第5章 過去の回想は格好悪いものだ
不思議と、驚きはなかった。
「知ってたんだな」
「初めからね」
5月に初めて会ったときから、すべて茶番だったという訳だ。考えてみれば当然の話で、メガネどころか髪型まで異なる須崎のことを俺は須崎だと分かったのだ。伊達メガネ以外に普段と大して変わらない俺のことを、親しくないとはいえどもクラスメイトの彼女が分からないというのは些か無理がある。そして先日、体育の授業中に横川から、池袋で俺と須崎が会っていたことを指摘されたが、彼だって俺たちのことを別人だと疑う素振りはなかった。彼が気づいたのに、須崎がそれを気づかなかったのなら、鈍感というだけでは不自然というものだろう。
「言ってくれよ……」
「ここでのあなたは、学校では見られなくなった以前のあなただった。消えてしまった事件前のあなたを、ようやくここで見つけたの。もしあなたが佐藤くんだと分かっていることを言ってしまっては、せっかく見つけたあなたがまた消えてしまうと思った」
彼女は相当に事件前の俺を買っていたらしい。中学時代の、本当に些細な出来事を――俺ですら言われるまで忘れていた、そんなことをずっと覚えていたのだから。
「だから教えて欲しい。あなたはどっちの姿が本物なのか。去年の一件で何が起こったのか」
いつかのように、「関係ねぇだろ」とは言わなかった。
「……なんで、そんなに知りたいんだ」
「あなたは知らないだろうけど、全く同じ人物が場所によって言動を変えてくるというのは、相当不気味なものよ」
須崎は冗談めかして言い、「それに」と続ける。
「あなたはヒーローだから。暴力事件なんかで周囲から嫌われるべき人だとは思わない。だから、そうでないことを、あなたの口から聞きたい」
――悪評を否定しないのは自由ではあるけど、それはキミのことを大切に思う人を苦しめるだろう。
前に坂井先生が言っていたことを思い出す。果たして須崎も、苦しんでいたのだろうか。
「……そんなに大層な話じゃない」
それが話し始めの合図だった。自分で言葉にするのは初めての、大したことのない話。
サッカーは小学校のときからやっていた。親の勧めだったのか、誰かに誘われたのか、それとも自分からやりたいと言ったのか、きっかけは覚えていない。とにかく、俺は少年サッカーのクラブチームに入団し、サッカーに明け暮れていた。そこで出会ったのがチームメイトの吉田と菊池だ。小学校は学区の関係で違ったが、チームメイトの中では一番の仲良しで、「将来は全員でJリーガーになろうな」なんて、そんな夢を語り合っていた。
吉田と菊池の両親は教育熱心で、中学受験することは半ば必然だった。そしてそれは俺も例外ではなく、受験に苦い経験があるらしい父親が、中高一貫かつ難関大学への合格実績がある私立への進学にこだわっていた。俺は学校にはそれほど頓着は無かったし、私立の方がスポーツには適しているらしいと知っていたから、早いうちから中学受験を意識していた。どうせ受験するなら同じところに行きたいということで、俺たち3人はサッカーの強豪校でもある埼南学園中を第一志望に選んだ。俺たちは確かに頑張ったが、3人とも埼南に合格したのは今思えば本当に奇跡だったと思う。
中学では当然3人ともサッカー部に入ったのだが、そこで出会ったのが高橋だ。高橋は別のクラブチームの出身で、俺たちとは比べものにならないくらいサッカーが上手かった。1年の後半からはすでにベンチ入りしていたし、同い年でもこれほど実力が違うものかと圧倒されたものだ。
それでも俺は、もっと上手くなりたかったから必死に練習した。高橋を超えることはできなくても、高橋のサポート役として活躍できるようになろうと。サッカーはチーム競技なんだから、ひとり上手い奴がいても始まらない。だから、ここぞというときに高橋にパスを出し、あるいはパスを受けられるよう、フィールドでのアシスト役になろうと思った。高橋とお互いに相棒と呼び合い、チームからも一目置かれるコンビになったのは、中2になってからだったと思う。高橋と違って毎回ベンチに入れる訳ではなかったけど、次第にベンチ入りメンバーに選ばれる回数も増えていった。
そんな折り、中2の秋に父親が交通事故に遭った。会社から帰る途中、夜の住宅街で車に轢かれたのだ。父親は即死。父親を轢いた車はそのままの勢いで電柱に衝突し、その衝撃で運転手も亡くなった。運転手の体内からはアルコールが検出され、飲酒運転だったと後で知らされた。
大黒柱を失った我が家にとって、私立中学校の学費は当然に重荷となった。俺は退学して公立に転校すると言ったが、そもそも私立への進学は父親の意思であったし、サッカーも芽が出てきたところなのだから転校することはないと母親に言われた。母親はひとりで家を支えるべく、滅茶苦茶な生活リズムで働きに出るようになった。
