篝火焚火は扉を開ける
「旅に出ようかな」
魔術師が泣いた次の日、私は変わらず朝から蒸し風呂の刑に処されていた。全身から噴き出した汗が服を濡らし、吸っても吸っても肺が膨らまない。
酸素が行き渡らない感覚に眩暈を覚える中、夕映さんはミネラルウォーターの入ったペットボトルを揺らしていた。
「流石にこの辺りの影法師も把握し終わった感じがあるんだよね。自分が足を運べる場所にはもういないかなぁ。皇帝とか運命の輪とか、どんな名前か知りたいのに」
熱い床に倒れたらしんどい。空気が薄くてしんどい。酸欠で頭も回ってない。対して、夕映さんは適度に外の空気を吸っているので健康そうだ。
「でも影法師を集める間にレリックを倒し終わったらどうなるんだろ。光源っていう首輪が無くなった方が集めるの大変かなぁ、面倒くさいのは嫌いなんだけど」
ペットボトルの水が揺れる音がする。頬がなんとなく熱い。いつから自分が俯せで倒れていたのかは、覚えてないな。
「自由になって散らばる前に、やっぱ集めたいよねぇ。世界一周旅行とか自分の念願が遠のくよ。やだやだ。やっぱ集めてレリック殲滅が綺麗かな!」
一人で喋る夕映さん。今日も楽しそうに笑って、私の髪を掴むのだ。
覗き込む笑顔に焦点が合う。渇いた唇が割れた気がした。水が欲しい。その水ちょうだい。なんて、お願いなど出来ないけど。
「まずは第一歩。焚火ちゃん、そろそろ月を頂戴よ?」
目を糸にして笑う光源。影法師を集めて何がしたいのか。念願とは、魔術師が叶えてくれるのではないか。
そんな疑問は昨晩消えた。
懇願した魔術師が、夕映さんの願いを教えてくれたから。
「……たのしぃですか」
掠れた声が喉に張り付く。指先が痙攣して、外れない結束バンドに嫌気がさす。
私の問いに夕映さんは答えなかった。それは無言の肯定、ではない気がする。今のこの人は、何も楽しんでない気がする。
「たのしそうじゃ、ないですね」
夕映さんの手に力が入る。髪の生え際が引っ張られる。
笑い続ける人間に、私は笑ってやれなかった。
「息、してますか?」
喋った瞬間こめかみに衝撃が走る。何度も床に頭を叩きつけられ、頬骨とかそこら辺が折れた気がした。脱衣所で待たされているユエさんから潰れた声も上がった気がする。
この人の暴力は突発的で、自制心がない。怖くて堪らないし、喚いて逃げ出したい。普通に眠りたい。普通にご飯が食べたい。怖いことなんて大嫌いだ。
だから私は今まで、怖いものは見ないようにしてきた。視界の外に追いやって、どうしても入ってくる場合は目を瞑って。
見えなければ無いも同然。私の世界に恐怖はない。
それでよかった。それがよかった。
でも、もう、瞑れない。
名付けられたはずの影法師が泣いていたから。涙ながらに願っていたから。
私はそこに、心を見た。
だからもう、目を逸らせない。
意地で瞼を開いて耐え忍ぶ。
暴挙の合間に見えた夕映さんの顔は、決して笑っていなかった。
どうしようもない衝動に突き動かされて、自分ではもう止められない。そんな表情だったと記憶していれば、朦朧とした私は引きずられた。絶不調の体は抵抗できず、汗だくのまま脱衣所を抜けて廊下を進む。
「零、零もうやめて! 焚火ちゃんに酷いことしないで!」
「なら出ていけよユエ。この子はお前の光に選ばれたから、今、こんな状況なんだよ」
甲高いユエさんの言葉に対し、夕映さんも曲がらない。主張は平行線。どちらも歩み寄るつもりなどない。
唇が切れても綺麗な影法師を私は笑ってしまう。ユエさんは自由にならない手で暴れ出しそうだったが、私が投げられたせいで動きが鈍った。
いつもの部屋の床に投げられた私は、夕映さんが工具箱を開ける姿を見る。電動ドリルを手に取った人はにこやかに私へ近づいた。
何をされるか分からない恐怖に自然と奥歯が鳴ってしまう。後退しようと体を捻ったが、簡単に足首を掴まれて距離など取れなかった。
「零、焚火と月の意思は硬い。他のきょうだいを探した方が効率的だ」
震えた私と夕映さんの間に魔術師が入る。それはここに来て、初めて見た夕映さんに対する意思表示だ。
魔術師は動ける影法師だったか。そうかよかった。こちらの味方になってくれるなら、
などと、私が一瞬だけ気を緩めた時。
夕映さんの首に電動ドリルが突き刺さり、駆動音が響き渡った。
首の皮膚を粉みじんに破壊し、肉を散らして抉り出す。
部屋には魔術師の絶叫たる荼毘声が響き渡り、私もユエさんも動けなかった。
