死んだ俺に、クモの糸が降ってきた。
今日をもって、俺はこの世から臨終した。
病室で、俺の家族に看取られて……。
原因は、過労、アルコール、そしてカフェインだ。
ブラック企業に入社し、それなり以上の勤務をこなしながら、それには見合わないほどの小粒のお金を貰って生活をしていた。
それに耐えきれなくなり、週に一度、滝のようにお酒を飲んで一人、屋根の下で愚痴を吐いていた。
ところが年が経つ事に、仕事の時間は膨らませている風船のように長くなっていった。
お酒を飲めばアルコールで眠くなってしまうと考えた結果、カフェインが沢山入っている飲み物を飲むことにした。
その結果、寝る時間が絶望的なほど減ったのだ。
「一日のスケジュールを円グラフで表せ」
と言われたら、きっと昼休憩の時と同じぐらいになってしまうのだろう。
いま、俺はこの世にいない。
だから、今家族がどんな顔で俺の静かで冷たくなった遺体を見ているのかは分からない。
俺が死んだことを悲しんでくれているのか、はたまた企業を恨んでいるのか。
ただ、変わらぬ事実は俺が死んだこと。
どう祈ろうが、どう悲しもうが、どう恨もうが、どう嬉しがろうが逆再生動画のようにして魂が戻ることは無い。
まぁ長い目で見れば、なんやかんや良かった人生を歩めたのではないかと思う。
親からはたくさんいい経験させてくれたと思えるし。
本当に、親には感謝しきれないし、頭も上がらない。
それでいて、申し訳ないとも思う。
死んでしまった自分を悔やみきれない。
死んだ人間よりも、それを惜しんで悔やむ人間の方が心を痛めるのだ。
残された人間の気持ちを、少しでも考えてやればよかった。
なんて後悔している今、俺の目の前には綺麗な花園と、一人の白いワンピースをきた少女がたっている。
十四、五程度の若さだろうか。
いわゆる、天国と呼ばれるところなのかもしれない。
それか、俺の夢世界か……。
なんとなく居心地もよく感じる。
会社の冷めきったスープのような雰囲気とは裏腹に、出来たてのお袋の味噌汁に近い温かみを感じられる。
もっとも、それを再現できる代物は見たことも聞いたこともないがな。
一人で静かに花を見ていると、向こう側から話しかけてくれた。
「あの、どうなさいましたか?」
その透き通った黒く輝く瞳は、子供ならではの純粋さを持っていた。
会社の上司のような、汚い世界でしか生きられなかった狼とは全然違う。
一瞬にして惚れてしまったが、相手は子供。
もはや犯罪である。
「い、いやぁ。特には……」
「あなた、まだ未練があるのでしょ?」
その透き通った瞳は、人の心をも透き通して見てしまうようだ。
心は覗かれたくない。
大事な何かとか、見られたくない何かを見られそうで怖いからな。
「そ、そんなわけ……」
「嘘なんてつかないで……。どうして大人はこうもみんな、嘘と言い訳を並べるのかしら」
彼女は突然泣き出した。
俺だって泣きたいよ……。
そんなの、誰だって思ってんだよ……。
「わかったよ、ホントのこと言うから、泣かないで」
「……ほんとに?」
少女は俺に、ルビーのような赤く染まった頬と目を向けた。
一言で、美しい。
女神というのは、これほど純粋だったのか……。
「うん。未練なんて、いっぱいあるよ」
「でしょう?」
今度は小悪魔のような目と笑みで、俺を見つめた。
この小悪魔に、角も刃も尻尾もなにも飾りなんてないけれど。
「教えてあげるよ。
あなたの未練はね……家族への思いと、恋愛について。
それと……まぁ最後のはいいかな?」
「最初のひとつは分かるけど、最後のふたつはよく分からないよ」
俺に恋愛感情なんてない。
好きな人なんて……いなかったような気がする。
「そうかしら?
もしかして、私?」
「ぐっ?!」
図星に近い何かを感じ、目を見開いて少女と目が合ってしまった。
すると、今まで見たこともない上品な笑いで、俺のその間抜けズラを笑った。
あってまだ、三分もしないけれど。
「そうねぇ、じゃあ家族とお話したい?」
「そりゃもちろん」
どうせ、無理だろうけど。
この少女に、そんな力を一ミリも感じない。
──けど
──けれど
できるのなら……そうしてほしい。
藁をも掴みたい気持ちなんてのは微塵もない。
一番叶えたい夢であっても、現実でそんなことありえないのだ。
鳥に生まれ変わりたいと思う時と、少なからず似ている。
「ねえ、ここが、どこかわかる?」
突然、彼女は俺にそう問いかけてきた。
例の透き通った目で。
「どうせ……」
わかっているんだろ?
