第6章 話の感想がそれって正気ですか
これは俺が坂井先生から特待生の処遇を聞く30分前に遡るが、俺は2日ぶりに自転車で学校に向かっていた。
謹慎明けの学校というのはどうも変な感じだ。学校を休むのは、不登校か不良でもなければ、基本的に体調不良か部活の大会、あとは身内の不幸があったときくらい。俺は中学時代に父親を亡くしているので、その関係で何日か学校を休んだことがあったが、それ以降の欠席は初めてだったと思う。元気なのに家にいたのだから、なんだかズル休みした気分だ。
クラスや部活の友人が俺の処分をどう捉えているかは分からないが、俺には懸案があった。謹慎中、生徒の間で俺がカツアゲの犯人じゃないかと噂されていることを高橋から知らされていた。大方、吉田と菊池が悪あがきで言った、俺の命令でやったという話がどこからか漏れたのだろう。幸いなことに高橋自身はそれを露ほども信じていいようで、噂の真偽すら聞かれなかった。クラスや部活の友人に対しても、笑って噂を否定すれば済むだろう。まずは坂井先生に特待が取り消されるのかどうか確認して、それから教室で弁明すればいいと。そう思っていた。
学校に着いて駐輪場に自転車を止めていると、垣根の向こうから人の声がした。駐輪場は学校の敷地の端にあって、垣根の向こうは中等部の校舎だ。どうやら中等部の生徒数人が喋っているらしい。聞き耳を立てるまでもなく、話の内容は鮮明に俺の元まで届いた。
「カツアゲの犯人、高等部の元サッカー部員だったらしいじゃん」
「まぁとりあえず捕まってよかったよな」
“捕まった”というのは逮捕されたということでは無く、教員の知るところとなったという意味だろう。
「しかし中野がカツアゲされたとか言ってきたときは面白かったなー」
「それな。何発か殴られたんだか知らないけど、メソメソ泣いてんの。マジ笑ったわ」
「それでいくら盗られたのかと思えば3千円って。そんな大した額じゃねーじゃん」
どうやら、吉田と菊池にカツアゲされたらしい生徒のことを話しているらしかった。俺はとっくに自転車は止め終わっていたが、立ち止まって中学生の話を聞いていた。
「しかも俺見ちゃったんだけどさ、あいつチビってやんの。股間にポツッとシミ出来てんだよ。それ言うのは可哀想かなーと思って本人には言わなかったけどさ、どんだけ怖かったんだよ」
中学生たちは大爆笑だった。なぜ被害者のはずの中学生がここまで馬鹿にされているのか、意味が分からなかったが、俺もいつまでもそこにいる訳にはいかないので、その場を離れて職員室に向かった。
そのあと職員室で特待生の処遇について聞いたのだが、それと同時に、吉田と菊池が退学処分になったことを告げられた。
「本当は言っちゃいけないんだろうけどね。でも2人がいないことは見れば分かるし、同じことさ」
それは意外な話ではなかった。事件を目の当たりにしてもなお2人を仲間と見なせるほど、俺はできた人間ではない。だから可哀想だとか、学校で会えなくなって悲しいとか、そういう感情は起こらなかった。
「あとこれは悪いニュースなんだが――どうやら一連のカツアゲと暴行事件、キミが主犯じゃないかって生徒の間で噂されているらしい」
それもすでに知っている話だったので、俺の表情は変わらない。謹慎中、高橋からメッセージで知らされていた旨を伝える。
「そうだったか。どうしてそういう噂になったのか私にはさっぱり分からないんだが……。とにかく、キミが悪くないことは私が一番知っているし、早急に誤解が解けるよう私も力を尽くす」
坂井先生は、いつにも増して真剣な表情だった。大方、
「あいつらは、退学したんですよね」
俺が念を押すように尋ねると、坂井先生は「それがどうしたのか」と言いたげな表情で首肯した。それを見て、俺は決意する。
「その噂、放置しておいてもらえますか」
あるとき、母親が「死にたい」と口にしたことがあった。それは忘れもしない中学2年の秋、父親の事故から半月が経った頃だった。きっと母親も、本当に死ぬつもりだったのではなかったのだろう。しかし本気だった。気持ちに、表情に、嘘は見えなかった。
