やれることを
「暑い」
そう言いつつ、シュウはスポーツドリンクの入った水筒を口元まで運ぶ。
彼の所属しているテニス部は比較的緩い部活であったが、それでも東京の夏は体の水分や塩分、エネルギーを容赦なく奪い取る。
氷でよく冷えたスポーツドリンクが、体を内側から冷やしてくれる感覚が心地よい。ビールや牛乳の一気飲みよろしく水筒を傾けて、口を離した後に大きなめ息を吐いた。
「親父くさいぞ、シュウ」
「親父くさくても結構。休憩時間だからって、校庭で上裸になってるお前より幾らかマシだ」
そう言われるとなあ、とを打って、上裸の少年ケンは水筒を逆さにして、野球部のように短く切りえた頭に、ジャバジャバと水をかける。
もちろん暑さに参っているのは彼らだけでなく、先輩達もマネージャー含めて全員が閉口していた。
否、むしろ彼ら二人は元気な部類に当たり、先輩のマネージャーが「手伝え新人」と圧力をかけてくる始末だった。
致し方なく二人は、テニスコート(と呼称されているグラウンドの一角)までバケツを用いて水を運ぶことになる。
大量かつ楽に水を運ぶことが出来る手押し車は、早朝から練習している野球部が既に押さえているため、辛さはそれの何倍にも及ぶ。
「……頑張るね。この暑い中」
日陰から怠そうな声をかけられ、シュウはそちらに視線を向ける。
「カナも手伝えよ」
「無理。私、シュウちゃんと違って体力ないし、熱中症で倒れちゃうって」
木陰に腰掛ける、赤みがかった茶髪をポニーテールにまとめた少女は、顔の前で手首のスナップを使って、何度か手を横に振る。
しかし、実際にカナは体力がないので、シュウはそれ以上言わないことにした。
大会が近いこともあって、目的地のテニスコートではレギュラーの三年生達が自主練習をしていた。
その隙間を縫うようにして、先に水をんだケンが打ち水をしている。――が、それらの姿はハッキリとせず、陽炎で揺らめいていた。アブラゼミの鳴き声が体の芯まで響いてくる。
バケツを運ぶべき数十メートル先の場所がひどく遠く感じた。
「先輩達、特にカイト先輩頑張りすぎでしょ。冗談抜きでそろそろ倒れるよ」
カナが真剣な顔をして腰を上げる。
それを横目で見て、シュウは嫌な予感がした。彼は自分の隣にいる少女のことを、幼馴染であるが故によく知っている。カナは自分を含めて、人間を客観的に観察する能力に長けている。だから、彼女のこういった発言は当たることが多い。
そして、嫌な予感は現実となる。揺らめきの中の人影が一つ、地面に向かって崩れる。
「大会は今週末だぞ。ヤバいんじゃないか?」
「随分と冷静みたいだけど、シュウちゃん。たぶん必要だから急いで」
悲鳴と雑音を伴って、テニスコートの中心に人垣が形成されていく。
二人は走ることはしないものの、早歩きでそこへ近づき、人間の壁をかき分けて中心の人物までたどり着く。地をなめるカイトは、意識こそあるものの、嫌な汗をかいて、起き上がる気力もないように見える。
シュウが水を持ってくるのを見るや、三年生のマネージャーが慣れた手つきで回復体位をとらせ、タオルを絞って額に乗せる。
それから十分もしないで顧問が駆けつけ、カイトは更に数分後に到着した救急車にさらわれていく。
「大会は今週末だぞ。ヤバいんじゃないか?」
「さっきもそれ言ってたよね。……でも、正直、ヤバいと思うよ」
強い風が数回吹いて、赤茶色の髪が舞う。
陽炎の消えたグラウンドが、その輪郭を恐いくらいにハッキリとさせていた。
カイトが倒れた翌日、テニス部のメンバーはテニスコートではなく3年E組に集められた。顧問が担任をしているこの教室は、『くの字』に折れた校舎の曲がり目にあり、北向きで二階のため校内で一番冷房が効きやすい教室である。
いっそ体に悪そうなほど冷えた教室で、お茶やジュースを飲みながら顧問を待つ間の話題は、大会の話かカイトの話かであった。しかし、その二つの話題のたどり着くところは同じで、「カイトは大会に出られるのか?」「もしも出られないとしたら誰が代理になるのか?」という話になる。
ざわめきがざわめきをよび、空間が極まった時、ようやく顧問が教卓に立った。ようやく、といっても時間通りではあるのだが。
「静かに」
い中でもよく通るバリトンが響き、風が凪いだようにざわめきが消えた。
「まず、皆が気になっていると思うカイトの事だが、結論から言うと出場は難しいと思う。本人は元気そうにしているのだが、医者からは二、三日安静と言われているからな。たかが熱中症、されど熱中症だ」
