40話 狂い
遅くなりました!
やっとこさこの話に入れましたね。読んでくださっている皆さんの状況把握がだんだんと出来るのではないかと思います
まだ書きたい場面ではないのですが…
朝起きた時から、空は曇天だった。
窓を通して、逆さまになった鉛色の海のようにどこまでも続く水蒸気と水の塊を見ながら、道はこれをどのように5歳の妹に教えるとわかりやすいだろうか、と考えていた。
わたがし、と教えるのでは見た目重視であまりに安直だろう。それにわたがしほどふあふあもしておらず、むしろ精神的な重さだと超重量級である。今この雲を見ている近隣の人々は皆、家を出る時の一歩のために気合を入れているに違いない。
「おかあさん、これなに〜?」
「それはね、薬匣よ。あき」
好奇心の権化のような年頃の曙は今日も変わらず、薬を擦っている道たちの母、雫の元で質問を繰り返している。その知識が役に立つ、ということもないのだが、知らないことがあればとりあえず尋ねているのだ。お陰で道も最近聞かれることが多くてなにかと周りの物事に気になってしまう。
知識のバイキングを取り終えた曙は薬匣で遊び始めた。重力反転式自動車のつもりか、「しゅーっ」と口で起動音をつけながら直方体の箱を行ったり来たりさせている。
「あき、かあさんのじゃましたらいけないんだよ」
「あきじゃましてないもん!おあしおしてるもん!」
「ふふふ」
この間道が"足を引っ張る"という慣用句を教えたところ、どうやら意味と動作を合わせて覚えてしまったようだ。曙は必死に雫の足を、その細い腕で押している。
雫はそれを見て温かく笑い、薬を作る手を止めて曙を抱き上げる。丸々とした体からようやく脱して背も伸び始めた曙は、鳥のように手足を目一杯広げて雫に飛びつく。雫と曙の間は、ろ紙一枚程もない。
「あきはいい子だもんね〜」
「うん!いいこ!おかあさんもいいこ!」
キャッキャッと頰を擦り合わせる曙と雫を見て道はむずむずとした、なんとも言えない敗北感が心深くから浮かび上がってきた。その輪の中に自分も入れて欲しいという欲と、兄だから我慢するというプライドがせめぎ合う。その間から生まれた妹に対する負の感情。
彼が今までよく読んできた、家にある体術書や薬の本には"嫉妬"という言葉は載っていなったのだ。
その嫌な気持ちに蓋をするように、道はもう一度窓の外に目を向ける。天気予報によると、午後からは晴れるということだった。
雲の中には、獲物を捕らえるのにとぐろを巻いて待ち構える蛇のような黒ずみが佇んでいた。
「ねえ、おかあさん」
「なあに?道?」
道の呼びかけに応じて、雫は錠剤にした薬を薬匣に詰めながら聞き返す。しかし雫のブラックパールのような瞳は道の方をむき、彼が話し始めるのを微笑みながら見守っている。
その綺麗な瞳を見つめ返して雫の身体をパシンと軽く叩く。「ふふ、何よ?」と雫は更に笑みを深める。道は先程の曙と母のじゃれ合いに釣られて、久しぶりに甘えたいと思ってしまったのだ。
だが、道が聞きたかったことはそれではない。
「だいじょうぶかな…おくすり、ほかのひとにわたしちゃって…」
「…」
雫が道の黒くサラサラした髪を、その一本一本に愛情を込めるように撫でる。次第にその手は下に下がっていき、彼の柔らかくすべすべとした頰に達する。
道はくすぐったそうに肩を揺らすが、頭は動かそうとしない。それは母の所作の中でも1か2番目に好きなものであったからである。
「心配してくれたのね。ありがとう。
道もすっかりお兄ちゃんになったのね〜」
お兄ちゃん。その単語は道の身体の周りに巻きつくベールのようなものとなり、彼を奮い立たせる。母が道にかける、魔法の言葉だ。
しかし、彼の心配は最もであった。
シンガポール大戦。
アジア東〜東南にかけての大規模な民衆運動の末に起きた新人類とエチルの大戦争。現在はその真っ只中である。
