから。
人は声から忘れると言うけれど、怪異も同じなのかな。
じわじわと肌を焼く熱さに苛立ちが募る。恋さんは勢いよく黒い指を地面に突き立てて、焔さんを睨み上げていた。
「危ない、危ないですね焔さん」
「あぁ、」
焔さんは何でもないように片頬を上げて笑う。意地悪な笑顔。嫌な顔。俺、その顔すごく嫌いです。
彼は鼻で笑って言葉を吐いた。
「狙ったからな。共に燃えてくれなくて残念だ、稲光愛恋」
空気が一気に張り詰める。
俺の鎖は宙で硬度を増し、恋さんの手が地面を抉る。
アイツ、恋さんのこと狙ったのか。なんで、どうして、いやそんなことどうでもいいか。
恋さんのことを傷つけようとした。恋さんに火を投げた。恋さんを殺そうとした。
俺の鎖は建物の屋上を抉り、焔さんと篝火さんの姿が消える。即座に鎖を柵に巻き付けた俺は飛び上がり、屋上で待ち構えていた焔さんを確認した。
コイツ、本当に質悪い。邪魔ばっかりして、俺達の邪魔ばっかりしてッ
俺は屋上に着地するのと同時に鎖を打ち出し、筆を構えた焔さんの鋭い眼光と視線を交差させた。
「だ、か、ら、ッ!」
通る声と一緒にコンクリートが砕かれた。焔さんのすぐ前だ。
篝火さんは白い防具で瓦礫を巻き上げ、白い髪を俺の鎖が貫いた。彼女は文字を書けなかった焔さんの胸倉を掴む。
篝火さんは靴から勢いよく風を出し、一気に空を駆けていった。
逃がすか。
俺が鎖を素早く投げて篝火さんの足首を掴むと、焔さんの筆が触れて爆破された。爆発を風に混ぜて二人は飛び去ってしまう。
歯ぎしりした俺は黒い手に乗って来た恋さんを振り返り、顔を歪めてしまうのだ。
「恋さん、先走ってごめん、怪我してない?」
「してない、してないよ昴くん」
微笑んだ恋さんに俺は肩の力を抜く。彼女は俺の傍に寄ると、じっと目を覗き込んでくれた。
それが、安心する。俺の目を覗き込んでくれるのが恋さんで、それが俺達のいつも通りだから。
「閉じ、閉じ込められるの嫌だった? ごめん、ごめんね」
「いいよ。それに、俺は閉じ込めらえるのが嫌だったんじゃなくてね……」
一瞬だけ、言葉に迷う。
俺は軽く唇を噛んだ後、なんだか視界が変だから、無理やり笑ってやったんだ。
「恋さんの役に立てないのが、傍に居られないのが、やだったんだよ」
眉を上げて恋さんが驚いた雰囲気になる。伝わったかな、伝わってないだろうな。だから、俺はこれからも行動で示すよ。
俺の願いが叶うまで。イドラが俺の願いを叶えてくれるその日まで。恋さんが俺を忘れないでくれたら、俺はなんだって出来るから。
笑った俺の頬に恋さんがおずおずと触れる。何かを拭われた俺は、そこで気づくんだ。自分が、涙を流していたことに。
「……なんだこれ」
呟いた俺を恋さんは笑わない。ゆっくりゆっくり頬を撫でて、俺の涙を拭ってくれる。
恋さんと一緒に行動を始めて、半年くらい。
手袋越しに触れてくれた冬の日とは違う。
初めて触れた恋さんはあったかくて、俺の涙は暫く止まらなかった。