1-2 ネコの国は近い〈2〉
きしだんだ、と猫耳少年が呟くが早いか、「撃て」と勇ましい号令がかかる。間髪入れずに、バシュッという破裂音が響いた。空気を切り裂くような唸りを上げて、猫怪獣のこめかみに何かが突き刺さる。
「ギャァアオ!」
その頭に突き立ったものは、私の腕ほどもある太い矢だ。
(――そんな!)
「構え、撃て……」
地上で再び号令がかかる。
「やめて!」
私はとっさに立ち上がり、両手を広げる。
「やめて、撃たないで‼」
地上の人たちがうろたえる。その様子に、私自身もハッと我に返る。無自覚の行動だったのだ。
けれど、それは裏目に出てしまったらしい。
「あぶない!」
猫耳少年が叫ぶ。猫怪獣の両目が私を捉えていた。瞳孔全開、おめめ真っ黒モードの明らかにやばい状態だ! 少年がすばやくソファーに乗り上がり、私を庇おうとする。――が、それもほんの少し遅い。
すさまじい速さの巨大猫パンチが、容赦なく私めがけて繰り出された。
(あ、死んだわ)
私はおとなしく目を閉じた。死因猫パンチ。切ないんだか嬉しいんだか――
――ペモッ。
しかしながら、痛みは無かった。
しいて言えば、頬っぺたに肉球のぺちっとした感触があっただけだった。
「ヌァン」
ソファーに沈みこむ私の膝の上に、どこからともなく小さな黒猫が落っこちてきた。
「へ? えぇえ⁉」
条件反射で抱きあげると、その黒猫のこめかみに、小さな傷がある。
(――まさか、この子が猫怪獣ちゃん⁉)
周囲を見渡してみるが、やはり猫怪獣は忽然と姿を消している。そして突然現れた、こめかみに傷のある猫。
「ウンナ~」
黒猫が腕の中で何かを抗議する。ハッとして傷口を確認すると、さいわいなことに血は止まっていた。巨大な猫がこのサイズに縮んだのだとすれば、身体の縮小比率に応じて傷も小さくなったのかもしれない。
「よ、よかった……」
何はともあれ、どっと力が抜けた。
この子が生きていて、本当によかった。
「なんだ、一体どうなってんだ……?」
猫耳少年はソファーの背にしがみつき、呆然としている様子。けれど私にも何一つ説明できないので、どうしようもない。
――さて、それにしても。
ここからどうやって降りたものだろうか。私はあいかわらず、謎の高すぎソファーの上にいるのだった。
「こんなもんが降りられねーって、どんくせぇな、おまえ」
いやいや、私は猫人間じゃないので。
(うーん、せめて足場があればなあ)
私は黒猫を抱きかかえたまま、身を乗り出して下の様子を窺ってみる。
――ミシッ。
ん? なにか変な音がしたぞ。
なんだろう、何かが軋むような音だったな。しかし考える間もなくバキッと豪快な音が続いた。同時に、身体がソファーごとグラリと傾く。
「えっ、ちょっ……」
ソファーが壊れた。
いや、ソファーが支柱から外れて、まるごと転落する!
「ちょっとちょっとちょっと! 嘘でしょ——⁉」
なんやかんやわめいた気もするけれどよく分からない。ひっくり返る視界に、ぽーんと満月が飛び込んでくる。やっぱり見事な満月だ。まっ逆さまでもまんまるな、明るく華やかな金色だ。
(ああ、うにたんの目みたい)
そう思ったのを最後に、私の視界は暗転した。
◇
うにたんの朝は、すこぶる早い。
「あーお、あーお、おあーん!」
「ううーん……」
寝ぼけまなこでスマホを確認すると、時刻は四時。朝というより、むしろ夜だ。
(なんたってまた、こんなに早くから……)
……などと嘆きながら再び眠りに沈んでいくと、バリバリバリと勢いよくベッドでツメをとぐ音がする。
「わあ! 起きる、起きますよー!」
うにたんはお利口な子だ。いつもは爪とぎでしかツメをとがないけれど、「不適切なツメとぎがニンゲンを動かす手段になる」ということも、また理解しているのだ。
窓の外は、まだ暗い。
うにたんはご機嫌にしっぽを立てて、階段をトタトタと降りていく。
「はいはい、おまちくださいね」
食器棚のいちばん上の段からカリカリを取り出す。足元からは催促の声が上がっている。カリカリを計量スプーンですくい取り、お皿に投入!
――カリカリ、カリカリ。
そうして、うにたんは今日も一生懸命に朝ごはんを食べる。今日もいい音、元気な音だ。
「おいしいねえ、うにたん……」
◇
ゆっくりと、意識が浮き上がっていく。
ずいぶん眠った気がする。これは遅刻するかもしれないな。けれどなんとなく身体が重い。できることなら、もう少しまどろんでいたい。
――などという甘い眠気は、秒で吹き飛んだ。
「気が付きましたか?」
女の人の声が降ってきた。
またしても、私は知らない場所にいた。
ただし今度は野外の吹き晒しではない。知らない部屋の、快適なベッドに寝かされているらしかった。