1話 10年後
ゆうひは、きらいだ。
寒冷なアスファルトに押し付けられた、頰にジンジンと染み渡る痛みを感じながら、そう思った。
道路の突き当たりの民家と民家の間から差し込む、トゲトゲとした橙黄色の光。それはまるで喉の奥に突き刺さった魚の骨のように持続的に不快感を催す。そしてその後に来るであろう1日の終わりと光の無い時間を、人々に予感させる。
数メートル先には同じくアスファルトに押し倒された母の姿がある。母は無理に首を曲げて顔をこちらに向けているが綺麗な濡烏の髪が血とともに顔に張り付いているため、はっきりとはその表情を伺えない。
数時間前までは一緒に薬草をすり潰しながら、まだ話すのが不慣れな妹の可笑しな言葉に顔を綻ばしていたはずだ。なのに何故、こんな事になってしまったのだろう。
「道…お願い……。」
7年間一緒にいても一度も聞いたことなかった母の弱々しい嗄れ声が、茫とした思考を現実に引き戻させた。
懇願、というに相応しいその言葉は道の心を大きく揺さぶる。だが、彼にはどうにも出来ない。
母の上に乗った黒衣の人物が袂から掌の倍ほどの大きさの銃を取り出して、ゆっくりと母の後頭部へ突きつける。その色は禍々しいほどの、黒。残酷な悪魔の口が開き、対象を喰わんと待ち構えている。
なんで、なんでそんなことするんだ。やめてくれ
そう心の中で叫ぶ。現実味のなかった死が、突然形を作っていく。何にでも抗えるという子供ながらの万有感が壊れていき、その心の中には闇が芽生え始めていた。
これから先も、母を支えていけると思っていた。
母を助けて一緒に生きていけると思っていた。
「やれ。」
自分を押し倒している人物が合図を送ると同時に、夕日に負けないほどのトゲトゲとした強い光が、パンッという乾いた音とともに発せられた。それは、人の死を表すにはあまりに呆気なさ過ぎた。
母の額からは血が吹き出ていた。微笑を浮かべ、優しい言葉を掛けてくれた形のいい口は半開きになり、寝るまで頭を撫でながらじっとこちらを見つめていた、夜空のようにキラキラと光った瞳は虚空を見つめており、その肉体から母の魂は消えていた。
血だまりは止まることなく広がっていく。水道の蛇口を思い切りひねって出したようなその絶望的な量は、誰が見ても手遅れである事がわかる。
母が、死んだ。
「ッッヴァアアアアァァアアアアッ‼︎‼︎」
喉が千切れんとばかりに大声で叫んだ。母の死を受け止められなかったのか、感情の濁流が押し寄せてきたのか、とにかく自分の中のものを外に吐き出していた。
そこで世界がぐるんと暗転した。
「ねぇ!ねぇってば!」
薄眼を開けてぼんやりとした視覚刺激を受け取りつつ、起床にはいささか激しい音と振動を感じる。部屋はまだ暗いが、窓際の隅っこから光を差し込んでいるところを見るともう朝のようだ。
本来であればベッド付属の穏やかな音楽によるアラームか、強い風で揺れる隣家のケヤキの葉擦れ音で静かに目覚めるはずであった。寝起きの頭にこの振動は流石に厳しい。
「ああ…もう起きた…。」
とりあえず同居人による激しいアラームを止めようと彼女の細い手首を掴む。すると体を揺らすのはやめてくれたが、触れていた肩から手を離そうとはしない。
彼女の顔を幾ばくか覚醒した頭で認識すると心配そうな表情を浮かべながらこちらをじっと見ている。その黒い瞳はいつもより湿っていて、部屋のわずかな光を反射し震わせている。洗顔の最中であったのか、目と鼻の間にはわずかながら洗顔料の泡が残っていた。
そんな中途半端なところでやって来るなと彼は一瞬思ったが、それをさせたのは他でもない彼自身であった。
「…もう大丈夫?その…あの…」
彼女は二の句を繋げずに言い澱む。それは彼の夢に関して思い当たる事があり、そしてそれに自分が、僅かながらにも関係しているという自覚もあったからである。
その様子を見た彼は寝起きで動かない頭を無理矢理回して今かけるべき言葉を考える。
「あの夢だった。今日という日だから母さんが見させてくれたのかもな。
それよりその奇抜な化粧の方が大丈夫か?」
考えた結果、ちょっとふざけた風に返した。こうでもしないと、またしばらくの間彼女との関わりがぎこちなくなる、と思ったからである。
彼女は一瞬キョトンとしてベッドとは部屋の逆側にある鏡の方を向き、彼が言わんとしていることに気がついたようだ。青黒色の髪の間から覗く耳が対照的な赤色を帯びる。
「っ!バカなこと言ってないで早く降りてきて!
今日は早いんだから!」
先ほどまでの憂慮に満ちた様子から一転して強気に叫ぶ。スタスタと部屋から出て行き、階段を駆け足で降りていく。途中、「キャアッ!」という声が聞こえたことからこけたのだろうか。騒がしいったらありゃしない。
『……いや、一番騒がしかったのは自分なのだろう。もう一人の同居人も心配しているかもしれない』
頭も覚醒しきったため掛け布団を名残惜しく思いながらも引き剥がす。ベッドから降りてフローリングの床にペタッと素足をつけると、いかにも2月らしい冷たさを感じる。氷の上を歩いているようだ。
部屋を出る前に出口付近にあった日めくりカレンダーの前で立ち止まった。一枚とって、大きな丸のついた12、という数とご対面する。この日こそ、嘗ての彼の全てが終わり、そして今の全てが始まった、転換点。
2月12日。ちょうど10年前、母が殺された日ーー
はじめまして!medical staffです!
初投稿としてこちらの作品を完成させようと思います。
文学的な表現がわからない人間であるので間違いの指摘以外にもアドバイス等ありましたら知らせて頂けると嬉しいです!