夜鷹昴は狙われた
「ごめん恋さん、時間かかって、」
「大丈夫、大丈夫だよ、昴くん」
火のナイトを倒した後、俺は恋さんに呼ばれてビルの屋上に立った。その間に篝火さんと焔さんはいなくなってるし、恋さんの方に行ったと思った夕映さんもいないし。
何も出来なかった。恋さんの為になることが、俺は何も出来なかった。
肩を落としてしょぼくれてしまう。いや、こんな態度を取れば恋さんに迷惑がかかるだろ。しっかりしろ、もっとちゃんと、笑って、篝火さんのこと追いかけないと。
熱い頭で考えていると、恋さんの水の糸が俺の額を撫でた。それだけでほっと呼吸が楽になり、イドラは俺の旋毛に顎を乗せる。
「おつかれイドラ、痛かったね」
「私は平気さ、問題ない。偉いのは昴だよ。よく火のナイトを倒したね」
イドラが俺の頭に額を押し付ける。くすぐったさに笑えば恋さんも笑っていると気がついた。水の糸は俺の額から離れていく。
「ありがとう、恋さん」
「ううん。頑張って、頑張ってくれてありがとう、昴くん。偉い。可愛い。お疲れ様」
優しく破顔した恋さんに褒められる。俺は何も為せてないのに、褒めてもらえる。
それがむず痒くて、歯痒くて、篝火さんの質問が俺の頭を回った。
『心はどこにあると思いますか』
それはあまりにも、簡単な問いだ。
『行動に乗ってる』
俺の答えは迷いなく出た。行動が俺の心を示してる。
恋さんの役に立ちたい。褒められたい、必要とされたい、忘れないで欲しい。そういった全部を示すための行動だ。言葉では足りない、示さなければ伝わらない。
だから俺は、今も篝火さんを追いたいのだ。
「篝火さん、探してくるね」
「大丈夫、大丈夫。今日はちょっと、距離を取ろう?」
その発言は、結構驚く。恋さんは俺を黒い左手で掴み、自分も同じ手に乗った。右手は勢いよくビルを飛び越える動きをし、篝火さん達が行ったと思う方とは逆方向に進んでいく。
「……いいの?」
「いいよ、いいの……焚火ちゃんの目も大事だけど、昴くんの方が大事」
恋さんは猛禽類の目になって背後を見ている。その目は焔さんを見据えていた時のように鋭く光り、俺の心臓は馬鹿になるんだ。
篝火さんより、俺のことを優先してくれてる。
篝火さんの目があんなに欲しいって言ってたのに、俺が大事だって言ってくれる。
なんで急にそんなことを言い出したのか知らないけど、嬉しくて堪らない俺は易いと思う。どんな理由があっても、恋さんが俺を優先してくれたんだから。
それでいい。その事実を記憶に刻みつけて、俺は熱の引いた鎖に触れる。
恋さんが何を願っているのかは知らない。俺の願いだって教えない。
それでいい。期限付きでいい。俺と恋さんが、イドラとルトを自由にするまでの間。
どうかこの期間だけは、胸を掻き毟ることが多い関係を続けたい。
恋さんは勢いよく隣の建物の屋上に黒い右手を突き立てる。引かれるように左手も建物に接近し、俺は壁を上ってくるバクを鎖で弾き落とした。
「ルト、ルト、分かる?」
「いいや、俺たち影法師に互いの位置は分かんねぇからな~」
「そっか、そっか」
「悪魔、愛恋、何を気にしているんだい?」
恋さんの頭に顎を置いたルトを見て、イドラが問いかける。恋さんとルトは少し顔を見合わせる素振りをし、影法師は黙って笑っていた。
恋さんは白い髪を軽く握り、警戒する目をやめない。
「嫌な、嫌な人に会った。あの人は駄目。ぜったい昴くんには近づけたくない」
「……俺、そんな弱いかな?」
恋さんの言葉に俺は錠前を見下ろす。彼女は強くて、俺とは全然違う視点で世界を見ているんだろうなって思う。その度に、ちょっと卑屈になる俺は面倒くさいんだよな。
目を丸くした恋さんは慌てて首を横に振っていた。
「違う、違うよ、昴くんは強いよ。私が嫌なだけ。ただあの人も強くて、底が見えないから。会わないのが一番。だから、あ、う、ご、ごめんね、傷ついた? 傷つけ、ちゃ、った?」
慌てる恋さんは珍しい。普段は俺がどんなに嫉妬しても笑ってるし、どんなに不貞腐れても「可愛い」とか「目を置いていく?」とか余裕を見せてるのに。
眉を八の字に下げた彼女を見ていると、俺はむず痒くて笑ってしまうんだ。