「わかってるわよ。
でも答えは沢山あるわ
簡単な答えは、『夢であり、夢でない場所』かしら?」
赤い頬に手のひらをそっとおき、すこし悩んだ顔をしていらっしゃる。
演技のように見えてしょうがない。
「うふふ、それぐらい叶えられるわよ」
「ほ、本当か?!」
「その代わり……」
突然、右手を俺の方にそっとのせ、大人のお姉さんのような微笑みをした。
子供をあやす様な、そんな手の置き方と、そんな微笑みだった。
「生き返らせることはできないわよ」
「……えっ?」
えぇーー?!
意味無いじゃん、そんなの。
お化けで会って来いとでも言うのだろうか。
「そうよ、幽霊になって会ってくるの」
おいおい勘弁してくれ……
お化けなんぞ、UFOのように遠い存在だと思っているような男だぞ俺は。
「そうなの? 幽霊なんて、ザラにいるわよ」
「そうなのか、初めて知った……」
「でしょ?
でもね、見えるものと見えないものとあるの」
見えるものと見えないもの?
俺にはシルエットすら見えなかったのに。
「まぁ、見えやすいものは大抵『願いが強すぎる幽霊』かしらね。
逆に、見えにくいものは『あまり年が強くない幽霊』ね
あなたは、こうして私が話しているのに一ミリも信じてくれないから、全然念を感じないわ」
何一つ信じていない俺でも、少なからず残念な気持ちと悲しみは感じる。
しがみついていた蜘蛛の糸が、ちぎれた感触である。
「でもね、希望はあるわ」
「な、なんですか?……」
思わず敬語になってしまった。
それもそのはず、今目の前にいる少女は、先程までの純粋無垢な少女ではない。
女神だ。
俺の願いを叶えてくれる、頼りたくなる存在となってしまったのだ。
大人なのに、情けない……
「敬語はやめてよね。
これでも私はあなたより若いんだから」
「そう、なのか?」
「当たり前じゃない」
鯉のぼりのようにたなびいている黒く明るい髪を、ふわっとした手の動きでスっとすいていらっしゃる。
「話を戻すわ。
世の中にはね、『霊感』を持ってる人が少なからずいるの。
それでね、朗報よ。
あなたの妹も、その霊感を持ってるの」
……よりによって、持ってるのが妹だったとは。
たしかに小さい頃、あの人は旅行に行く度に「幽霊が出た」と騒ぎ喚いて泣いていた気がする。
その度に「んなもんいるわけねぇだろ?」とキレた覚えがある。
それだけではない。
毎度毎度うるさく、その度にキレる日常を送っていた。
ある日突然、あの人は俺を拒絶し嫌うようになった。
何を言っても、何を叱っても無反応。
銅像なのか、仏頂面なのか、顔色ひとつ変えずにスルーされていた。
そしてそうした暁に、部屋で「死ね! 死ね! くそ野郎!!」と、狼のように叫んでいらっしゃった覚えがある。
いや、全部俺が悪いんだろうけど……
「あらあら、仲悪かったのね……」
「まぁ、ね……」
覗かれたくないけど、結構大事なことだ。
「けどね、それやっとかないと、成仏できないでしょ?」
「それは……」
正直、成仏できず、ここでこの少女とずっとだべっているというのも手だ。
むしろ、それの方が俺の健康にもいい。
そっちの道を歩みたい。
「だめよ、ここで往生されたら
ほかの人もいるし、なにしろタイムリミットもあるんだから」
「タイムリミット?」
「そうよ。ここを早急に出ないと、あなた一生ここで一人でいることになるわよ」
かすかに、花同士が重なり合う程の風が流れて行った。
「ど、どうして?」
「私がそう決めたの。
いつまでもここで花を見つめられても困るからさ」
「へぇ……」
一人の方がいい、そう思っている時期もあった。
けど、一人暮らしと、日々のストレスで、一人がどれほど辛いものかを痛感している俺からすれば、激辛ソース一瓶を、一口で飲みきることよりも辛いものなのだ。
「よく知ってるのね、ならここでちゃんと妹さんと仲良くなって、家族に言うべきよ」
「はい……」
まるで説教を受けている気分だ。
星座、猫背の二拍子。
借りてきた猫のような体制。
「それじゃ、頑張ってきてねぇ〜」
そう言うと、俺の手を引っ張り花畑の小さい溝に投げ飛ばしたのだ。
とても、少女の力とは思えないほど……
「バイバーィ」
紐なしバンジーでもやってる気分だ。
恐怖よりも、風が当たって気持ちいいと思える。
ただ、それは今だけの話。
地面が近くなってくるにつれて、恐怖が右肩上がりに大きくなってきた。
やばい、心臓がバクバクする……
そう思い、胸の方に手を抑えようとしたのだが
スカスカしている。
幽霊になった俺は、どうやら自分の体すら障れなくなってしまったようだ。
はぁ……
これじゃ女性にセクハ……ゲフンゲフン玄関にすら入れなくなってしまったのではないのだろうか。
