第1章 だからネッ友と会っちゃダメって言ってるのに
――佐藤裕也に近づいてはならない。
埼玉県の南部に位置する私立高校、埼南学園高校の生徒であれば、この不文律を知らぬ者はいない。高等部2年A組の佐藤裕也は、1年前に暴力事件を起こし、処分されてなおも学校に通い続けている。彼に近づこうものなら鋭い眼光で睨み付けられ、気に障ることがあれば気絶するまで殴られる。ということになっている。
その張本人である俺、佐藤裕也は、そういう経緯で危険人物として恐れられ、また他方では学校一の嫌われ者となっている。噂が噂を呼んでとんでもない残虐人のような謂われをされているが、俺の振る舞いを見れば悪評が絶えないのも無理はない。元から目つきがよくない上、学校では基本的に仏頂面で過ごし、話しかけられても無視。なにより暴力事件やその他噂の数々を俺は否定していない。実際、事件に全くの無関係という訳でもないし、嫌われ者という立ち位置は自分にとって好都合でもあるので、俺自身も好き好んで嫌われ者役に徹していた。
そんな学校生活は2年に進級しても当然に変わることはなく、今は大型連休明けの5月初旬である。俺は担任から朝一で学校に来るよう命ぜられ、まだ登校する生徒もまばらな道を自転車で走っていた。学校の前まで来ると、生徒会の役員らしい4人が登校してくる生徒に向かって挨拶運動をしているのが見える。校門の手前で自転車を降りると、4人が「あれって噂の……」「おい、目合わせんなよボコられるぞ」と噂をしているのが聞こえてきた。そちらに目をやると、4人は睨みつけられたとでも思ったのか、大慌てで姿勢を正して「おはようございます!!」と無駄に声を張り上げた。
おびえる生徒会役員を横目にあくびを噛み殺しながら校門をくぐると、運動部がグラウンドで朝練をしているのが見えた。脇の体育館からは、バスケ部だろうか、小気味いい足音とボールをつく音が漏れている。体育館横の自転車置き場に自転車を止め、そのまま昇降口に入ろうとすると、グラウンドから「ゆうやー」と大声で呼び止められる。振り返ると、サッカー部のユニフォームを着た見慣れた顔が、手を振りながらこちらに走ってくる。
「高橋。なんだ、サボりか」
「まぁな。今は水分補給の休憩時間」
こいつは高橋洸輝。サッカー部の2年にしてレギュラー、しかもスタメンという有望株で、きっと秋からは部長としてチームを引っ張るのだろう。去年までは俺もチームメイトだったが、事件をきっかけに俺がサッカー部を辞めたので、クラスが同じであること以上に接点はない。ただ、ことあるごとに「戻ってきてもいいんだぞ」と言ってくる程度には良好な関係で、事件以降は学内で唯一友人と言える存在である。
「俺は水分だったのか」
「その割には干からびた髪してんな」
高橋は楽しそうに笑う。と、グラウンドの方へ目を向けると、現に、高橋の後輩らしいサッカー部員たちが、こちらを心配そうに見ている。悪名高い佐藤裕也と二人でいるものだから、エースストライカーが殴られやしないかと内心ハラハラしているのだろう。
「いいのか? こんなところで俺と喋ってて」
高橋がそれに気づいていないはずはないが、後輩たちには目も向けず、「居場所のない嫌われ者くんと友達やってあげてる俺、最高にイケメンだろ」と冗談めかして言った。校内では俺と話さない方がいいという忠告を込めたつもりだったのだが、高橋はいつもこんな調子で悪評の数々を歯牙にもかけず、事件以降も俺と距離を取ろうとはしない。
「で、なんでこんな時間に?」と高橋。今はまだ8時前、始業まで40分はあるし、朝練でもなければ登校するには少し早い時間だ。この時間から来ている生徒もいるにはいるだろうが、普段俺が始業ギリギリに登校しているのを高橋は知っているから、不思議がるのも無理はない。
「こわーいお姉さんに仕事を頼まれてるからな」
それだけで、彼は合点がいったようだった。
「学校一怖いで通ってるお前が怖がるとか、茜ちゃんは死神かなにか?」
「物の怪の類いであることは間違いないな」
ヘヘッと二人で笑って、高橋と別れた。
昇降口で上履きに履き替えた俺は、教室には向かわず、その足で職員室に向かった。中に入ると相手もそれに気づき、「ご苦労ご苦労」とばかりに右手を挙げてみせた。
「やあ。いつもチャイムと同時に登校してくるから、てっきり早起きが苦手なのかと思っていたよ」
「そう思うならわざわざこんな時間に呼ぶなよ……」