父親を轢いた運転手は死亡し、残された俺と母親は本当に取り残されてしまった。あいつさえいなければと思うまでもなく、運転手は死んでしまった。怒り、嘆き、恨み――湧き上がる感情をぶつける加害者がおらず、自分で受け止めるしかない。受け止めきれなければ、壊れてしまう。死にたいと思ってしまう。それがまさに母親の状況だった。
母親は果たして死ななかった。心の支えなき母親をつなぎ止めたのは、養わなければならない俺の存在と、始まってすらいない裁判という現実的な問題。生きる希望や支えを取り戻した訳ではないから、問題が解消されれば今度こそ死んでしまうかもしれない。裁判が結審すれば。俺が独り立ちすれば。そして裁判がとうに終結した今、俺が一人で生きていけるであろう歳になったら今度こそ母親が死んでしまうのではという疑念は消えない。
もし運転手が生きていればどうだっただろうか。運転手は反省し謝罪しただろうか。しかしそれは大した問題ではない。もし運転手が平然と無罪を主張しようものなら、俺たちはこんな奴絶対に許さないという憎悪に燃え、それを支えに生きることができたはずだ。母親だって、こんな奴のためには死ねないと思ったはずだ。だがその運転手は死んだ。怒り、あるいは憎悪という支えが俺たちにはなかった。
普通なら加害者が非難されるところだが、分かりやすい犯人がいなくなったことで、何を言っても許される事件になった。たとえば、運転手は会社での強いストレスからアルコール依存症を起こしていたことが分かると、アルコール無しで生きることは困難だったのだから情状酌量の余地があると言う人がいた。悪いのは運転手ではなく社会構造そのものだと言う人がいた。運転手本人の亡き今、その家族に巨額の賠償金を求める被害者遺族は人の心がないと言う人がいた。事故直後で調子を落としていた俺に、「いつまでも引きずるな」と言った人がいた。
もちろん、全体から見れば本当にわずかにそういうことを言われただけ。だが、憎悪を心の支えにすることもできず、外野から運転手は悪くなかったという声が投げられたらどうだろう。加害者、犯人がいないということが、どれだけ悔しいことか。
先ほど駐輪場の陰で聞いた話を思い出す。確か中野と言っただろうか、カツアゲされたという彼は、他の中学生から酷い陰口を叩かれていた。高校生2人に囲まれ、金をせびられ、殴られる。さぞかし怖かったことだろう。泣くのも、小便を漏らすことだって何らおかしくない。
ただ、それを知らない外野からすれば、カツアゲは絵空事と同じことだ。たとえば吉田と菊池は、劣等感と戦った末に犯行に及んだらしい。俺にはその理屈が理解できないが、それでも内情を知れば2人に同情する者がほんの僅かにもいるかもしれない。何人いるとも知れぬ被害者の中学生たちは、退学した虚像を恨みながら、加害者に同情する声を浴びせられる。それは、昔の俺たちと同じだった。
一連の事件に必要なのは、分かりやすい犯人の存在だ。吉田や菊池に絡まれた、何人いるとも知れぬ中学生たちが、「あいつにやられたんだ」「あいつさえいなければ」と指をさすことができる存在。恨みや怒りを心の支えにできる存在。そして誰からも同情の余地のない、極悪非道な絶対悪。
犯人がとんでもない脅威であれば、被害者が後ろ指をさされることはないだろう。周囲に慰められて、いくらか傷が癒えるとなお良い。だが吉田と菊池が退学し、この学園に犯人が不在の今、絶対悪となれるのは首謀者だと疑われている俺だった。そのためには、俺は学園中に悪評が行き渡るような存在にならなければならない。俺はこれまで友達も多い方だったし、なにより正義感が強かったと自認しているが、それも捨てなければならないだろう。そしてそれは、過去の悔しい経験をほかの誰かにさせなくて済むならば、なんの抵抗もなく捨てられるものだった。
「……は? 何を言っているんだ」
当然、坂井先生は困惑した。
「その方が俺にとって都合がいいんで」
「意味が分からないな。生徒が誤解されているならそれを早急に解決するのが教師の務めだ」
「務めも大事ですけど、俺の意思も尊重してくださいよ」
