32話 バス
『さっきの隣の人…誰なんだろう?』
光は頬杖をついて、逆行するように後ろへ流れていくバスの外の景色を眺めながら物思いにふけっていた。
西門を発車する前にカーテンの隙間からこっそり垣間見た、道が乗っているであろう車両。その窓を通して道と、その隣に座った髪の長い女性が会話している様子が伺えた。
道の性格上、全く知らない人と、ましてや女性と出会い頭で話そうという気にはならない筈だ。ということは隣にいたのは少なくとも道とある程度の面識がある女性、ということになる。
そんな事を考え出した光の頭には様々な思いが駆け巡り、他のことが手付かずとなっていた。光が知らない、道だけの知り合いの女性。
勿論道にだってプライベートというものがあるのは光も心得てはいる。一つ屋根の下に住んでいるからといって毎日あった事をこと細やかに話し合っているというわけではないのだから、道が誰と仲良くしていようと光が口を挟む義理はない。
しかし…その女性関係となれば話は別だ。
『…後で道に聞いてみようかしら。いや、けどもしそこでそういう男女の仲って言われたらどうするの?どんな反応が普通…
…っていやいや、私が気をつかう必要なんてないんだから反応なんて考えてたって仕方ないし…
…もしも2人の仲が、で、出来ていたとしても「そんなに深く無いんだった私が奪うなんてどうかしら?」ってわあぁぁ!?」
甘い声音を耳元で囁かれた事に驚き、光は思わず飛び上がる。横を見ると、ニヤニヤと口元に笑みを浮かべて光の反応を楽しんでいる曙がいた。予想以上に光が動転したのが愉快でたまらない、といった様子だ。
「光姉〜、どうせ兄のことを考えていたんでしょう?」
「そう!あっいや、違うわよ!
道の事じゃなくて道の隣に座ってた女性が誰かってことを……ってわあぁぁ今の無し!無しぃぃ!!」
顔を熟れたリンゴのように真っ赤にさせた光は混乱のあまりに自身の体裁さえ取り繕えていない。顔を手で隠しながら頭をブンブンと振っており、今からでもその場から離れたいと言わんばかりだ。側から見ても乙女の姿そのものである。
そんな光の姿を見た曙はより一層笑みを深めて肘で突きながらからかう。
「へえ、光さん。お兄さんのことが好きなの?」
光は素早く顔を上げて、とんでもない爆弾発言を言い放った男にキッと怒りの眼差しを向ける。バスは対面式シートであるため、光の前の席に座っているその男は光の眼光を直に浴びるほかないが、照れを隠しきれていないその顔色によって、残念ながら全く怖くなかった。
「水操さん?ふざけるのも大概にしてくださいね?」
「は、はい…」
「健!それは失礼だぞ!光はお兄さんのことが好きなんじゃない、愛しているんだ!」
「那月さん、貴女もよ?」
「は、はい…」
しかし彼女の言葉には有無を言わせない迫力があり、おちょくり続けることは叶わなかった。
光の前に座っている2名は水操健太郎と透ヶ賀谷那月である。健太郎と光、那月と曙がそれぞれ同じ学部ということで、バスが走り始めてから席交換の末に集まっていた。
健太郎は燃えるような赤色の髪に、シミひとつないすっきりした顔を取り付けた、爽やかな美青年である。体が引き締まっているのか、四肢から体部にかけて細身の印象が強い。
一方、那月はブロンドの髪を後ろで大きく三つ編みにしており、右肩口から前へ垂らしている。光より数個年上だというのにあどけないその童顔は初めて会った人でさえ心を許してしまいそうな程だ。
「けどお兄さん、戦術理論をほとんどトップで入学したんだろう?すごい優秀な人だな」
「それを言ったら貴方達2人も十分に凄いじゃない。戦術実戦と生産主席なんだから」
那月の感心に光が返す。
健太郎と那月は学校に入る前から交際を続けており、一緒にこの学校を受けたそうなのだが、両者とも学部内トップの成績で合格した、正真正銘の天才カップルである。そのため入学して数ヶ月だというのに既に学内の新聞に"頂へと達した前代未聞夫婦!ー彼らの愛は誰にも崩せなかったー"という見出しで載せられていたりしていた。
ちなみにその新聞にはいつだかの野試合で注目された道も載った事がある。"観客の目さえ縫い付けた、クールな策略家による華麗なソーイング"という見出しで、目立ちがらない本人に見せるとひどく落ち込みそうな気もするので光たちは見せていない。
「といっても所詮成績さ。実践じゃあ大したことないよ」
「とか言って、私との試合だって勝ち越しているじゃないですか」