俺はわざとらしく肩をすくめて言った。この人は坂井茜という名の日本史教師で、俺や高橋が在籍する2年A組の担任である。歳はおそらく20歳代後半で、年配の教師が多いうちの学校の中ではかなりの若手。外見は小柄で髪型はショートカット。女子生徒を中心に茜ちゃんの呼び名で親しまれており、先ほど高橋もそう呼んでいた。
坂井先生は去年も俺の担任で、件の暴力事件ではその始末でいろいろと世話になった恩義がある。普段学内では危険人物との噂通りに威圧感を醸す俺だが、坂井先生と高橋だけは例外で、俺も変に虚勢を張らず自然に受け答えするし、朝一で呼ばれれば律儀に来るという訳だ。
「じゃ、さっそくこれを頼んだよ。これが机を占拠するものだから仕事にならん」
坂井先生はそう言うと、自席に高く積まれたノートの山をポンポンと軽く叩いた。これはノート点検として昨日回収されたもので、それを今日の1限の日本史までに返却するため、教室へ運ぶ役を俺が昨日命ぜられていたのである。
「先生が持って行けばいいじゃないですか」
無意味と分かっていても、不平を漏らしてみる。
「学級委員には仕事が必要だろう?」
「委員長は須崎ですよ」
「でもキミは暇だろ副委員長」
大人しく従うほうが早そうだったので、俺はそれには答えずノートの山に手をかける。クラス40人分を1度に持って行けるはずもないので、とりあえず目測で半分ほどを持ち上げた。
「これどう考えても俺1人でやる仕事じゃないだろ……」
「援軍を呼ぶなと言った覚えはないが?」
「俺が友達いないの分かってて言ってますよね」
「高橋は?」
「朝練っす」
答えながら俺は職員室を出た。
こんな俺であるが、坂井先生の言うように副学級委員長をやっている。やらされている、の方が適切かもしれない。新学期初日、学級委員長に自ら名乗り上げた須崎陽菜という女子に、なんの打ち合わせもなく副委員長に指名された。当然俺は拒否もとい拒絶したのだが、副委員長は名誉職みたいなもので基本的に仕事はなく、委員会への参加も免除されるという言葉に乗せられたのが間違いだった。実際にはそんなもの大嘘で、担任から小間使いにされる始末。学校一の危険人物が学級委員長に言いくるめられ、はたまた教師に使役されているようではどうしようもないが、果たして佐藤裕也は須崎陽菜と坂井茜によって見事に飼い慣らされ、今日も学園の秩序が保たれている。
2階まで階段を上り、教室に向かう。階段の目の前、2年A組に入り、教卓の上にドスンと教科書を置くと、ちょうど誰かが登校してきた。
「あら佐藤くん。こんな早くに珍しいわね」
登校してきたのは須崎だった。俺を副委員長に指名した張本人その人である。俺がこの時間に教室にいるのは予想外だったようだが、その表情は変化に乏しい。
俺はそれには答えず、教室を出る。まだノートは20冊ちょっと残っているので、再び職員室に戻らなければならない。別に委員長・副委員長とは言っても、親しく会話する間柄ではないし、俺が人を無視するのもいつものことなので、須崎も特に気に留めた様子はない。ただ、教卓に置かれたノートが目に入ったのだろう、「坂井先生の手伝い?」と聞いてきた。
「だったらなんだよ」
これ以上話しかけるな、という意を言外に込め、俺はできるだけ低い声でぶっきらぼうに言った。だが、俺が返事をしたことでかえって勢いづいたのか、彼女は会話を打ち切らなかった。
「私も手伝うわ」
「……あと20冊くらいだからいい」
今度こそ会話を打ち切って、俺は階段を下りる。だが、後ろから須崎がついてくる気配を感じる。本当に手伝いに来るのか、別件で下に行くのかは知らないが、俺は足を止めずに職員室に向かった。
「おー、今度はちゃんと援軍つきか。やるじゃないか」
職員室に入ると、坂井先生は俺とその後ろの須崎を一瞥し言った。須崎は「おはようございます」と静かな声で行儀よくお辞儀し、俺はわざとらしく鼻を鳴らした。
俺がノートを取ろうとすると、横から須崎の腕に阻まれ、そのまま須崎は10冊ほど持って行ってしまう。別にわざわざ取り合うことでもないので、俺も残りを取ってそれに続く。後ろから「仲良くな-」と、坂井先生の気の抜けた野次が飛んできた。
職員室を出て須崎の5歩ほど後ろにつくと、不意に須崎が「何をそんなに悪ぶっているの」と言った。それは俺への質問なのか、それとも独り言をつぶやいただけなのか判然としない。ただ、俺はそれに応じないのだからどちらでもいいことだ。
「また無視。高橋くんや坂井先生と話してるときとは別人みたい」
須崎は、今度は立ち止まって、明確にこちらを向いて言った。その顔が妙に真剣だったせいか、俺は今度は無視せず、「関係ねぇだろ」と短く答える。なんだか全てを見透かされているようで居心地が悪い。