俺は明るい表情を作って言った。何も悪評を流せと言っているのではない。それを否定せず、黙認してくれればいいのだ。
「……犯人が不在ってのは、とてつもなく辛いものですから」
明らかに納得いかない様子の坂井先生に一方的に言い、俺は職員室を出た。
ここからの俺は、嫌われ者だ。
教室へ行くと、クラスの親しい連中が俺を取り囲み、心配そうな表情で噂の真偽を確かめてくる。見るからに念のためという感じで聞く彼らは、俺が首謀者だと本気で思っている訳ではないのだろう。俺が笑って「そんな訳ないじゃん」と言えば、それで全て元通りになる。
だが俺はそうしない。今まで出したこともないような低い声で、俺を取り囲む連中を睨み付ける。仲のいいクラスメイトやチームメイトとも、今までの自分とも、これでサヨナラだ。
「うるせぇよ。なんか文句あんのか」
あまりの変わりように困惑するクラスメイトをよそに、俺は学園一の嫌われ者となった。
「馬鹿じゃないの」
俺が話し終えるや否や、須崎は心底呆れたという表情で俺を見る。
「そんな、中学生の陰口をちょっと聞いただけで嫌われ者になろうなんて、信じられない。頼まれた訳でもなく、自分の知り合いのためでもなく、それで誰かが救われる訳ないいのに。常軌を逸しているわ」
そうだろうと思う。自分が首謀者に徹すれば誰かが救われるというのは、本当に身勝手な欺瞞だ。最低な偽善。分かりやすい犯人が存在したところで、実際にどれだけの者が助かるかは全く分からない。
「それに普通なら、学校で怖い思いをすれば学校に来なくなるものよ。犯人がのうのうと生きているなら尚更。そんな事件、一刻も早く忘れて日常に戻りたいもの」
「ああ」
痛いところを突かれる。俺がもし父親の事故で別の経験をしていれば、あるいは謹慎明けに被害者が馬鹿にされているのを目撃していなければ、全く違う結果になっていたかもしれない。だが後ろ指をさされる被害者なんて、俺が最後で十分だ。
「くだらない話をしてしまったな」
呆れ顔の須崎にそう言い、この件は他言無用で頼むと付け加える。
「本当にくだらないわ。私を助けてくれたヒーローがこんなに馬鹿だったとはね」
「そんな思い出さっさと忘れちまえ」
俺はそう言って残りのコーヒーを飲み干す。中身は冷めるどころか、冷房に当てられて冷たくなっていた。
「でもまぁ、話は分かったわ。あなたが嫌われ者をやっているのも、正義感の強さからだということも。あのときから変わっていなかったことが分かって、よかった」
「よせよ。人を善人みたいに言うな」
「副学級委員長に指名したのも、あなたの居場所を作って、あなたを認めさせたいという思いがあったからなのだけど……まるで無意味だった訳ね」
「そういうことだな」
俺は答えながら内心ではかなり驚いていた。前に俺を副委員長に推薦した理由を聞いたとき、彼女は自分の権威を高めるためだとかなんとか、そういうことを言っていたように思う。それは単なる方便で、実際は俺のためだったのか。
「で、なんで今日は制服なんだ?」
この話は終わりとばかりに、今度は俺が質問する。これは今日一番気になっていたことだった。
「今日は私、洋梨じゃなくて須崎陽菜としてここに来たから。学校とは違う佐藤くんに会えるから、このままの関係でもいいって思ってた。でも私は学校でもあなたと仲良しでいたい。そのためには、ネット上の仮の姿ではなく、須崎陽菜としてあなたと向き合おうと決意したの。この格好なら、あなたも私を須崎陽菜だと思うしかないでしょう?」
「それはそうだが……」
「話を聞いても嫌いなままでいろって言ってたわね。悪いけどその約束を受けることはできないわ。だって私、あなたを嫌いになったことが無いから」
えっ、と声にならない声が漏れた。動揺する俺に、須崎は「あなたが私を助けてくれたときからずっとね」と言い、いたずらっこのように微笑んだ。
「佐藤くん。あなたが好きよ」
同時更新のエピローグに続きます。
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