幸い、高校の入学試験成績上位者には、学費諸々が免除される特待生の制度があった。特待生になれれば、むしろ公立高校に通うより安くなる。だから俺がこれを意識したのは必然だったし、サッカーとともに今まで以上に勉強に精を出すことになった。もともと勉強は苦手という訳ではなかったが、それでも入試の成績上位者になるには相当な努力が必要だ。
須崎も知っているだろうが、内部生が受ける入試というのは形式的なもので、落ちる奴なんてひとりもいないし、どちらかというとクラス分けテストの意味合いの方が強い。中学はどのクラスも同じレベルだったが、高等部からは特進、進学、教養の3クラスに分かれることになる。ただまぁ、よほど勉強熱心か、あるいは俺のように特待生狙いでもなければ、まともに対策する生徒はそう多くないだろう。そのおかげもあったんだろうか、俺は特進クラスに合格し、さらに特待生に選ばれ、ほとんどタダで高校に通えるようになった。吉田と菊池が教養クラスに入ったと知ったのは、入学式がとっくに終わった頃だったと思う。
クラスが変わればいくらか接点も減るだろうが、部活は基本的に持ち上がりだし、俺は特になんとも思っていなかった。友達のままでいられるし、サッカーも一緒に頑張れると、そう信じて疑わなかった。友人であると同時にライバルだった高橋とは違い、吉田と菊池は小さいときからずっと一緒に成長してきた仲間だから。その絆は誰よりも強かったから、俺はクラス分け「ぐらい」で瓦解するとは一切思わなかった。しかしそれは俺のエゴだった。教育熱心な親に試験結果がどう受け止められたかとか、試験であいつら自身が抱いた劣等感だけじゃない、仲間である2人に目もくれず高橋ばかりを追いかけていた俺が、あいつらからどう見えていたのかすら気づかなかったのだから。4月のうちに、あいつらはサッカー部を辞めた。
それからしばらくは順調だった。吉田と菊池が去ったのは悲しかったが、サッカー部を生き残るには高橋に追いつき追い越さなければならない。周りを気にする余裕はなかったし、なにより次第に成長を自覚できてサッカーが楽しかった。中等部のほうでカツアゲが頻発しているらしいとの噂を聞いたのはこの頃だが、自分は無関係だからと特に気にもしていなかった。
実際、無関係だった。だが、どうやら吉田と菊池が中等部の校舎裏に中学生を呼び出し、カツアゲして口止め代わりに数発殴っているらしいという噂が流れた。俺はにわかには信じられなかった。
しかし実際に目撃してしまっては、信じる信じないの話でもなくなってくる。放課後の練習中、体育館裏まで飛んでいったボールを拾いに行くと、本当に吉田と菊池が中等部の生徒を囲んでいたのだ。何かの間違いではないかと物陰で様子を伺っていたが、もう言い訳の余地もないほどにバッチリと、今にも泣きそうな中学生から財布を受け取り、中から紙幣を引き抜いていた。
「おい! 何してるんだ」
俺が大声で近づくと、2人はギョッとして振り向いた。その隙をついて、中学生がこれ幸いとばかりに逃げていく。
「本当にお前らの仕業だったんだな」
俺は自分の友達が、そして以前のチームメイトがこんなことをしていたと知り、ショックを隠せなかった。だが2人はそんな俺をよそに、ニヤリと不敵に笑う。
「サッカーができて、しかもA組合格の優等生クンは、さぞかし人生が楽しいんだろうなぁ」
「まったく。俺らみたいな底辺の気持ちなんて知る由もないんだろうな」
吉田と菊池はそう言った。反省の色が見えないどころか、すべてはこの世の不条理のせいだとでも言いたげだった。
「……何が言いたい」
「偉そうな口叩くなっつってんだよ」
菊池が俺の胸ぐらを掴んで言う。俺はそこで、今の彼らにとって、今の俺は仲間でもなんでもないのだと悟った。俺はこいつらにとっては、小学校からの仲間を取り残して自分だけ成功した裏切り者なのだと。
「あんな暑苦しいスポーツ、よくやるよ」
「本気でJリーガーでも目指してんのか」
俺は捕まれていた服の首元を菊池から強引に引き離す。
「こんなことは今すぐやめろ。こんなダサいことやる人間じゃないだろ」
「だから命令すんじゃねぇよ。ダサくて悪かったな。サッカー部では落ちこぼれ、試験でも落ちこぼれ。何もかも上手くいってるお前に何が分かるんだ」
俺は高橋に追いつくためにサッカーを練習した。高橋が相棒と俺を認めてくれているのも、少しずつではあるが試合に出られるようになってきたのも、俺が頑張ったからだ。猛勉強したのだって、学費の負担を減らすためで――。
「俺は死んだんだよ。天才のお前には分からないだろうが。親が死んでも自分まで死ななくてよかったな」
