第4章 覗いてもいない深淵がこちらを見ている
昼休み、須崎と共に印刷室に行くと、坂井先生が印刷機の前で「ご苦労ご苦労」と言い俺たちを迎えた。印刷機はガッシャガッシャと異様にやかましい音を立てながら、このあと授業で使うと思われるプリントをリズムよく吐き出している。
「もうすぐ終わるから待っててな」
坂井先生が印刷機に紙を補充しながら言った。実際、3分ほど経つと印刷機は紙を吐き出すのを止め、途端に印刷室は静まりかえる。どうやら印刷が終わったらしかった。
「じゃーこれを頼む。できれば配っておいてもらえると助かるが」
坂井先生は3種類のプリントを混ざらないように向きを変えて須崎に渡す。
「分かりました」
「で、佐藤。キミは先週の小テストを持って行ってくれ」
「……っす」
俺が頷くと、坂井先生は印刷室を出ていく。小テストは職員室にあるから付いてこいということだろう。俺がそれに続くと、須崎も印刷室を出、ひとりで教室の方へ歩いて行った。
「――さっき須崎に、去年の暴力事件について聞かれたよ」
職員室に向かう途中、不意に坂井先生が言った。
「佐藤がどうしてこうなっているのかを気にしてるみたいだった」
「答えたんですか」
そう問う俺の口調は、無意識に尖ってしまう。
「いや、そういうことは本人に聞けと言っておいた」
この人は事件のあらましをすべて知っているし、先生にすら伝えていない理由があることも察しているはずだが、俺の意を汲んで黙っていてくれたようだ。ただでさえ、正体を明かしてこそいないものの須崎とは接点があるのだ。須崎が事件のことを調べる理由は分からないが、それを教えないでくれているのはありがたかった。
「安堵するな」
俺の内心を察したのだろうか、坂井先生はこちらを見ずに言った。「これは私が言うべきことではないかもしれないが」と前置きして、先生は続ける。
「もう潮時なんじゃないかと思う。キミが暴力事件を起こしたことを疑う生徒は今のところそういないが、無実の罪で恐れられ、嫌われるには限界がある」
「冗談でもやめてください」
俺は笑って言ったが、自分でも驚くほど乾いた笑いだった。
「俺は俺にしかできないことをやってるだけですよ。それに、ここで止めたら、今までの1年だってまるで意味を成さなくなる」
職員室の前まで来たが、坂井先生は中には入らず、立ち止まってこちらを振り返る。
「実は事件の直後――つまり去年だが――高橋にも事件のことを聞かれたよ」
それは初めて聞く話だった。俺が事件の当事者との噂を否定しないことは快く思っていないようだったが……。
「学校中の全員がキミのことを嫌っていると思っているなら大間違いだ。悪評を否定しないのは自由ではあるけど、それはキミのことを大切に思う人を苦しめるだろう。それでもキミが幸せならまだいいが」
坂井先生は話をやめるつもりはないようで、廊下の壁にもたれかかった。
「学校は遊びに来る場所だとは思わないが、行って楽しい場所であるべきだと思う。もちろん全員にとってというのは非現実的だが、それでもそうあって欲しい」
「……そうですか」
「自己犠牲は時に格好いいものだがな。でもキミの場合は違う。誰かの望みで犠牲になっている訳じゃない。そういうのは自己満足って言うんだ」
分かってますよ、とは言わなかった。
「こうなることはちゃんと望まれてますよ」
代わりにそう答えると、坂井先生は困ったように笑い、「そうか」と短く言った。
6時限目の体育ほど面倒なものはない。俺は体育が苦手という訳ではないが、それでもなんとなく身が入らない。周りに目をやると、それは皆同じのようだった。
準備運動の後、2人1組になって柔軟体操をすることになっている。俺のように避けられている人間は本来落ちこぼれるところだが、このクラスの男子生徒は偶数なので余らない。果たして、やはり友達が少ないと見えていつもひとりでいる横川という生徒と組むのが通例になっていた。ちなみに、高橋は同じクラスではあるが別のサッカー部員と組んでいる。
横川は、休み時間も机に突っ伏しているか勉強しているばかりで、誰かと喋っているところは見たことがない。実際友達は少ないのだろうが、毎回俺と組む羽目になって可哀想だなぁと常々思っていた。ちなみに、彼とはペアになるとは言えども仲がいい訳ではないので、話したことは一度もない。
