2-2 ネコ出鬼没〈2〉
「ねこー、ねこー」
テオは床に身を伏せ、ケージの中の小さな『猫』を間近に見つめていた。
べつに、かわいいなーとだか思っているわけではない。
フェレンゲルシュターデンは、誰もが恐れる猛獣だ。凶暴にして残忍、獰猛にして狡猾。――もっとも、実物を見たのは昨夜が初めてだったが、なるほど話に違わぬ恐ろしさであるように思われた。
「ミャン」
「かっわいいなあ、おまえ! ……いや」
あぶない、つい不適切な言葉が口をついてしまった。まったく、なんなんだよミャンって。ずっと思っていたが鳴き声までかわいいのかよ……いやかわいくない。
こちらの視線が気になったのだろうか、猫はゆっくり目を閉じると、わずかに体の向きを変えてうずくまる。
四本の脚が、ふかふかと柔らかそうな胴体の下にもすもすと収納されていく。脚がなくなってしまった。
「なんだよ……! なんだその絶妙なフォルムはよ……!」
まっくろのふっかふか、もこもこのもっすもすである。
(――さわってみたい)
あらがいがたい欲望が、ふつふつと湧き上がってくる。
いや気をつけろ、こいつは危険な猛獣なのだ。
いやいや、こんなに小さくなってしまったのだ、危険であるはずがない。あのどんくさい耳なし娘にさえ、易々と捕まっていたではないか。
――うん、さわりたい。
あわよくば、だっこしたい。
「でも、ヨハンナは、よく見張っておけって言った……」
テオは頭を抱える。
「つまり……よく見張っておけば、好きにしていいってことだな!」
テオはケージの扉を開けた。猫は、とくに警戒することもなく黙って背中を触らせた。もふっ、とした手ごたえがテオの掌いっぱいに伝わった。
「ふかふかの、ふっかふか――――!」
そして少年は、考えることをやめた。
◇
「それで部屋の窓が開いていて、猫が外へ逃げてしまったと……」
ヨハンナさんが呪詛のようにうめく。
「あ、あんな狭い隙間から、ヌルッと行くとは思わなくて」
「言い訳無用! タマネギみじん切りの刑です!」
「ぎょへー‼」
「まあまあ!」
私はあわてて椅子から立ち上がる。
「いま逃げたばかりなら、きっとまだ近くにいるはずです。みんなで探しましょう!」
そんなこんなで、予定は一変。
エマさんとマッスルさんにもやむなく事情を説明し、私たちは皆で黒猫を探すことになった。
「猫は慎重な動物です。知らない場所をむやみに逃げ回ることはありません。きっと、茂みの中や狭い所でじっとしているんじゃないかと」
私はそう見当をつけた。
もっとも、なわばり争いでケンカになった場合にはかなり遠くまで移動することがあると聞くが、まず今回はなわばりを争う同族がいない。
逃げ出した部屋――領主からヨハンナさんに与えられている別邸だというが――その近辺を探せば、充分に見つかる可能性はある。
「ううっ、首が……。ヨハンナの首が……」
「わたくしの首が逃げたみたいに言うのはやめなさい」
「まったく、ボクは天才発明家なんだけどな~。なーんでケダモノ探しなんか……」
ぶつぶつ言うエマさんを、マッスルさんが無言でポンポンとなだめる。
「……わかってるさ。発明も慈善活動も、世のためヒトのためだもんね★」
一方、マッスルさんは巨岩のような体を小さく屈め、かなり丁寧に探してくれている。外見に似合わず動作が静かで、大きな声も上げない。案外、猫に好かれる人かもしれない。
「おわぁ‼」
ふいに、後方でテオ君が声をあげる。
猫を見つけたかのだろうか。期待をこめて振り返ると、テオ君の視線の方向がおかしい。足元ではなく、上空を食い入るように見つめている。
(――へ?)
教会の裏手側、庭木の梢の間に、こんもりとした白黒模様の丘がある。
いや、あれは丘ではない。いつからそこにいたのだろうか、巨大なぶち模様の猫が、庭木にのしかかるようにして香箱座りでまったりしていた。
「ふぇっ、ふぇーんげるしゅたー……」
マッスルさんが、エマさんの口を手で塞ぐ。
「皆さん静かに。刺激しないよう、できるだけ速やかに避難しましょう」
ヨハンナさんが声をひそめて指示を出す。のどかな空気は一変、ピンと緊張に張り詰める。
さいわい、ぶち猫怪獣はおねむの様子で、まだこちらに気付いていない。
「すみやかに教会に戻り、騎士団に連絡しましょう」
私たちは無言で頷きあう。黒猫のゆくえは気になるけれどしかたがない。私たちがそっと退却を開始した、ちょうどその時。
ぶち猫怪獣が、パチッと目を開けた。
そしてスッと身を起こし、地面をじっと凝視する。――ターゲットは私たちではない。別の何かだ。
それから、ぱしっと素早くジャブを一発。オモチャにじゃれつく最初の動きだ!
「――誰か襲われてる!」
テオ君が、弾かれたように駆け出した。
「ちょっと、テオ!」
ヨハンナさんが反射的にその後を追う。
「キ、キミたち早まるんじゃない‼」
さらにその後をエマさんが追い、またその後をマッスルさんが無言で追いかけていく。
「……も、もぉおー!」
この世界の人たち、結構……結構アレだ!
結局私も皆の後を追うしかなく、私たちはなし崩し的に、ぶち猫怪獣へと突撃していった。
「坊ちゃん!」
テオ君が叫ぶ。
「ヨハンナ、レオン坊ちゃんだ!」
そう言うが早いか、テオ君はぶち猫怪獣の前から猫人一人をかすめ取り、疾風のように駆け戻ってくる。
ぶち猫怪獣は首をかしげる。なんだいまの、という顔だ。
(やっぱり、大きいな……ものすごく)
私たちとの距離は、せいぜい五メートルほど。こんな間合い、その気になれば一息で詰められてしまうだろう。まるで目の前にゾウが鎮座しているかのような存在感だが、相手はゾウではなく猫なのだ。
お行儀よくそろった巨大お手々がたまらない……だとか思っている場合ではない。
教会の玄関口までは、五十メートルほどだろうか。猫人の身体能力ならばいざ知らず、私はあまり足に自信がない。
しかも、こちらには怪我人がひとり。
「坊ちゃん、レオンハルト坊ちゃん! ……意識がありませんね」
テオ君が救け出したのは、彼よりもまだいくらか幼い男の子だった。血と泥に衣服を汚し、ぐったりと目を閉じている。その痛々しさに、私は思わず目を逸らしてしまう。
(どうしよう、……どうしたらいいの?)
巨大な猫、やっぱり脅威だ!