それは何分続いたのか。何秒かの時間だったのか。分からない。
魔術師からは血と気泡の混ざった声が上がり、床には大量の黒血が飛び散った。
「そろそろ危ないか」
針が半分ほど刺さったところで夕映さんがドリルを抜く。首を押さえた魔術師は、四肢を痙攣させながら蹲っていた。
「影が光に意見するな」
「だ……だが……れぃ……」
「喋るなよ」
夕映さんは自分の左手首にドリルを当てる。再び反響した駆動音はうるさく、魔術師の言葉にならない声と共鳴した。
ドリルが夕映さんの手首を貫通した時、魔術師に喋る気力など残されていなかった。
勢いよく工具を抜いた光源は満面の笑みで私の上にくる。硬直していた私の首を押さえつけ、耳たぶに工具の先が宛がわれた。
「さぁ、次はユエが叫ぶ番!」
ドでかい駆動音と共にユエさんの絶叫が窓を揺らす。のたうち回る影が抵抗しようとすれば、夕映さんに蹴られた魔術師が止めざるを得なかった。
あまりの恐怖に気づけば私も叫んでる。耳の次は鎖骨が抉られ、かと思えば逆の耳。
暴れる足では何も蹴れない。押さえつけられた腕では何も殴れない。目尻を伝った涙さえ拭えない。
あぁ、ごめんよ魔術師。
私には、この人を救える気が全くしない。
***
「……指名する相手を間違えてるに一票」
「あらあら……」
今日も今日とて気絶した私はさっぱりとベッドで目を覚まし、機嫌が良さそうな夕映さんにバクを食わされ自由時間である。なんでも今日は専門学校に顔を出さなければいけないのだとか。
十数分前に出て行った人を思い出し、私は脱力したままベッドに寝る。ユエさんもぐったりともたれていた。彼女は両手だけでなく両膝も影で固定され、首には重りまでつけられている。月を地に落とすとはいい度胸だ。
魔術師は夕映さんの言う事を聞く。それは痛みによるものかと勘繰ったが、どこか違ったので要観察事項だ。
そして今は魔術師もいないので逃げる大チャンス。だがしかし、気絶から目覚めたら窓には影の杭が打たれ、扉には鍵がかけられていた。軟禁ではなく監禁に切り替えやがったなあの人間。
「焚火ちゃんどうする? 逃げる? きっと今なら逃げられるわ! そうね逃げるのがいい! アルカナ使っちゃえばこんな扉一発よ! 窓は魔術師の影が術をかけてるから触らないでおきましょうね!」
「これで扉の外に夕映さんが立ってたらどうします?」
「殴ればいいと思うわ! 焚火ちゃんなら勝てる!」
「一回負けてます。この場を把握してる点でも夕映さんが有利です。ユエさんが自由にならないとハイドには行けませんし」
私は扉を見て、窓を確認し、魔術師の影で拘束されたままのユエさんで視線を止める。
影法師は私の顔に鼻を寄せると、おかしそうに肩を竦めた。
「負けたのはバク不足のせいよ。だぁいじょうぶ、大丈夫。今の焚火ちゃんはしっかりバクを溜めてるわ。建物の有利不利だって飛んでしまえばどうにかなると思うの。零よりも、焚火ちゃんの方が風の扱いは上手いもの」
拘束された手が私の前髪を撫でる。ユエさんの影から出た黒い紐は私の頬を持ち上げる形で遊んでいた。
……。
「……扉を開けたら、化け物がいるかもしれない。そんなの怖すぎる」
ユエさんの影が私の頬を潰して止まる。
私は鍵のかかった扉が、玄関に見えて駄目だった。
開ければ包丁を持った化け物がいる。いや、立っているのはお面をつけた夕映さんかもしれない。
そしたらどうだ。私は動けるのか。殴れるのか。失敗したらまた怖い思いをするのに。ならば何もしない方がいい。
でも、いつまでもここに居続けたくもない。逃げたい。自分の部屋に帰って真心くんを抱き締めたい。ユエさんに願いを叶えて欲しい。
恐怖と願望が混ざって息が苦しい。まだ鼓膜には電動ドリルの音が残っている気がして、ユエさんの悲鳴は頭にこびりついていた。
「焚火ちゃん……」
ユエさんの影がゆっくり私の頬を撫でる。私はそれ以上何も言わず、ただただ時間が過ぎるのを感じていた。
静かにしていても心音がうるさい気がして、逃げられるかもしれないという期待を不安が押し潰していく。
怖い、怖い、どうすればいいのかなんて分からない。なんでほんと、光源ってこんなに面倒くさいんだ。
疲れた私が目を閉じかけた時、不意に、窓の外に人の気配を感じた。
反射的に起き上がって窓に近づけば、外には変わらず林が広がるだけだ。心音がよりうるさくなる。
誰かいた? いや気のせいか。神経過敏。もしかして夕映さん。でもなんで窓。大人しくしてるか見てた? 私がちゃんとしてるか、笑ってた?