「なあ」
だから、不意にそう聞こえても、俺は彼が声をかけてきているとは思わなかった。
「佐藤」
「は?」
突然だったので、つい素っ頓狂な声を上げてしまう。無意識ながら喧嘩腰のようになってしまう。だが、横川は気を悪くした様子もなく、やっと気づいたかとばかりに続ける。
「昨日、須崎と池袋にいただろう」
俺は言葉を失った。まさか見られていたとは……。しかし落ち着いて考えれば、埼玉県民の集まる池袋で、誰かに見られていたとしても不思議はない。県外だしいつも混んでいるので油断していた。
「去年暴力沙汰を起こしたとかいうDQNと学級委員長がデキてるとは意外だったな」
「別にそんなんじゃねぇよ」
俺はあからさまに舌打ちし、ぶっきらぼうに言う。横川はそれを見て、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「まぁそれは別にどうだっていいんだ。これは独り言だから聞き流してくれていいんだが――その後で吉田と菊池に会ったよ」
懐かしい名前を聞き、俺は自分の表情が強ばったのを自覚した。
「友達だったのか」
「別に。ただ、中等部時代は割と仲良かったかな。今じゃアイツらは落ちこぼれの底辺みたいなものだし、僕と一緒にして欲しくない」
横川は、さぞかし心外とばかりに言い、「今は大宮の通信制高校に籍だけ置いてるって言ってたな。あの感じじゃまともに勉強もしてないんだろうよ」と続けた。
「……どこまで知ってるんだ」
「そう怒るなよ」
俺は相当険しい顔をしていたのだろう、横川はヘラッと笑って言う。
「僕は何も知らない。ただまぁ……アイツらは咄嗟の言い逃れが今でも尾を引いてるとは思ってないだろうな」
柔軟は終わりとばかりに列に戻ろうとする横川を、俺は忌々しげに見つめるしかなかった。
洋梨とはもう会わない方がいいと思っていたところだったが、そんな折りに洋梨から会えないかとの誘いがあった。
「お話があります。いつでもいいので、都合がいい日があれば連絡ください」
断るつもりだったが、いつもと違って有無を言わせぬ書き方が気になった。連絡はいつも通りDMなので、相手の口調や表情など知る由もないが、なんとなく必死さを帯びているように思えて気が変わる。次の土曜日の午後であれば大丈夫だと伝えると、即座に「では土曜の13時でいかがでしょう」と返事が来た。間髪入れずにメッセージがあり、そこには待ち合わせ場所も記されていた。
「東口のパン屋の前で待ってます」
土曜日、時間通りに東口に向かうと、洋梨はすでに俺を待っていた。その姿を見、俺はギョッとしてしまう。
洋梨は俺に気づいて丁寧に頭を下げた。
「シュガーさん、毎週のように呼んでしまって申し訳ありません」
「え、ええ……それは大丈夫ですけど」
俺が洋梨の服装を見ていることに気づいたのだろう、「あ、これですか?」と彼女が言う。
「ちょっと学校に用がありまして」
洋梨は、なぜか制服姿だった。
立ち話もなんですから、という彼女に付いて、駅を背に歩き出す。ネットを介した知り合いに制服姿を見せるというのは、特定されるリスクもあって御法度だと思うのだが……なぜ制服で来たのか分からず、俺は混乱していた。須崎は部活もやっていないはずなので、休日に学校に行く用事も思いつかない。
5月に初めて洋梨と会ったときに寄ったマクドナルドに入る。俺は待ち合わせの前に昼食を済ませていたので、あのときと同じくコーヒーのみ注文した。洋梨も注文はミルクティーだけだ。
まだ昼時の混雑が残っていたが、二人でテーブル席に座ることができた。話があるとのことだったが、いきなり本題を始める気はないらしく、洋梨は「今期のアニメって何見てますか」と聞いてくる。
5作品ほど見ているのはあるが、そのうち有名だろうと思われるタイトルを3つほど答える。洋梨は「あ、それ私も見てます」と言った。
「毎シーズン、見るアニメってどうやって決めてます?」
「そうですね……基本はツイッターですかね。あとはYouTubeとか」