「そりゃあ能力の発揮具合にもよるだろう。本気の光さんじゃあ1分持つ自信もないからなあ」
悄然としてうつむく健太郎。彼は自分と似た能力を持つ光と定期的に実践練習をやっているのだが、光は100%力を出し切ると体への負担が大きくなるということで練習時は能力をセーブして戦っている。そのハンデのせいか健太郎の白星の方が僅かに多い、というのが現状である。
「曙も汎用性高い能力だし結城家は本当に優秀なんだな。
お兄さんも強かったりするのか?」
那月の問いかけに、本来血の繋がっていない光はなんとも言えない、複雑な心情を露わにするように苦笑した。
曙は光のことが気にかかり少し目を向けた後、那月に向き直る。
「兄はね…規格外かな…」
バスの中は時折歓声が上がり、賑わいを見せていた。会話があちらこちらを飛び交い、空気は弾んでいる。普段の息苦しい生活から解放された時間を出来る限り楽しもうと、一種の躁状態となっているのだろうか。
そんな中に1区画だけ、淀んだ空気を携えた消音的空間がある。白いキャンパスの一部を黒く塗り潰したようなそこは周りから浮いており、時々別のグループから好奇の視線が送られる。
その区画の中にいた道は持ってきていた小説から頭を上げずに、ひたすら時間が過ぎるのを待っていた。隣の女性は足腕両方組んで目を神妙に閉じており、道は何か悪いことをしたかのような気分である。
自動運転かつ反重力による低振動滑走していくバスの中は人、という存在から目を背けていればひどく無刺激で、1時間ほどのスパンでさえ耐えられるものではない。
「おおお?奇遇っすねえ〜!道!」
そしてその暇を解消できると思いきや、悪いことは重なる、という言葉を肯定するようにさらなる問題が後ろの座席からやってきた。
対応に疲れる人間ベスト2が、閉鎖的空間に一度に存在することとなってしまった。
「はあ…どなたですか?」
「え!?うぇ!?
道の親友中の大親友、界陽哉っすよ〜!」
陽哉は胸を張って自己紹介する。その無駄な自信がどこから湧いてくるのか、道は分からなくて困惑した。
今日の陽哉の服装はいつものようなチャラチャラとしたものではなく、要所にプロテクターが付いていてかつ、関節部には四肢の伸縮を補助するような弾性繊維が使われている戦闘向けのものだ。
「(で、大体周りの雰囲気からも察したが結局どうなった?)」
道は声を抑えて陽哉に護衛の件について尋ねる。光たちにもそうだが、周りの学生に無闇に情報を与え過ぎるとかえって混乱を招く恐れがある。
不真面目を装っていた陽哉も一転して厳しい目つきとなる。
「(まあ察しられた通り、護衛はかなり強化されているっすよ。可能性がどれほどかは分からないっすけど、工作局っすからね。
そりゃ、慌てもするっすよ。
ただ学生委員会にも一応イベント中止を申し出てみたんすけど、流石に情報が少なすぎって断られたっす)」
この企画を運営する学生委員会に今回道が提供した情報に関しては意見が割れていた。かなり実践を積んでいる学生は自身の経験からこの事の運びがこの上なく悪いと直感的に感じているのだが、委員会事務の方では予算や学校としての名誉、終いには"軍事学校なのだから自衛行動は当たり前"というスタンスに執着している。
それを受けて、光たちにハイキングに行かないよう説得するのは簡単だが、全学生にそれを伝えるのは1日では難しかった。こうなってしまった以上、何とか知っている者たちだけで全員を守りきるしかない。
「(学生とは言え一つの組織なのだからしっかりとしたリスク管理くらいして欲しかったがな…)」
「(ま、それを言った所で仕方ないっすよ。どんな時だって上の命令が絶対っす。)
と・こ・ろ・で〜」
陽哉は再度ニヤニヤとした笑いで徐々にその顔を歪め始める。それを乾いた目で見ていた道は自分の中で嫌な予感が浮上するのを感じた。こういう場面では大抵ろくな目に合わないのだ。
「可愛い姉妹がいるっすのに、隣に美少女を引き連れてバス旅だなんてお兄さんもやるっすねえ」
「死ねば?」
道の隣から発せられた、端的で軽蔑の限りを尽くした言葉が陽哉に突き刺さる。聞き耳を立てていた周りのグループは震え上がり、この瞬間に道と彼女にたいして精神的に距離を置いた。
陽哉もあまりの拒絶に瞠目し、「(何で怒られたんすかね〜?)」と道に尋ねていた。
道は陽哉を無視して、一層空気の悪くなった区画での読書に意識を戻した。