軽く触れた窓に指先を弾かれる。この窓を破れば外に出られるのに。ここは一階なのに。魔術師の影が邪魔をする。
夕映さんが、もしも私の過去を知ったなら。事件の詳細を知ったなら。
今の状況の私が、扉を壊せないと分かって――
「焚火ちゃん、行きましょう?」
振り返ると、ユエさんが扉の前に移動していた。重りを引きずって、笑いながら。
「だぁいじょうぶ、大丈夫。焚火ちゃんは強いもの」
「ユエさん……」
「ここにいる間、とっても怖かったわね。私もとても痛かったわ。でも、焚火ちゃんは一度も私に出て行けとは言わなかった。微塵も思わなかった。だから私も焚火ちゃんの傍に居続けられたのよ」
「それは、」
「願いのため。分かってるわ。焚火ちゃんはいつもそう。自分を曲げない。あったかい心に抱き締めて欲しいから、なんでも凄く頑張っちゃう」
ユエさんの微笑みに口を結ぶ。影法師の言葉は続いた。
「零を救ってほしいと魔術師は言ったわ。でもそれは焚火ちゃん一人でする、なんて考えなくていいと思うの。ここを出て天明や、愛恋、昴に声をかけたらいいのよ」
「……我が道を行く人達に、協力を仰げと?」
「そんなに固い意味じゃない。助けてってお願いするだけよ。封寿だったら零とは仲良くしたいんでしょうし」
肩を揺らすユエさんは楽しそうだ。明るい結果を想像して、優しい予想に思いを馳せる。
私とは対照的だ。いつも悪いことを考えて、怖いことが起きたらどうしようと、私は体を固くしているのだから。
「焚火ちゃん」
無意識に下がっていた視線がユエさんの声に導かれる。扉を背にした影法師は、謳うように言葉を吐いた。
「貴方の周りは寒かったかもしれない。でも貴方と出会った光源は、あったかい子達ばかりだったと思うの。火傷してしまいそうなほどに」
なんて言葉で、笑うから。
私は自然と拳を握り締める。
「だから恐れないで。我が光、月の光源、篝火焚火ちゃん」
重りで浮き上がることも出来ない影が鼓舞をする。
光に向かって、立ち上がれと意見をくれる。
「貴方は強いわ」
怖い扉に視線を向ければ背中から冷や汗が流れた。
開ければまた怒られる。失敗すれば捨てられる。
いや、いや、いや、あぁ。
開けた先に化け物がいるかもしれない。
いないかもしれない。
待っているかも。
逃げられるかも。
助けてくれる人なんているか。
話くらいなら聞いてくれるかも。
私はどこにも行けやしない。誰も私を必要としないから。
あぁ違う、違う、違うだろ。
「だぁいじょうぶ、大丈夫」
笑った影を見ろ。
アレは私の元へやってきて、自由を願った化け物だ。
私を必要とした、愚かでどうしようもない奴なんだ。
私には砕くための防具がある。駆けるための靴がある。
私を必要とした、影がいる。
「焚火ちゃんなら、大丈夫」
黒い舌に浮かぶのは白い月。
私の舌に浮かぶのは黒い月。
さぁ舐めろ。叶える為に与えられた呪詛を、この舌で。
動かなければ、私は何も変えられない。
「アルカナ」
握った拳を風が巻き、結束バンドが千切れ、白銀のガントレットが顕現する。
浮いた足に巻きつく風は、白銀のソルレットとして具現化する。
ユエさんは嬉しそうに笑い、私は彼女の首を繋いだ重りを殴った。
小気味よく砕けた影の鎖を踏みしめる。浮いた影法師を引き連れて。
「ユエさん」
「なぁに?」
「それだけ喋れるなら、次にレリックと会った時も大丈夫ですね」
ガントレットを打ち合わせ、ユエさんを横目に見る。一瞬だけ呆けた顔をした化け物は、空気を輝かせて口を結んだ。
救える残影なんて残りわずかだが。きっと今の貴方の言葉は、私の拳より速いから。
私は肘から風を噴射し、ドアノブを殴り壊す。
不安も恐怖も全部こめて。
蹴り破った扉の先。
一番に見えたのは――鷹の翼で扉を弾いた、お面の人。
「――君を信じてよかった」
全身から血の気が引く。
明らかにユエさんが怯んだ空気を感じる。
「願いを最優先にする焚火ちゃんなら、逃げると思ったんだぁ」
笑った鷹が翼を広げる。私はソルレットから風を噴射する。
怯むな。負けるな。怖気づいても変わらない。
「逃げるためではありません」
意思があると示せ。「そうですね」なんて相槌はこの部屋に捨てて行こう。
「進むために、願いを叶えるために、私は飛びます」
息を吸って夕映さんが笑う。肩を上げて、顎も上げて。
だから私は顎を引き、拳を握って宙を蹴った。
「自分も願いを叶えたいんだ。だから寄越せよ、その月を!」
「あげません。私は、願いを叶えてもらうと決めている!」
お面の隙間から黒い瞳が見える。輝きを失った深淵の目。稲光さんが見ればなんと例えてくれるのか。
私はガントレットを振り抜いて、鷹の翼を殴り飛ばした。