「おわったな、これ」
飛行機墜落のお知らせを、機長から聞かされる乗客の気持ちが、今になって良くわかったような気がした。
たくさんの風の抵抗を受け、地面に首から着地した。
地面を通り抜けることもなく。
驚いたことに、何一つ痛みを感じなかった。
「さて、ここからいくか……」
目の前には、かつて住んでいた我が家がある。
ノックすることもなく、インターホンもならさず、早速ドアを通り抜けて侵入。
新しい空き巣のようだ。
一応、「ごめんください」とは言っておいたがら誰の一人も返してくれなかった。
「しゃあねぇ、リビング行くか……」
こうして向かったリビングには、俺のアルバムを眺めている、小さい背になった父と母の後ろ姿が映った。
目には一切の光を感じられない。
大切な何かを失ったら、人ってこうなるのか……。
まるで何かに操られている機械のようだった。
「これねぇ……懐かしいわ」
「そうだな、あんなに小さかったのかぁアイツは」
親にアイツ呼ばわりされるのも、なんとなく新鮮だ。
いやいや、こうしてる暇もないんだ。
はやく妹を探さないと。
二回に上がり、俺の部屋に行くと……
とんでもない光景が目に入った。
あまり信じたくはないが、それでもここはさっきの花畑とは違う。
現実なのだ。
妹が部屋に入っており、しかもタンスの中とかベッドの下をガサゴソと何かを探しているような仕草をしていらっしゃった。
ネズミが餌を探すような感じで、体をクネクネさせて動いていて、そっちの方に真剣になっている。
俺には気づいていないようだった。
話はしたくない、しかし話さなければならない。
明確な義務感を背負い、俺は妹に話しかけた。
「はるっ?!」
「ええっっっ?!?!」
声に対し、酷く驚いた後に、頭を勢いよくベッドにぶつけた。
黒板下を拭き掃除して、起き上がろうとしたような感じで。
「いてててて……」
ベッドから出てきて、頭を撫でながら声の聞こえた方向、つまり俺の方へと体と顔を向けた。
案の定、妹は俺にとてつもなく驚き、腰を抜かしたのか、その場で逆四つん這いになったのだった。
「ああああ、兄貴?!」
こう呼ばれるのは、はたして何年ぶりだろうか。
歳が近いとは言っても、四つ下だ。
改めて、微妙なラインだと思う。
「よぉ、晴。元気にしてたか?」
と声をかけてみたが、やはり返事はなし。
四つん這いのまま、顔を合わせようとせずそっぽを向いてふてくされた。
「あのよ、話してぇことが……
「うるせぇよ。どっかいけよ。
お前に用事なんてねぇよ!!」」
顔を向けたかと思うと、いきなり俺を罵倒し始めたのだ。
今すぐにその空いた口を、まち針で止めてやりたい。
「実はよ……
「帰れよ、さっさと消えろよ。
成仏しろよ、邪魔だからさぁ!!!」」
上司並みのウザったさ。
工具箱のハンマーで、妹をぶん殴ってやりたい。
「成仏できねぇんだよ」
「はぁ? 何言ってんの?
マジムカつく」
若い子が使うランキングの一桁に入るであろう「マジ」と「ムカつく」が入り込んできた。
最近の若いのは……と嘆いてしまうが、よく良く考えれば俺もその若いのの一人だった。
ちなみに、第一位は王道の「ヤバい」だと思っている。
「とりあえず、手伝ってくれよ……」
「なにを?」
「成仏するための行動をさ!」
「はぁ?! なんで私が」
「お前しかできねえんだよ」
咄嗟に出てきた、ちょろい仲間を動かせる言葉。
ただ、使う相手が違った。
相手はそこまでチョロくない妹だ。
何を言われても「はぁ?」「意味わかんねぇ」「死ね」で返されそうだと思った。
しかし実際は違った。
少し嫌な顔をして、答えをためらったあと、顔を変えずに渋々「わかった」と賛同してくれた。
「ありがとう、恩に着るよ」
「アンタもしかして、霊感ある私を頼ったの?」
突然、ポケットの中のスマホを取り出し、いじり始めた。
ビール瓶でぶん殴ってやろうか……
「偉そうにしやがって……」
「だって偉いもん。なに? その目とその口調。
嫌なら別にいいけど。
ま、その時は私との交渉、打ち切るけどね」
この女……権力を持った途端にふざけたことをほざき始めやがった。
さっきまでネズミだったのに、今度は貴婦人気取りか。
ホントに手のつけられない妹だ。
「さ、何したいの?」
「何って……」
「はやく帰っほしいの、土に」
ド直球で、はじめてその言葉を受けた。
それを死人の前で言うか?普通……。
もうすでに土に帰ってるのに。
「まぁ、親にありがとうってのとごめんねって言うのを言いたい」
「へぇ、それを私を介して言いたいの?」
「あぁ……それで
「それはムリね」」
一刀両断。
スイカすらも、簡単に斬れそうな物言いだった。
「どうしてだよ?!」
「無理でしょ?