「大丈夫、傷ついてないよ。ありがとう」
「そ、そっか、なら、良かった」
胸を撫でおろした恋さんは俺に向き直る。かと思えば顔を近づけて俺の目を覗き込むから、こちらは瞬きしないように気を付けるんだ。
「ねぇ恋さん、あの人って誰? 誰と会ったの?」
「……すごく、すごく嫌な人。底が見えない人」
恋さんの鼻と俺の鼻が少しだけぶつかる。食い入るように俺の目を見る恋さんは、悔しそうに眉根を寄せたようだった。
「お面、お面の人。夕映零。魔術師の光源」
お面と言われて思い浮かぶ、白い髪を切り揃えた姿。篝火さんをぽいっと見捨てた光源か。薄情だとは思ったけど、あの人はそんなに嫌な人なんだろうか。
目を伏せた恋さんは、ゆっくり顔を下に向けた。恋さんの白い頭は、俺の鎖骨にぎりぎり触れない位置で止まる。
「……あ、あの人は駄目」
恋さんの拳が握り締められる。それに呼応するように黒い右手も握り締められ、鋏の持ち手が軋む音がした。
***
あれから恋さんは篝火さんを追うのを止めた。追う前にすることがあるらしい。それが何か教えてくれなかったけど、恋さんの猛禽類の目を見ると上手く問うことは出来なかった。
だから俺も偶然を装うことをやめている。一応GPSはそのままにしてるけど。
……どうでもいいけど篝火さんの危機管理のなさってどうにかならないのかな。あの人、絶対俺がGPS仕込んでるって分かってるのに現在地オフにしてないし。アプリも消してないし。百歩譲ってアプリがどこに隠されてるか分からないにしてもGPSはオフにしようよ。大丈夫かよあの子。
俺と高校が近いとかさして興味もないけど、この情報を恋さんに渡したらどうなるんだろう。恋さん喜んでくれるかな。夕映さんに会ってから恋さんの警戒心が上がってるから、喜んでくれることをしたいんだけど。
色々と考えていればホームルームは終わる。学校では誰も俺に話しかけないのが普通だ。俺が川に飛び込んだ変人であることは学年が上がっても変わらないらしい。黒歴史ってやつになるのかな。別にいいけど。
今日もハイドに行って恋さんの学校を目指すつもりで下駄箱を出たら、正門に知ってるような人影があった。
黒い短髪を切り揃えた人。男女兼用の服を着て、女性っぽいのに男性っぽい。こっちの感覚がバグる人だ。
「ねぇ、夜鷹昴くんだよね?」
「違いますけど」
その人は俺を見た瞬間に学校の敷地に入り、目の前に立った。俺は横にずれて声を掛けてきた人――夕映さんを躱す。ハイドではお面で顔が見えなかったけど、雰囲気とか喋り方からして十中八九この人だ。逃げよ。
しかし正門を抜けても夕映さんは着いてきた。俺の隣を歩いて凝視してくる。なんだよやめてよ怖いな。恋さんやイドラもそうだけど、影法師に関する人ってみんな距離が近いわけ?
「魔術師~」
ふと、夕映さんの声で目の前に影法師が現れる。
咄嗟に避けた俺は、右手を夕映さんに掴まれた。
全身から冷や汗が出る。足が歩道の端に誘導され、立ち止まってしまう。
「ほら、見えてる」
振り返った先には黒く輝く双眼があり、俺の喉がひりついた。
「君は優しいね、昴くん。影法師なんて押し退けて進めばいいのに。どうせ影なんだ。それなのに躱しちゃうんだから、優しいねぇ」
笑う夕映さんに心臓が早鐘を刻む。俺の背後には魔術師が立っており、冷たい空気に纏わりつかれた。
なんだこの人、なんだ、何がしたい。うわスッゲェ怖い。恋さんが言ってたみたいに底が見えない。何も分からない。
この人を見てても、感じるのは怒りだけだ。
黒く、重い、粘つくような怒り。掴まれた掌からビリビリと感情が流し込まれるようで、俺の体が冷えていく。
嫌だ、この人ほんとに嫌だ。
焔さんに感じた嫌いだなって感じとは訳が違う。この人は駄目だ。近くにいたくない。全身から滲み出てる空気を俺の頭が拒絶してる。
何にそんな怒ってるの。怖い、怖い、向けられる感情の原因が分からなくて、見ていられなくて、呼吸が、呼吸が、しんどくてッ
「あまり私の光源を怖がらせないでくれないか」
俺の前に、縛られた両手が現れる。
銀の短髪を見て、俺は久しぶりに息を吐けた。
「これはこれは、どうもこんにちは、はじめまして。自分は夕映零。魔術師の光源だよ」