日本から遠く離れた戦場のため、流れ弾が飛んで来るという懸念もないのだが、当然種間の仲は極めて悪い。世界全体は擬似的な火薬と血に溢れた地獄絵図とかしつつあった。
日本では新人類に対する一過的な商業粛清や契約制限、住居地排除が生じており、それに反抗したものは極刑。その上、司法を待つまでもなくその場で殺される、などと言うことも珍しくない。
「でも大丈夫よ。こんな田舎に派遣する人だって向こうにはいないだろうし、これは商業でもないもの」
母の薬剤師としての仕事は、主にプライベートなものである。近所で具合の悪い病人のいる家や、妊娠した女性の手助けなどで個々人の体調によって違うオーダーメイド薬を調製する。大規模に売りさばくわけでもなく、現在はお金さえ取っていない。そのような点でエチル政府に目をつけられる事もないだろう…ある事を除けば。
「でも…」
道がまだ言葉を続けようとしたがそれは叶わなかった。
カラン、と玄関扉が開き、外からの冷たい風がビューと室内へ流れ込んできた。しかし直ぐに扉は閉められ、再び外界と暖かな結城家を隔絶する。
玄関の方を見ると1人の男性がいた。
「お邪魔するよ」
「あら、幹さん。今日は随分早かったのね。
あと1時間はかかると思っていたわ」
「ああ、まあな!前の仕事が早く片付いたんですわ!」
岩さえ砕きそうな大声でその男性は答えた。
東鳥羽幹。彼は道から見て父方の叔父、つまり道たちの父親の弟であった。
岩石を貼り付け合わせたような巨軀と短く切りそろえられた黒の頭髪、そして冬であるのにもかかわらずカフェオレ色に焼けたその顔。海軍の中尉である幹はその地位にふさわしい威厳を保ちつつも、結城家、特に道と曙に向かってアザラシのような朗らかに笑いを見せる。
道と曙はそれに臆することもなく、共に笑みを返した。今までにも幹は何度か結城家に足を運んで彼らとは顔を合わせており、時には一緒に遊んだりなどして時間を過ごしていた。
彼が来たのには訳がある。この日も、結城家にその用事兼、道たちの遊び相手を引き受けにきていた。
「幹さん、これが今回の分ね。
じゃあちょっと私は外に出て来るから少しだけお守りを頼めるかしら?」
「ありがとうございます!
いや〜、それくらい任してください!こっちは大助かりなんで!」
雫は靴を履きながら幹に、薬匣が煉瓦の壁のようにいくつも積み重なって入った紙袋を手渡す。そしてしゃがみこみ、道と曙の目線に合わせる。
「お母さん、ちょっとだけ出て来るからいい子にしててね」
そう言って道と曙の頭を撫でる。曙は猫のように喉を鳴らす。道は嬉しく思いつつも、自分の言葉が打ち消された事にヘソを曲げてそれを表情に出さないようにする。ここまで言われてしまってはもう反対する事など出来ようもない。
そう、雫は新人類軍の支援物資としての薬も調製していた。勿論このような事をしているのはエチルによって薬、特に病気や怪我の治療薬が製薬会社から流れなくなったためである。偶然道の叔父である幹が軍の関係者であった縁もあり、雫はその援助をしているようだった。
こうした軍への投資を行なっている人は他にもいるのだろう。それに加えて結城家はその軍関係者が親戚である。管理局がすぐに銃を片手にやって来る、その事を事前に察知できないという確率は低い。が、結城家が危険であることには変わりない。
雫は扉の取っ手に手を掛ける。そして、押し開く。また、冷たい風が家の中に入り込んで来る。
「じゃあね」
雫が小さく手を振りながら、扉を閉める。
茶色いその扉を思考なく見つめながら道は、自分の周りからいつまでたっても消えない外気を不気味に感じていた。
雫に撫でられる機会が、これで終わったのだと言う事を、この時彼は理解していなかった。
全ての歯車はここから狂い、ここから回り始まったのだということも。