だって、そういう言葉は自分で言うことに意味があるんじゃない」
「ぐぬぬ……」
真っ直ぐで硬い正論という剣を突きつけられ、全く歯が立たなくなってしまった。
「頑張れなんて言わない。
別のことで成仏しなさいよ」
「……」
そう言われても、思い返してみれば、全て言葉と態度でしか表せない、「心」でしか通じないものだった。
やはり俺は、あの花畑で一人、合わせ鏡の世界のように無限に続く時間を過ごさなければならないのか……。
「どうすれば、ねぇ……」
それだけは嫌だ
たのむ、俺は成仏したい。
いや違う。
俺は抱えてきた、親からの愛という愛を言葉で、満足に返したいのだ!
たのむ神様!
たのむ女神!
たのむ少女!
俺を、俺を生き返らせてくれ……
高ぶる自然の感情は、俺の体の透明感を下げてくれたらしい。
心の汗が、頬を伝っていく感覚があった。
──本当に、生き返ったのではないか?
目の前にいた、スマホをいじる妹の目がこちらに向いた途端、みるみる変わっていったのが、何よりの証拠だ。
それと、言われたことがひとつ。
「それで私に近づかないで……霊圧が気持ち悪いほど強いから、そんなんだったら死神とも張り合えるわね」
──死神なんて、いるわけないのに……
なんて、言えない立場だったな。
「とりあえず、さっさと目の前から消えて。
頭痛い。拒絶反応出てるの。
お願い」
押し出されるように、俺は俺の部屋から、妹によって出された。
というかここの部屋の主、俺じゃんか。
「はぁ……。下降りるか」
階段を降り、下に行ってみると、父と母はまだアルバムを眺めていた。
心を感じない、その目からは、やはり一筋の光すら入る隙間もなかった。
よし……話しかけてみよう。
無視されることは、目に見えているが……。
「おい……。親父、お袋」
やはり、二人とも俺には全く気づいてくれなかった。
アルバムに集中しているからか、俺が見えておらず、聞こえていないのか、その両方か。
悲しかった。
一番誰よりも俺を大切にしてくれた、唯一無二の存在に無視されることが、どれほどの孤独や辛さを生み出されるのか。
フラれるよりも、上司にシバかれるよりも、ずっと辛いものだ。
もし俺がまだ生きていたら……
俺は親に、感謝してもしきれないお返し。
そう、親孝行をし続けたかった。
そう思って、改めて親を見る。
近い距離にいるのに、まるで二人が宇宙にいる。
そう感じる。
ほろりと、ひとつの雫が頬を伝っていく。
雨漏りでもしてるのだろうか……
──いや、おれの涙か。
顔に手を抑え、迷子のように大泣きをした。
そうしたところで、目の前の二人に聞こえないのは、ハッキリしてるのは分かってる。
けれど、こうでもしないと、俺の心の中で解決しない。
やるせないのだ。
もう、一生花畑にいよう……
そう思って手を顔から下ろし、電源の入っていないペッパーのような体制で、親の目の前に座った。
無限に続く、目の前の透明な分厚い敷居は、どう頑張っても打ち破れなさそうだ。
俺は絶望したのだ。
二人に対してもだが、それ以上よりも自分の無力さに対して。
しかし次の瞬間、とある大きく高い声がリビングに轟いた。
「父さん、母さん! 今いい?!」
妹だった。
夕立のようにして、いきなり飛んできて驚いてしまった。
「どうした、はる」
「何かあったの?……」
二人とも、怪訝怪訝そうな顔で妹を見つめる。
「話したいことがあるの」
「えぇ……いいわよ」
「かまわんぞ」
目はやはり死んでいらっしゃる。
「実はね……今目の前に、兄貴がいるの」
場の空気が、一瞬にして変わったのが手に取るようにわかる。
吐息ひとつ聞こえない空間へと一変したのだった。
リビングにあるストーブが、それをいいことに自分の存在を強調している。
「それは……本当か?」
「うん、本当」
きっとこれが妹じゃなければ、二人とも相当怒っていただろうな。
霊感があることを周知されてるアイツだから、言える言葉なのだろう。