夕映さんの手が嘘みたいにパッと離れる。魔術師は夕映さんの背後に移動し、イドラは体を使って俺を下がらせた。広い背中越しに見た夕映さんは満面の笑みを浮かべている。
「イドラ、」
「行こう、昴。愛恋が今日も待ってるよ」
「あぁ、やっぱり君も名前持ちか」
イドラの体が固まる。顔はゆっくりと夕映さんを振り返り、相手は楽しそうに笑っていた。
「いいよねぇ、名前はいいよ。個を確立するためには必要な要素だ。イドラという名の意味は何かな? 誰が君を吊るされた男からイドラに昇華したんだろう。君の方が魔術師よりも強いのかい? 名前持ちの方がやっぱり特別だよね」
「……なんだ? 君は」
イドラが吐き出す言葉が冷たい。
それでも夕映さんは笑ってる。
「何度でも言おう。しっかり覚えて帰ってくれ。自分の名前は夕映零。なぁに、普通の専門学生さ」
あぁ、嘘ばっかり。
普通の使い方が間違ってることくらい俺でも分かる。
この人が普通の人であるはずない。普通の枠をぶち壊して、溢れ出たのがこの人だ。
イドラが俺をより下がらせる。後ずさった俺達を、夕映さんも魔術師も見つめていた。
次は何を言われるんだろう。名前持ちってなんだろう。あの人は何を知っているんだろう。
夕映さんと喋ってると、イドラが傷ついてる気がする。喋りたくない、聞きたくないって困ってる気がする。
だから俺はこの場を離れたいのに、恋さんを迎えに行きたいのに、夕映さんに背中を見せてはいけない気がするから。
俺は拳を握り締めて、縄の刻印が刻まれた舌を動かそうとした。
「あらあらあら、喧嘩かしら?」
そこに響くのは場違いなほど穏やかな声。冷たい空気と一緒に、ふわりと現れた綺麗な影法師。
銀の細い三つ編みを揺らした、月。
「吊るされた男と魔術師じゃない。喧嘩をしてるの? 寂しいの? なんだか落ち着かないからフラフラしてたら、勘が当たっちゃったのかしら」
ふわりと黒く繋がった影を辿り、月が光源の元へ帰る。振り返ると軽く息を乱した篝火さんが立っており、月に顔を撫でられていた。
「ユエさん、気分で走らせるのやめてください」
「ごめんなさいね。なんだか行かないと~って気分になったのよ。きょうだいが喧嘩してる気がしてね」
顔をしかめた篝火さんが俺たちの方を向く。かと思えばニコッと目と口が線になって、落書きみたいな笑顔が浮かんだ。俺は頭が痛い気分だよ。痛いのはきっとイドラなんだけど。
「どういう状況かに興味ないんですけど、確認だけさせてもらいます。喧嘩してました?」
「喧嘩なんかしてないさ! ね〜昴くん」
「……つきまとわれてた」
「夕映さん、別の容疑で有罪です」
「ひっどいなぁ焚火ちゃん。ちょっと絡んでいただけさ! 最近天明くんがやり取りしてくれなくなって自分も寂しかったんだよ」
跳ねるような足取りで夕映さんが篝火さんと肩を組む。あっけらかんと笑う相手に対して篝火さんの笑顔は不動だ。玩具みたいな笑顔で「そうですか」って、シュールだな。
魔術師は影の中に消え、月は不思議そうにぷかぷか浮いていた。篝火さんの笑顔は変わらない。
「夕映さんが焔さんを怒らせるようなことをしたのでは?」
「そんな覚えないんだけどなぁ。あ、この前焚火ちゃんを放って行っちゃったからかな? 天明くんって過保護だし」
「その言い方だと私は彼に保護される対象だと?」
「もちろん」
「全身に鳥肌が立ちました」
「笑う~」
ケラケラ笑う夕映さんを確認し、俺は篝火さんにも視線を向ける。ふと目を開けた彼女は俺を見て、体の横に下ろした手を軽く払うように動かしていた。
……なんだ、そういうことか。
俺はさりげなく手を振ってその場を離れる。
小走りに路地に入ればハイドに送られ、俺は深く息を吐いた。落書きみたいな世界の方が安心するってどういうことだよ。
「平気かい? 昴」
「うん。ごめんイドラ、嫌な思いしたね」
「私は平気さ。月にも感謝しようかな」
「……そうだね」
俺は自分がいた歩道の方を振り返る。ハイドはジキルと似た光景をしてるけど、歩道には誰も立っていない。影からバクが湧くだけだ。
息を吐いた俺はスマホを確認し、恋さんから不在着信があったと気づくのだ。
「……やっべ」