「答えになってない答えね」
俺がはぐらかすことは想定内だったようで、須崎は再び歩き出した。
「あなたは変わってしまった。やっぱり『あの事件』のせいなの?」
凄んで黙らせるべきかと一瞬思ったが、なんとなく須崎にはそれが通用しない気がして思いとどまる。
「……事件とやらを知っていて、なんで俺を副委員長にしたんだ」
結局、話題を変える。彼女はそれを咎めはせず、少し考える素振りを見せてから言った。
「あなた、学校一の危険人物だもの。あなたを従わせればみんな私の言うこと聞くようになると思わない?」
その週の土曜日、俺は午前から池袋に来ていた。
学校では危険人物という悪評を補強するかのごとく振る舞う俺であるが、実は最近アニメにハマり気味で、プライベートはオタクの端くれみたいなことをしている。そうは言っても、イベントに参加したり、特定のキャラクターを嫁だなんだと言ったりすることはなく、せいぜい深夜アニメを見てライトノベルや漫画を買い漁る程度だが。なんのことはない、高橋と一緒に中等部時代から続けていたサッカー部を件の事件で辞め、放課後の暇つぶしに始めただけの趣味である。少年誌の連載作がアニメ化されていると知って見始めたのがきっかけで、そこからはサブスクアプリにおすすめされるがままにのめり込んでいった。
池袋は最近アニメで一儲けしようと企んでいるのか、街を上げてアニメとコラボしたり、漫画の博物館的なものをこしらえたりと、サブカル方面の投資に熱心のようだ。オタクの聖地といえば秋葉原だろうが、池袋にはその聖地っぽさが無く、誰でも立ち入れる感じが心地よかったりする。
しかし巷では埼玉の植民地などと呼ばれる池袋では、誰かに見られる可能性も十分にある。特にアニメショップを物色している姿を見られるのは非常に好ましくない。だから俺は、普段学校では使わない伊達メガネをかけてキャップ帽を目深に被り、変装とも言えぬ程度の変装で出歩くのが通例になっていた。
特に意味もなく「池袋なう」とツイートしてから駅の東口へ。ちなみにツイッターのハンドルネームは「シュガー」。名字が佐藤だからそのままシュガーという安直なネーミング。
しかしそれでも不思議なもので、視聴したアニメや読み終えた漫画・ラノベの感想を何の気なしに書いたりすると、その作品のファンだというアカウントからフォローされるので、フォロワーは200くらいになった。そのうちの何人かとはDMをする仲になったりして、しばしばアニメや漫画・ラノベのおすすめを教え合ったり、ちょっとした雑談を交わしたりすることもある。以上、学内の俺からは想像もつかないような学外の話。
アニメイトで新刊のラノベを買い、ブックオフを軽く物色すると、すでに昼を過ぎていた。ラーメンかなにか食べてから帰るかと思っていると、スマホの短い振動が俺に何かしらを知らせる。確認すると、ツイッターのDMの通知だった。
相手は「洋梨」。先ほど言った、DMをする間柄のちょっと親しいフォロワーのひとりだった。当然本名ではないだろう。
『自分もいま池袋にいるんですけど、よかったら会いませんか?』
そして意外なことに、直接会おうというお誘いだった。
「……」
ネット社会で言うところのエンカウント、すなわちエンカというやつである。洋梨氏とはツイッターでこそ比較的親密なほうだが、直接会いたいかと問われるとなんとも言えない。だが、向こうは直接会いたいから誘ってきている訳で、それはちょっと嬉しい気もする。
俺は少し考えてから「いいですよ」と送り、駅の近くに来ているという洋梨氏にあと10分ほどでそっちに着く旨を伝えた。
待ち合わせ場所は東口のパン屋の前。「上下黒い服で、アニメイトのビニール袋を持っています」という洋梨氏の姿は、週末の混雑する駅前でもすぐに見つかった。近づいていくと、その姿がどうやら女性のようで、ちょっと意外に思う。
「どうも」
スマホを見ている彼女の前に立って声をかける。「シュガーです、はじめまして」と続けて自分のハンドルネームを名乗ると、顔を上げた相手と目が合って俺は愕然とした。
「え」
上下黒っぽい服装、歳は俺と同じくらい。というか、同い年。何を隠そう、俺はこいつを知っている。
「――こちらこそはじめまして。洋梨です」
俺を待っていたのは、須崎陽菜だった。
第2章に続きます。
作者ツイッター(ハンネ違いますが本人です)→ https://twitter.com/Hayato_neetrain
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