俺が答えると、「あぁ、やっぱりそうなんですね」と言う。
「前はYouTubeにPV集とかありましたけど、最近は規制のせいか少なくなっちゃいましたよね。言ってしまえば無断転載なので仕方ないけど、結構重宝してたので公式で作って欲しいくらいで」
「それで……お話というのは」
特段急ぐ理由はなかったが、俺はそう言って本題に入るよう促した。
「あ、そうですね」
洋梨も長々と雑談を続けるつもりはなかったらしく、咳払いをして座り直した。
「こんなことを相談していいのかと私でも思うんですが……人生相談に乗っていただきたいんです」
「人生相談……ですか」
それは意外な話だった。洋梨も須崎も、見ている限りではなにか悩みがあるようには思えなかった。ましてやそれを俺に相談するとは。制服姿といい、今日の洋梨はなんだか変だ。
その思いが顔に表れていたのだろう、洋梨はそれを見て、「こんなこと相談するなんておかしいですよね」と言った。
「でも、あなたに聞いて欲しいんです」
「分かりました」
俺が頷くと、洋梨はこんな話を始めた。
前に少し話したと思いますが、私はクラスで学級委員長をやっています。そんなに大層なことはありません。授業の始まりと終わりに起立と礼の号令をかけて、毎日日誌を書いて、先生の手伝いみたいなことをして。模範とか、代表だとか、そんなすごいことをやる訳じゃないんです。でも私は学級委員にやりがいを感じていたし、なにより、他の委員会と違って基本ひとりでいられるのが、内気な私には合っていました。そんなこんなで、中学の3年と合わせてもう5年もやってることになりますね。改めて数えると、ずいぶん長くやりました。
それでもこれだけ毎年やっていると、疎む人も出てきます。いい子ぶってるとか、成績目当てだとか、いろいろ陰口を叩かれました。実際、担任とは接点が多いですからそう思われるのも無理はありませんけど、学級委員をやったからと言って成績が良くなることはありません。自分で言うのもなんですが、私は勉強も頑張っていましたから、もし成績が良いと思われていたのならそのせいでしょう。
中学2年のとき、野球部の部長だった男の子に告白されました。彼は4番を担うエースで、そのときの私は知りませんでしたが女子からも人気があったそうです。私はその告白を断りました。でも、どこから漏れ出たんでしょう、私が野球部のエースから告白された事実と、それを私が振った事実が、同時に学校中に広まってしまいました。
私はほかの女子から敵視されることになりました。男子に媚びを売っているとか、エースを振るなんて偉そうだとか、そんなことを言われました。ものを隠されたことも一度や二度ではありません。もともと学級委員長として疎まれていたこともあって、私はクラス中、下手したら学年中の女子の目の敵にされてしまったんです。
ある日の休み時間、クラスの女子5人くらいが私の悪口をこれ見よがしに話していました。私は聞こえないフリをしていましたけど、内心では泣きそうでした。それでも、抵抗しないことが最善だと理解していました。
そんなとき、その悪口を言っていた女子たちに「そんなダセェことやめろ」と言ってくれた人がいました。今まで話したこともない、同じクラスのサッカー部の男の子でした。
「はぁ? なんでアンタがそいつの肩を持つわけ。関係ないでしょ」
5人の女子のうち、リーダー格の子が詰め寄ります。ですが、彼は動じません。
「まぁそれはそうだが。でも須崎が男子に媚びてるとか、そんなのありえないって分かんないかなぁ。だって俺、須崎に媚びられたことないぜ」
女子を敵に回すのを恐れ、外野から言い合いを傍観していた男子たちから、クスクスと笑い声が上がりました。リーダーの女子はそれを睨み付けます。
「だ、だってコイツ、西口くんを振って――」
私が振った野球部エースの名を彼女が出すと、彼はニヤリと笑い、廊下で他の野球部員と喋っていた西口くんに大声で呼びかけます。
「おーい、西口。聞いたか、お前が振られたことを安藤がクラス中の女子に触れ回ってるってよ」
安藤と呼ばれたリーダー格の女子は、しまったという顔で怯みます。
「なに!? どういうことだ」
