3-1 ネコと和解せよ〈1〉
「ヨハンナ先生は、坊ちゃんを連れて先に逃げてくれ。この場はボクと神父がなんとかする……おもに神父が」
「わかりました。――テオ、あなたはあかりさんに付いていて。今度こそ頼みましたよ」
そう告げるが速いか、ヨハンナさんは男の子を背負って軽やかに地面を蹴る。さすがは猫人、すばらしい瞬発力だ。
しかし巨大な猫も見逃さない。スッと立ち上がり、ヨハンナさん目がけて巨大猫チョップ!
「くっ!」
「ヌウ‼」
ヨハンナさんがそれを辛くも回避したのと、雄々しい気合が聞こえたのは同時だった。
「――っ、まぶしっ⁉」
マッスルさんだ!
マッスルさんがいつのまにか上半身裸になり、しかもまばゆく発光しはじめたではないか!
「いよっ! ファーザー・ダイヤモンド、キレてるね!」
「ヌゥン!」
エマさんの掛け声に、マッスルさんの素肌が光沢を増す。いや私も何が起こったのか分からない。分からないが、たしかに猫怪獣の意識がヨハンナさんから逸れた! 突如として現れたピカピカ輝くものに、釘付けになっている。
「ヌオオオ!」
マッスルさんは私たちを置きざりにして、あさっての方へと駆けだした。
「ど、どこに行くの……」
「今のうちに逃げよう☆」
エマさんがしれっと言う。
「おいおい、神父を囮にしようってのか⁉」
テオ君が声を上げる。
「大丈夫、彼はファーザー・ダイヤモンド。誰よりも気高く、何よりも輝かしく、そして地上で最も硬い! それが彼の固有魔術なのさ!」
「いやアンタ薄情だな⁉」
なんだかよく分からないが、たしかに巨大猫チョップがすでに何度かマッスルさんに命中している。しかし彼は潰れる様子もなく、ただ小石のように地面をコロンコロン転がされている。
「ま、ボクは逃げるよ」
「こいつ、シスターの風上にも置けねえ」
いやテオ君、その人はシスターでなければ女性でもないのだ。――そんなことより、こうしている間にもマッスルさんは囮としてゴロンゴロンされている。いかに彼の外側が硬かろうと、中身は大丈夫なのだろうか。内臓とか。
私はひそかに、ギュッと拳を握りしめる。
(……もしかして、もしかするとだけど)
じつは、ひとつの賭けを思いついていた。私が、私だけがこの大ピンチを打開できるかもしれないという賭けを。
(昨日の夜、あの子は小さな猫になった。私に触れたとたんに)
もしかして、もしかするとだけど。
私に触れると猫怪獣が縮むのでは⁉
「ネコチャアァァァアン‼」
私は思いきり地面を蹴った。ぶち猫怪獣に向かって決死の猛ダッシュ!
「あかり⁉」
アテが外れたならば大怪我では済まないだろう。けれど、根拠はないが自信はある。
だって、私は猫が大好きだから。
何のとりえもない私が、妙に猫々しい異世界に呼ばれた意味があるとするならば――
「てぇぇぇい‼」
――もっふぁああ‼
ふっかふかの毛皮が、私の全身を優しくかつ力強く包み込んだ。
(……え?)
じつに感動的ではある。が、頭が真っ白になる。
(縮ま……ないの⁉)
私はぶち猫怪獣の後ろ足に――依然として「怪獣」のおしり近くのほわほわ毛に、全身でガッツリとしがみついてしまっていた。
「ナンッ」
虫を追い払うかのように、猫怪獣が足をしびびびっと振るう。
「あだっ!」
私はあっけなく振り落とされた。その頭上に、巨大な肉球が猛スピードで落ちてくる。――肉球って、いいよね!
「ぐえっ」
走猫灯を見る間もなく、意識が飛んだ。
◇
夢うつつに、思い出すことがある。
私は小学生で、うにたんはまだ子猫だった。
小さなうにたんは、おもちゃのネズミが大好きだった。赤い目とピンクの耳のついた、小さな白いネズミだ。
私がそれを床の上に滑らせれば、うにたんもまたカーリングのように床を滑りながら追いかけていった。みずからテレビ台の下にシュートしてしまった時なんかは、ひっくり返って悔しがった。
ひとしきり遊び終えると、うにたんはそれを大事そうにくわえて秘密の場所へと隠しに行く。白い小さなネズミは、小さなうにたんの宝物だった。
ある日、私はちょっとだけ意地悪をした。
ネズミの尻尾をつまみあげて、うにたんに届かない高さで見せびらかした。悔しがるうにたんが、かわいかったのだ。
しかし、うにたんは思いがけない大ジャンプをした。
うにたんは私の指先を勢いよく薙ぎはらい、ネズミを床に落とした。
「あっ――」
私は指先を見た。人差し指の先がすっぱりと裂けて、みるみるうちに赤い血が膨らんだ。
「ひどい! ひどいよ、うにたん!」
私は半泣きで洗面台へと走った。痛みはそれほどなかったが、思いがけない出血にパニックになっていた。
うにたんは走って追いかけてきた。
そして洗面台にひらりと飛び乗ると、勢いよく水のほとばしるそこに、ぽとり、と口から何かを落とした。
白いネズミだった。
ハッとして見つめると、うにたんは悲しい顔をしていた。
『これをあげるから……』
と、丸い目が切なく語っていた。
あとから思い出しては、そのたびに胸が締めつけられる。悲しむ私に、うにたんは自分の一番大切なものを迷わず差し出したのだ。『これをあげるから』の、その先に続く、子猫の無垢な言葉は何だったのだろう?
これをあげるから、なかないで。
おこらないで。
うにたんを、きらいにならないで。
(ああ、……どうして)
どうしてあの時、私はうにたんを抱きしめてあげなかったのだろう。私の宝物は、いちばん大切なものはうにたんなのだと、言ってやることができなかったのだろう。