8話 スタートライン
あのコンビニ強盗冤罪事件から約2週間。
時の流れというものは一定ではなく、常に人の生活の密度と連関してその速度を変える。楽しい時間はすぐに過ぎるし、苦痛な時間はどうしようもなく留まり続ける。
この日の朝に比べれば、今日までの2週間など幸福な刹那の時間だったと言えるだろう。
[…に勤務していた管理局の下兵2名の行方は失踪後未だ掴めておりません。
こほん、次のニュースです。先々週から北区を騒がしていたコンビニ強盗が今日午前7時ごろ北区4番地で捕まった模様です。18歳の遅猿 秋入信雄容疑者で、今朝も近くのコンビニで強盗があったあとに付近を管理局が警戒体制を敷いていたところ、秋入容疑者の荷物から犯行に使われたと思われる包丁が…]
ニュースを見ているのは道だけである。曙と光は既に支度を終えて玄関の外であろう。たまたまテレビを消そうとした時に、気が滅入るような内容が聞こえてしまったのだ。思わず下唇を噛む。
情勢における優劣が完全にエチルの風下に置かれている、ということを象徴する膨大な事件の中の一つ。
しかし一つと言えどもそれを積み重ねていけばいつか崩壊する日はやってくる。それに向かう一歩が、また踏み出されたのだ。
「ねえ〜、兄まだ〜?」
「ああ行くよ」
曙の催促に、努めて快活そうな声色で答える。今度こそテレビの電源を消した。
空間投影されていたニュースキャスターもテロップも消えたが道の中にある悔恨の念は消えてはくれなかった。
今日は東京新大学校の入学式の日であった。
まだ3月に入ったばかりである。外気は以前とひんやりとしていて直に接した皮膚を、その裏側から叩くようにして人々に不快を与える。しかし、それに打ち勝たんと所々に咲く小さな梅の花が道たち新人類を励ましていた。
新人類の年度境が3月であるのは、古来からの4月新年度制をとるエチルと時期が被るのを防ぐためである。ヒエラルキーにおいて上位を占めようとするエチルが、新人類の軍事教育、ましてや新人類の拠点とも言える東京で許すはずがない。
エチルとの衝突を避けつつ、いつの日か刃を交える時が来るまでこの学校の存在を公に悟られてはならなかった。
道たちは自宅のある東区4番地から、東京の中心部、東区1番地へ向かうバスに乗り込む。バスは反重力式の最新型であり、地面との抵抗もなく滑らかに進んでいく。
公共機関のうち新人類が安心して利用出来るのはバスのみである。完全無人運転となっている現在では金さえ払えば乗ることができるが、地下鉄や電車はバスとは異なり定期を作るのにエチル政府発行のidentity cardが必要となるため利用しにくい。タクシーも同様である。
ぎゅうぎゅうに押し詰められたバスが、バス停に着く度に中身が飛び出した肉まんのように乗客を吐き出す。そして同時に再充填されてまた走り出す。
そんな人の波にのまれながら道は曙と光を庇うようにして立っている。そんなさり気ない道の優しさが曙と光は好きだった。
特に光は、道と密着していることから意識を外せずにいる。自分の心臓が飛び出そうなほどバクバクと脈を打っていることを感じて更に恥ずかしくなる、という収まりどころがない自分の気持ちに焦りつつあった。
…それをこっそり眺めてニヤニヤ笑っているのが隣にいる曙である。
一方その頃道は
『…結局あの事件は何だったのだろう?』
自分の考えに耽っていた。
あの桃色髪の少女に関しては謎が多い。去り際の、あたかも道たちに出会うために自ら事件に巻き込まれたかのような態度や行動は今朝のニュースと一致しない。包丁冤罪は実際に存在したのだから。
そして少女が道に会うためというだけに犯人に包丁を入れるよう誘導するなどあまりに可能性が低いし、そもそもそこまでするメリットが少ない。観察なり知り合うなりであれば、すぐに他の方法で出来たはずだ。そもそも犯人を知っていなければならない。
ということは可能性は3つである。犯人とグルであるか、偶然か…
…少女が犯人の行動を予測して模倣したか。
一番最後のものは勘弁して欲しいと道は願っている。それほどの情報網と知性を持つ人間という事は、一般人とは程遠いだろう。人であれ組織であれ、そんな輩に目をつけられるのは厄介だ。まあ既に極小の盗聴器をつけようとしている時点で普通ではないのだが…
また他にもどのようにして格上相手の拘束を振り切ったのか、あの身体能力の高さは何なのか、目的は何か。考え出せばきりがない。
[…次は東区2番地3の駅 次は東区2番地3の駅 お降りの方は…]
バスの抑揚のないアナウンスで現実に戻った。次で降車のようだ。
早押しを狙っていた曙によって押された降車ボタンの赤い点灯さえ何か危険なもののように思えてくる。現実まで侵食しつつある暗澹な思考を散らすように道は大きく首を振った。
道たちは東区2番地で降りてバスに別れを告げる。プシューッという音とともに底面が浮き出した金属の箱は道たちを見向きもせず走り去っていった。
バス停付近はそこまで発展した地域ではなかったが、これから職場に向かうのであろう通勤客がちらほら見受けられる。その中でも年度末で忙しいせいか、疲労を顔に滲ませた人が多い。
そんな人の流れに逆らうようにして道たちは住宅街へ向かう。
石造りの塀や生垣で区切られ、建物の様式も色も全て違うはずなのに何故かできる建物の集合体は、時間帯や道路さえ選べば殆ど他人に会わずに歩くことができる。今日もその静寂の中、足音を10分ほど響かせると目的地にたどり着いた。
そこはピンクの屋根と煉瓦造りの洋風の建物。2階建てで窓が1階に2つ、2階に3つある。1階にはベランダもついており、小さな庭全体を見渡すことが出来る。
ここは東京新大学校の東門となっている。年度境がずれているとはいえ、エチルが新人類の収束的な移動に目をつける可能性もあるため学校の入り口は東西南北に4つある。本校舎は東区1番地にあり、門から地下を通じて繋がっている。
また門が家の形をしているのは周りの住居の中に溶け込むためと、門番さんがここの住人として過ごしているためだ。近隣の人はエチルが多くとも、互いに種や家の中を確認し合うほど排他的な地域では無いのだろう。
3人でその家の扉の前に立つ。
「いよいよだね!頑張って友達作らないと!」
「ふふ、そうね
あきちゃんなら沢山出来そうね」
「光姉もだよ〜
あと、兄!ちゃんと一人でもせめて信頼できる人作るんだよ!」
曙が腕組みしてまるで母親のように道を指導する。
確かに外見には結城母の面影が出始めていたが、数週間前ピクリン酸ルーレットなどと言っていた常識外れを直してからにして欲しいと道は思った。
そして折角の曙の忠告も、道は本気では聞いていなかった。すぐさまそれを短期記憶に放り込み、何でもないかのように家の大きなドアノブに手をかける。
道の人との関わりの少なさは今に始まった事ではなくどうせ覚えていたって出来などしないと彼は開き直っていた。
道は家の扉をゆっくりと開けた。