「なんて言ってるかとか、分かるのか?」
「もちろん」
震えた妹と親父の声よりも、ストーブのゴーっという音の方が勝っている。
「どういう状況なのか、お母さん達に教えてちょうだい」
妹はひとつ深呼吸をして、こう切り出した。
「兄貴さ、今すごく泣いてるよ
何度も何度も読んでるのに、父さんも母さんも反応しなくて。
道で知らない人に話しかけてるのかなって思っちゃうぐらい。母さん達無視してたよ」
これじゃまるで通訳だ。
かといって、自分で伝えられるわけじゃないから、こうして妹に頼るしかないのだけれど。
「親孝行したかったんだって。
兄貴……」
またも沈黙が走った。
けれど、さっきとは違う何かを感じる。
絶望の淵へとぶら下げられた、一本の極楽浄土へと続く蜘蛛の糸のような。
「すごく悔やんでるよ、兄貴。
自分は何も出来なかったんだって。
子供は愚か、彼女すらできなくて。
家ではいつも足枷で。
会社でも何一つ功績残せないくて……」
「はる、もういい。分かったよ」
何がわかったのだろうか。
こんなあることないことベラベラと喋る妹の、俺に対する悪口を聞いて、何を理解したのだろうか……なんて、死んでも言えない。
こんなこと、一言も言ってないが、俺の言いたいことの全てだ。
その全てを代弁してくれた妹は、今の俺にとって、あの花園にいた少女と同じぐらい大きくて、暖かい光のように思える。
「はる、今からいうことを、兄貴に言ってくれるか?」
「うん……」
親父は、鼻をかんだあとのティッシュのようなクシャクシャな顔で、こう言った。
「お前は、もう何も背負わなくていい。
会社の功績? そんなものお前の命なんかと比べたらへでもない。
彼女? 子供? それが親孝行するためのものだなんて、誰がいつ言った?
父さんたちの足枷? お前は足枷じゃない。希望だよ。
その希望をよ、天国に行っても持ち続けてくれ。
お前は、死んでも、転生しても父さんの希望で、父さんたちの家族だ。
父さんたちの元に生まれてきてくれて、本当にありがとう……。
お前は父さんたちの、一生の宝物だ……」
「お、親父……」
タプタプのツボから溢れた水のような、小さくか細いこの声は、親父達に聞こえていたのだろうか。
生き残りの、死んだ俺の希望である三人の視線が俺の顔の一点で交わった。
泣いたあとの赤い目と、驚いた時の間抜け面が二つ見える。
「ともや、ともやなのか? 」
「うそ……でしょ」
「嘘じゃねぇよ。親父、お袋」
子供を諭す親のように言い、二人を抱きしめた。
「本当に、いままで……ありがとう……」
人生で一番泣いたかもしれない。
水の入っているツボをひっくり返したように出た涙は、両親の服に染み付いたのだった。
「じゃあな。もう時間らしい」
人生で一番気持ちのいい瞬間が訪れた。
天に召される、という形容ではなく、本当に天に召されたのだ。
「ありがとう、はる……」
その一言を最後に、俺は家から旅立った。
ロケットのように、どこまでもどこまでも高く高く……
※ ※ ※ ※ ※
「気づいた?」
少女のその声に、俺は例の花畑で目が覚めた。
天使のように笑う、俺の救いとなった少女の膝で寝ていたようだ。
……って、一歩間違えれば犯罪じゃないか。
「ありがとう、けどもういいよ。」
スーツ姿で寝るというのも、もう慣れてしまった。
毎度毎度の話だったからだろう。
でも、なんであの時、妹は俺に助け舟を出したのだろうか……
「それはね、あなたにさっさと成仏して欲しかったからよ」
「ひどい理由だなぁ」
「でも、それは……。やっぱ言わない」
気になることなのに、どうしてこの少女は俺に意地悪をするのだろうか。
「教えてくれても……」
「自分で考えてよね。私をそんなに頼らないで」
少女は俺に背を向け、花園を駆け抜けた。
どこかに行ってしまう……。
そんな感情は、今の軽くなった俺にない。
ただ単純に、この時間がずっと続けばいい。そう思う。
俺にたれてきたクモの糸。
それは、希望のあるクモの糸だった。