下
前回の続きです。別視点の後日談的な扱いになります。
そのため世界観に違いはなく、似非大正時代頃の和風モノになっています。でも今回はベース文字を平仮名にしているため、前回よりは読みやすくなっています。おそらく。
屋敷の中庭の廊下を歩いていた。
もうすぐ4月だというのに廊下の側に連なる木々には綿菓子のような白が載っている。
ぶるりと背中に悪寒を感じた。手に息を吹きかけて温かくなろうと左手を口に近づけたら一緒に食べた蜜柑の残り香が、鼻腔をくすぐる。まだ指に染み付いていたらしい。それを実感できてハッとした。自分の顔が綻んでいたのが確認しなくてもわかって、俺は少し苦笑した。離れにいたのは10分ほどだったが、今考えるともっと短く感じる。やっぱりあの人、俺の双子の姉さんと一緒にいるといつも時間がいくらあっても足りないな。
姉さんはずっと前から離れで寝たきりだ。といっても白血病みたいに不治の病に陥っているわけではない。だけどこれはある意味、不治の病かもしれない。
不眠症に思考力低下、急激な記憶喪失に感情の欠落、挙句の果てには幼児退行。それが姉さんの今だ。最近はやっと2時間は確実に眠れるようになったみたいだし、笑ってくれるようになった。でも姉さんは俺こそが実の弟であること、自分が病気で寝たきりであること、もう成人した大人の女性であること、豪商として帝国中に名高い東条財閥の令嬢であること、家を勘当されていること、そして、アイツと駆け落ちしたこと。全部、全部、全部。姉さんは知らない。いや記憶喪失なのだから、正確には知らないわけではない。
でも姉さんがこの先、それらを認識する日は一生やって来ない。
―お姉様の症状は極めて深刻です。色々な病が同時に進行している方は今まで何度も見たことがありますが、このような方は初めて見聞きしました。
―しかしここまでになって、まだ少しでも自我が保てているのは有り得ません。有り得ない、信じられないかもしれませんがこれは本当に有り得ないこと、奇跡の産物なのです。
―現段階の医療ではお姉様を治すことは不可能です。残念ながら元々この類いの病気は、進行抑制は出来ても完治はできませんし、仮に治せた病気だとしてもどの病状も進み過ぎているため手の施しようがないのです。
―例え異邦でも無理でしょう。先程も申し上げた通り、これらは完治できる類いの病ではないのです。
いつしかの医者の言葉がまた耳の中に反響した。そいつは俺の目の前で与えられた台本を読むかのように、その言葉で俺の胸をえぐりとっていった。そしてそのときから未来永劫ずっと変わらない事実としてそれらは俺の中に鎮座している。
もう一度、盆を持っていない方の掌を見た。そこにはあのときにその言葉を聞いて、目の前の相手を殴りかかりそうになった手があった。実際あのときに輝一郎が俺に羽交い締めでもしなければ、俺は相手に取り返しのつかないことをしていたと思う。
最初はただただ理解が出来なかった。初めの方こそ理解しよう、理解しようと一所懸命に話を聞いていたけれど、不可能だと言われた途端に何もかも全く考えられなくなった。視界が真っ白で何も見えなかった。その白は何故か酷く、くすんでいた。そして気が付くと、俺の拳が医者の目と鼻の先程まで伸びていたのだ。
そんなに姉さんは “東条”であることが嫌だったのか。
そんなに姉さんは“大人”が耐えられなかったのか。
そんなにも姉さんは俺より、ずっと一緒にいた“実の” 弟 よりアイツに添い遂げていたかったのか。
わからない、俺にはわからない。世界一好きな人の気持ちが、俺には理解できない。
また離れの方を振り返る。窓から橙の光が漏れていた。そこは先程まで俺がいた場所。姉さんがいる場所であり、同時にこの家の中で唯一、姉さんがいることができる場所。でもその場所は今撤去されようとしている。
少し前のことだった、妻の恵美子が俺に言った。
妻、といっても親同士が勝手に決めただけの関係、言わば政略結婚の仮面夫婦だから愛情などお互いに皆無に等しい。だがそんなことはどうでもいい。
その日はどんよりとした雲が空を覆い、風通しの良い室内でも少し蒸していた。俺は一人で次の総会の資料である書類の確認をしていた。だがその中で合図もなく入室し、ツカツカと歩いてきた恵美子は驚く俺を後目に突然こう切り出してきた。
まだお姉様はご健在かと。
媚びるような、それでいてどこか軽んじているような目をしながら俺の顔を覗き込んできたあの女に少しばかりの苛立ちは感じたものの、我慢して答えると口角をあげたのだ。
――実はというと、私のお父様のお計らいであの女次の仏滅の日に群馬の施設に送られることになったそうですの。ええ、侍女たちもとても嬉しそうにお話してましたのを聞きましたの。
――大丈夫ですわよ、あの施設の人間はお父様の息のかかった方々が大勢いらっしゃいますし、何よりお仲間だらけですから寂しい思いはしないでしょう。私からもお口添え致しましたし、あの施設はとても良いところだと聞いたことがありますわ。
――長かったですわね真男様、ようやくあの極つぶしから解放されますのよ。姉弟だからとはいえ、あんな息するように行き恥を晒すような方と幼いころからずっと一緒にいらしてお疲れでしたでしょう。もう力を抜いて楽に息できるのですよ。
よく頑張りましたね。
今まで心配して堪らなかったのとでも言うようにそう甘ったるい声を発して俺の腕にまとわりついた。
気分が悪い。
まずいい年して上目づかいで見つめるのはやめてくれ、ミスマッチ通り越して胃痛がする。使用人がガン見していていたたまれない。あと勝手に腕を抱くな、暑苦しいんだよ。