西口くんは大慌てで教室に入ってきました。
「今やクラス中に知れ渡ってるぜ」
西口くんが安藤さんの方を見ると、安藤さんはぎこちない笑みを浮かべて弁明します。
「ち、違うの。だってコイツ……西口くんを振るとかありえないし……」
「俺が振られたのは単に魅力が無かったというだけのこと。むしろ勝手に好きになって勝手に告白して、迷惑だったよな。ごめん」
西口くんは私の方を向き直って謝り、再び安藤さんの方を見て続けます。
「俺が振られたことを言いまくってるってのも信じられないが……まさかそれで須崎に嫌がらせなんてしてないよな?」
「し、してないよ! するわけないじゃん」
安藤さんと他の女子4人が首を振るのを見て、サッカー部の彼は面白そうに言いました。
「なんだそれ。お前らの方がよっぽど媚び媚びじゃねぇか」
クラスの男子からまた笑い声が上がります。西口くんも笑っていました。
「さあさあクラスの女性諸君、あのモテモテの野球部エースが今ならなんとフリー。今のうちに傷心につけ込んで告っちゃえよ。早い者勝ちだぞー」
彼が茶化してそう言うと、安藤さんたちはいよいよ苦虫を噛み潰したような顔です。
「ちょ、やめろよ」
彼と西口くんが笑いながらじゃれ合っているのを見て、私はようやく平穏が戻ったことを悟りました。
大げさかもしれませんが、彼は私にとってのヒーローでした。彼はもしかしたら覚えていないかもしれませんが、本当に私は救われたんです。このままの私でいいんだって、そう思えたんです。
私の学校は中高一貫校なので、高校でもサッカー部の彼とは同じになりました。ですが高校1年の秋、彼が暴力事件を起こしたらしいと知りました。なんでも、中等部の生徒をカツアゲして暴行したとか、あるいはそれをするよう仲間をけしかけた首謀者だとか、いろいろな噂が流れました。確かに春からそういう事件が続いているのは知っていましたが、それの首謀者が彼だったなんて私には信じられませんでした。ですが、彼はその噂を一切否定せず、2年になってもほとんど誰とも話さず仏頂面で登校しています。中学時代に私を救ってくれた彼は、見る影もありませんでした。
そこまで言って、洋梨は紅茶を一口飲む。俺は何も言わずに黙って視線を下にやりながら、彼女が続きを話すのを待った。
「ですが2ヶ月前、ひょんなことから彼とプライベートで会う機会がありました。ツイッターで、趣味が私に似ているフォロワーさんがいたのですが、その人が彼だったのです。私はちょっと趣味について喋れる友達が欲しくて声をかけたんですが、まさか男性だとは思わなかったし、ましてや彼だったとは……」
洋梨は一端話すのをやめ、店内を見渡す。その目は、なにか懐かしいものを見ているかのように穏やかだ。
「彼は学校とは違いました。休日だったせいか格好が違うのもそうですが、無視はしないし、表情も学校とは比べものにならないくらい明るい。あの中学のときの彼そのものでした。私はそれが嬉しくて、何度も何度も彼を買い物や映画に誘いました。今思えば、浮かれていたんだと思います」
俺は洋梨の方は見ず、じっと自分のコーヒーを見つめる。洋梨と目を合わせることは、もうできなかった。
「ですが、学校での彼は相変わらず仏頂面で、今にも掴みかかってきそうな、そんな振る舞いを続けています。私に対してもそう。そのギャップが、私は不服だったし、なにより怖かった。私を助けてくれた彼。ネット上の友達として現れた彼。暴力事件を起こしたと恐れられる、仏頂面の彼。同一人物だと分かっているのにそれを受け入れられなくて、それがとても怖い」
言葉を切った彼女に対し、俺はコーヒーを見つめたまま黙って続きを促す。だがいつまで経っても続きを話す気配がないので、どうしたのかと顔を上げると、彼女と目が合った。
「佐藤くん。あなたは、どっちが本物なの」
須崎陽菜は、外したメガネをテーブルに置いて言った。その瞳は、俺を――シュガーではなく、佐藤裕也を見ていた。
次回、第5章「過去の回想は格好悪いものだ」は3月12日(金)23時00分に投稿予定。
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