再びざわめきが起こる。その中心は枠の都合上大会に出られなかった三年生男子たちで、どこか期待の籠った目で顧問を見たあと、答えを聞くために、注意をするよりも先に騒音の波が引く。
顧問は小さく息を吐いて、皆の期待通りの言葉を紡ぐ。否、真に『期待通り』といえるのは一人だけではあったが。
「カイトが出られないことに伴い、我が校から出すことの出来るシングルの枠が一つ空いた。よって、代理というわけではないが、新たに一名選出した」
三年生男子が息をむ。
「タカジョウハヤテ。お前だ、頑張れよ」
「え……」
名を呼ばれた少年は、言われたことが分からない、とでもいうかのように硬直した。数拍の空白の後、
「よっしゃあ!」
「くっそぉ!」
全力で歓喜の声を上げた。
逆に選ばれなかった者は、全力で悔しがっている。
しかし、彼らの間に険悪なものは一切無く、ハヤテの背中をバシバシきながら、「選ばれた以上は絶対に勝ってこいよ」と笑っている。
「おお! ハヤテ、おめでとう!」
そして、もう一人歓喜の声を上げる者がいた――ケンである。
家が近く親同士の仲が良かったため、小さい頃からよく遊んでいた。だから、彼らは非常に仲が良かったのである。
そんな友人の叫びを至近距離で聞いて、シュウはビクッと体を震わせ、カナは五月蠅い、と毒を吐いた。
少女の言葉は熱狂の渦に飲み込まれた。
大会当日、『キラキラと輝く太陽』よりも『ジリジリと照り付ける日差し』という表現が相応しく、更に言うなら『電子レンジの中』がしっくりくる炎天下にて、シュウは己の体力を削ぐ原因が暑さだけではないことを悟った。
右をすると、カイトが深いため息をいていた。彼が何を思ってここにいるのか、考えるのは容易いが、正確な答えは出ないだろう。
応援する訳でもなく、かといって自棄になって荒れるのでもない。ただ感情の籠ってない瞳で試合を眺め、時折ため息を吐く様は、どこか不気味であった。
唯一変化があったのは、ハヤテの試合のときだ。
第一ゲームを取られ、第二ゲームがになったとき、呻くようにカイトの口から言葉がこぼれた。
「俺なら、俺ならもっと上手くいくのに……」
おおよそカイトらしくない台詞だった。
外見、性格、頭脳、運動神経、それら全てにおいて良好な、いわば完璧人間の彼はこんなにも脆かったのか。いや、だからこそ弱かったのではないか。
そんな考察をするシュウの横で、少女が口を開いた。
「なんて考えても無駄ですよ。カイト先輩らしくない」
ギリと、歯をみ締める音がした。
「おい、カナっ!」
「そもそも、体調管理は基本です。それがなっていなかった癖に、ifなんて考えて、仲間の応援も出来ないんですか?」
シュウが止めてもカナは聞かなかった。シュウは思い出す。彼女は、正論を『武器』ではなく『凶器』として使う悪癖があることを。
右から聞こえる音は、いつしか歯軋りに変わった。カイトを中心にぽっかりと穴が開いたように試合の熱狂から切り離され、隣のコートの審判の声がいやに大きく聞こえた。寒気を感じ、シュウは身じろぐ。
第二ゲームはになる。
「夏の大会で勝つことは、一つの大きな目標だったんだ」
カイトはぽつぽつと、れだすように語りだした。
「夢なんて大層なものじゃないけど、そのきっかけかな。でも頑張って、この様」
自嘲的な笑みを浮かべる。
「分かってる。応援、しないとな。頭では分かってるんだ」
場に熱が戻る。しかし、カイトは中々応援のために口を開きはしなかった。
結局ハヤテは第一セットを取れなかった。彼から焦りの表情が見て取れた。サーブ権はこちらにある。ボールを手に持って、何度か深呼吸をする。そんなハヤテに向かって、ケンが叫ぶ。
「頑張れハヤテ兄! やれることをやればいいんだ!」
「やれることを……」
たぶん口にした本人は何も考えてなかったと思う。
しかしその言葉は、ハヤテはもちろん、カイトにも響いた。
カイトは『やれること』をやった。
「ハヤテ、勝とうと考えるな。全力でやることだけを考えろ!」
経験からくるアドバイス。ハヤテは驚いたが、確かにその言葉を飲み込んだ。何度か言葉を反芻して、心を半ば無理矢理沈めた。ボールを叩き込む。ハヤテは、第二セットの先制点を取った。
カイトは油断して試合以前の失敗をした。
ハヤテは純粋に実力が不足していた。
だけど、そんな二人の先輩は格好良かったとシュウは思う。「何が?」と問われると中々に難しいのだけれど。
「今の俺にやれることを全力でやる、っと」
とりあえず、今日の練習は頑張ろう。テニスボールの小気味良い打撃音がグラウンドに響いた。
〈了〉