だけど俺が路傍に捨てられている生ゴミを見る目でこの頭のおかしい女を見ても、何を勘違いしたのか頬を染めて腕の力を強くしてくる。終いには仕事だと腕を振り払ってその場を後にしたが、吐くかと思った。そうすれば使用人の仕事が増えるだけなので本当に吐かなくて良かったと今でも思う。
途中で侍女に合ったので、盆のものの後片付けは言葉に甘えることにした。この侍女は元からうちの家の者だから悪いことにはならないし、むしろ姉さんの現状に胸を痛めている一派のため安心して渡すことができる。気違い女が言っていた侍女とはそいつが嫁いできたときについてきた侍女だ。あの我が儘で高慢な異物は、それはそれはもういばりちらし、権威をちらつかせて従わせるような俗じみたたことを平然とやってのけるから周りにはイエスマンしかいない。しかも俺の姉さんにあの態度だから、板挟みになっていたのは同情するが俺も曲げる気は更々なかったので放置していた。だから喜んだというより大きな悩みの種が消えてホッとしているだけだろう。2度目だが同情はする、でも考慮する気はない。ちゃんと育ててこなかったお前らにも非はあるのだ。変なものを押し付けてきて本当に迷惑極まりない。流石に俺に嫌われて愛想つかされるのは恐ろしいのか、俺の目の前ではそんな様子は見たことがないのだが、そろそろ好感度がマイナスに振り切っていることを気づけ愚か者。
お前など姉さんは愚か、従姉弟たちの視界にも映る価値のないくらい思慮の浅くあさましい人間のくせに何がそんな意識を持たせるのだ。学園に在籍していた頃、特に高等部では殊更裏で姉さんの悪い噂をでっち上げることだけに精を出していた奴を何で俺が一番に愛し、愛されているような自信を持つんだ。冗談じゃない。
入学前から決まっていた婚約者でもなかったら、絶対に家ごと潰してたのにこんな屑。自意識過剰もいい加減にしろ。
舌の上で鉄の味がした。試しに唇を舐めてみるとちくりと痛んだ。
俺は書斎に入室していた。椅子に座り、ある本を開く。タイトルは『実録 精神病棟24時 ~私たちが見た施設の裏側と患者の今~』という、言わば暴露本だ。
その本に書いてあったことは患者、つまり姉さんみたいな症状を持つ人が集団で暮らす病院のような機能を兼ね備えた施設の話だった。その場所に関する裏側なるものをその施設を退職した元従業員が語るという、雇う側からしたら迷惑極まりない内容。どこのゴシップ誌だ。
最初にもらったときは少しだけそう思った。・・・とはいえ、今はどんどん言論の自由というものが狭まってきている世の中だから、よく役人や権力者に取り締まられなかったなともある意味感心もしたのだが。
けど、内容を読んでいたらそんな生ぬるい思考はすぐに吹っ飛ぶことになる。あっさりとした内容のそれは、施設内で行われていた異常性を浮き彫りにするのは容易かった。
施設内では職員による患者への暴力、食事の未配給、生活補助の放置などが横行しており、その所為で死者が出ても知らん顔。極め付けには成金などそこそこ金のある者からきた患者の場合は、もっともらしい理由をちらつかせて行いもしない葬式代を分捕るところもあるらしい。患者の扱いはまるで畜生。いやそれ以下かもしれなかったというものだった。その体験談らしき話を読んでいくと、あったのだ。
姉さんを送り付けると息巻いていた屑の親が経営する施設の名前が。
見間違いかと思った。ミスプリントかと思って確認もさせた。結果的にそれはミスプリントではなかった。勿論見間違いでもなかった。
今度は信頼をおける者にこの本に載っていたことが真実か探らせると、結果は本に書いてあることと何ら遜色はなかった。しかもあの屑も下見として足しげく通っており、この前も患者を謂れもなく断罪した挙句、それを諫めた従業員に暴言を吐いて殴ったそうだ。そのときに俺の名前も引き合いに出されていたらしく、頭が痛くなった。
甘かった。流石にもう成人しているのだから、そこまで腐ったことをするわけないと思っていた。憎らしいことに、俺は少しだけあの屑を信頼してしまっていたのだ。心の隅に存在を認めていたのだ。今思い出しても忌々しい。
今この家の中では、それでも姉さんを施設送りにする動きが高まっている。事情を知らない者も多いが、事情を理解して反対派に加わったとしてもあの屑は怯まない。怯むような女ならば、学園時代で打ち止めにするはずだ。無駄に行動力もあるあの屑ならば、最悪実家と共謀して強行策に出ることも容易に考えられる。そうなれば姉さんの環境は今置かれているものよりも更に酷くなるばかりか、この東条の家の名前にも傷がつきかねない。どうにかして俺がギリギリ守ってきた私情と家名の均衡をあの屑にぶち壊されるのだけは本気で御免蒙る。
兎に角何としても俺がこの東条家をなんとかしなくてはいけない。・・・癪だがそれは姉さんを守ることにも繋がるのだから。いや、守る?違うか。そんなに大層なことでもないな。
俺は笑っていた。そうだ。俺は相応しい処遇をするだけだ。
屑をごみ箱へ。
分別するだけ、幼いころから教えられていたように。
俺は本を閉じて、窓の外を見つめる。
そこにはあの場所から見えた白銀たちが街道を覆い、ひたすら叩きつけていた。
これで“雪、雪、深々と”は完結です。お付き合いいただきありがとうございました。
ちなみにこの話は言うまでもなくフィクションです。出てきた知識は全て似非知識です。
ちゃんと主題にあったような感じに書けているかどうか不安でしかないですが、本人は主題に沿って書いているように努めてはいます、はい、精進します・・・