それを言ったのは吉田だったか菊池だったか。しかしそれが引き金だった。俺は言い返すより先に手が出た。俺から手を出したのはマズかったがもう遅い。そこからは取っ組み合い、殴り合いになり、さっき逃げていった中学生が呼んだのだろうか、駆けつけた教員らに取り押さえられた。当然、そこで吉田と菊池のカツアゲも明るみに出ることになった。
その後、担任の坂井先生や学年主任、職場から駆けつけた母親を交えて面談となったのだが、そこで吉田と菊池が「佐藤の命令でやっただけだ」と言ったらしいことを知る。俺は殴られたところに鈍い痛みを感じながら、往生際が悪い奴だとぼんやり思っていた。教員たちも端から信じていなかったようで、俺が否定すると「そうか」の一言で済んだ。
ただ、俺から相手を殴ったことは問題視された。俺が相手の言葉に激怒し殴ったということは坂井先生も理解してくれたが、それでも無罪放免とはいかず、その日のうちに2日間の謹慎処分が決定された。
そうなってしまうと、特待生のままでいられるかは俺にとって大問題だった。謹慎相当の不祥事を起こしたのでは、特待が取り消される可能性も十分にある。それはとても困ることだった。帰り際、それとなく坂井先生に問うと、「教員の間で再検討ということになると思う」と先生は言った。目の前が暗くなるとは、まさにこういうことを言うんだなと思った。
だが俺の顔を見た坂井先生は、「……だからまぁ、私の方でできるだけ手は回しておく」と言ってくれた。そのまま謹慎に入り、俺は祈るような思いで2日間を過ごした。
謹慎明けに職員室に寄ると、「やあ久しぶり。謹慎ライフは楽しかったかい」と脳天気に俺を迎えた坂井先生に、特待生の件はなんとかなりそうだと告げられる。
「苦労したよ。日頃の態度とサッカー部の実績、あと普段の成績が良かったんでなんとかなったが」
坂井先生は、やれやれとばかりに言った。「『そこまで言うならなら坂井先生に免じて対応しましょう』って教頭に言われてね。この歳で、ひとつしかない“免じる顔”を使っちまったんだ。感謝しろよ」
本当に、感謝してもしきれない。「ありがとうございました」と俺が深々と頭を下げ、これで一連の事件は一応の決着を見た。
そこまで話し終えると、俺はこれにて一件落着とばかりにコーヒーをすする。中身はすっかり冷め切っていた。
「な? 大した話じゃなかっただろ」
黙って話を聞いていた須崎は、それには答えずにじっと考え込んでいる。やがて、「そんなことがあったのね」と、ポツリとつぶやいた。
事件なんて言っても大げさなことではない。小学生時代からの仲間が中学生相手にカツアゲと暴行を働き、それを俺が見てしまったというだけの話だ。暴力事件とは言うけれど、蓋を開けてみれば単なる殴り合いの喧嘩ではないか。どうしようもなく、情けない話だ。
「でも待って。それで終わりではないのでしょう?」
須崎は俺をまっすぐ見据えて言った。
「終わりだよ。これが事件の顛末だ。これ以上言うことはない」
「いいえ。事件はまだ終わっていない。事件はまだ続いているわ。あなたが首謀者だと恐れられることによって」
言わないで済むのならそうしたかった。だから俺はそこまで言わずに話をやめた。だが、彼女はそれを許さない。
「あなたが、どうして事件の首謀者だと思われているのか。どうして嫌われなければならなかったのか。どうして噂をあなたは否定しないのか。その話がまだ残ってる」
ここから先の話は、事件に関わった坂井先生すら知らない。なんだかんだ尊敬している坂井先生にも、今やただひとりの友人である高橋にも、俺が言っていないから。もし誰かに言ったら、ここまでの1年が無駄になることを、誰よりも俺がよく知っているからだ。
「須崎。お前、俺のことどう思ってる?」
至って真面目な問いだったのだが、それを聞いた須崎は激しく動揺した。
「なっ、何を急に言い出すの……っ! わ、私は別にあなたのことは――」
「話の続きをするのはこの際構わない。でも須崎。頼むから、俺のことを嫌いなままでいてくれ」
これを聞けば俺に惚れるということを言いたいのではない。ただ、噂の数々をこれまで否定しなかった俺が、初めて明確に噂を否定するとしたら、俺のことを事件の首謀者、最低な危険人物として扱うのは困難だ。それでも、そうしてもらわなければならない。そういう話をしようと思う。誰も知らない、心底くだらない話を。
次回、第6章「話の感想がそれって正気ですか」は3月19日(金)23時00分投稿予定。同時にエピローグまで更新して完結となります。最後まで応援よろしくお願いいたします。
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