3-2 ネコと和解せよ〈2〉
頬に、なにか湿ったものが触れた。
少し湿って、ひんやりとしている。
「ん……?」
なにか固いところに寝かされている。そして私の顔を覗き込む、黒っぽいモノと白黒模様のモノ。一呼吸の後、ピタリと焦点が合う。
「黒ちゃん! ……と、ぶちちゃん!」
「ウナン」
「ミャン」
それは二匹の猫だった。
「よかった、ふたりとも無事だったんだね」
どうやらここは礼拝堂のようだ。陽を受けたステンドグラスが、私のまわりに七色の影を落としている。かすかに、小鳥の声が外から聞こえてくる。
あたりはすっかり、平和そのものだ。
(やっぱり、縮んだんだ)
ぶち猫を撫でながら思い出す。なんだか思いきり踏まれたような気はしたけれど、けが人もけがニャンも出さずに切り抜けられてよかった。黒猫も無事に帰ってきたようだし、これにて一件落着だ。
(――って、『坊ちゃん』は?)
そういえば、怪我人はいたじゃないか!
あの男の子――ヨハンナさんが一足先に避難させたあの子は、無事だったのだろうか。
「くりーむぱん」
ふいに、人の声がした。
驚いて振り返ると、礼拝堂の戸口に男の子が佇んでいる。あれはまさに『坊ちゃん』じゃないか――
「いや、天使だ」
つい、そんな独り言が漏れてしまった。
戸口にたたずんでいたのは、それはそれは真っ白で愛らしい男の子だった。
華奢な体によく似合う白いブラウス。まるで陶器のように滑らかな白い肌。柔らかそうなプラチナブロンドの髪からは、やはり真っ白な耳がぴょこぴょこと生えている。
男の子は小さな藤かごを提げ、警戒の「け」の字もない顔で私のほうへと歩いてくる。
その瞳の色が左右で違う。
輝くばかりの金色と、澄みわたるブルーの目だ。
「……」
私はつい言葉を失ってしまった。怪我の治った『坊ちゃん』は、ため息が出るほど美しい白猫の男の子だったのだ。
しかし、その天使の顔がふいにふにゃりと緩む。
「……げんき?」
不釣り合いに舌足らずな言葉が、ぽろっと発せられた。
「ああ、えっと……私は元気よ。ありがとう」
「にへへ」
私の返事に、男の子はふにゃふにゃクスクスと笑い出す。齢のわりに――とはいえまだ十歳ほどだろうけれど、幼げな反応だ。なんだろう、胸の奥がむずむずするような、妙な既視感がある。
「ホアー!」
「あ」
男の子のバスケットに、思いがけずぶち猫が飛びついた。
傾いたバスケットから瓶がゴロンと転がり落ちる。
――ぺしょぺしょ、ぺしょぺしょ。
床にこぼれた白い液体を、猫たちは夢中で舐めはじめた。ああ、猫に牛乳は……まあ、少しくらいなら大丈夫だろうか。
一方、男の子のほうは尻もちをついたまま、口をぽかんと開けて猫たちを見つめている。そのうちにおそるおそる指をのばし、しかし猫に触れる寸前であわてて引っこめる。
私は思わずふきだした。
「大丈夫よ、触っても」
私は腕を伸ばし、ぶち猫の背をそっと撫でてみせる。
「こうやって、優しくね」
男の子が瞳をパッと輝かせ、大きくうなずく。意を決するような一呼吸のあと、彼はふたたび腕を伸ばすと、
――ぽふ!
お手本よりもだいぶ勢いよく、黒猫の背中に触れた。
「ン?」
黒猫はけげんな顔で振り返ったが、まあいいかという様子で、すぐに牛乳に関心を戻した。
「んんん、こんがりくりーむぱん!」
男の子がごきげんな調子で口ずさみ、私はまたしても笑ってしまう。
「『クリームパン』なの?」
「ん」
「そうね、クリームパンみたいだよね。丸くて、ふわふわで、温かい」
「ん!」
男の子が、もう一度こくりと大きくうなずいた。
男の子はふいに立ち上がると、元気よく告げる。
「レオンハルト!」
「レオンハルト?」
そういえば、ヨハンナさんもそう呼んでいた気がする。それに、私の自己紹介もまだだった。私は目線を男の子に合わせ、右手を差し出す。
「私はあかり。よろしくね、レオン君」
けれど、手を握り返される気配がない。かわりに美しいオッドアイが目の前にせまり、あっと思う間もなく私の鼻にレオン君の鼻が触れた。
なんとも無邪気な、猫式のご挨拶だった。