sweet 2
始業時間になると、唯香はまず直売所の掃除を始めた。
手が空いていれば、係長や先輩も一緒に行うが、その日は2人は事務処理が多い日だったので、唯香だけで掃除をすると申し出ていた。
始業時間から、直売所のオープン時間までは1時間。
事務処理も大切だが、お客様が来る以上、掃除も大切だ。
1番の下っ端である唯香は、事務処理はほかの2人よりも不慣れな分、掃除だけはいつも率先して行っていた。
矢島製菓は和菓子屋から始まった企業だか、今は和菓子にとどまらず、洋菓子も販売している。
袋や箱に入った焼き菓子の並ぶ壁面の陳列棚は、毎日掃除をしないと、あっという間に埃が溜まってしまう。
せっかくお菓子を買いに来てくれるお客様も、埃が溜まった棚に並べられたお菓子では、食べる気が失せてしまうだろう。
唯香は、少しずつ商品をずらして場所を空けながら棚を濡らした雑巾で丁寧に拭き、商品の袋や箱の表面も、ハタキでさっと払った。
焼き菓子用の棚の掃除が終わると、今度は売り場中央のワゴンの掃除だ。
こちらには、主に賞味期限の迫った商品や、工場で出た、一般の店舗には流せない、型崩れ品などの訳ありアウトレット商品……ある意味、直売所ならではの商品が並ぶ。
アウトレット商品は特に近所の主婦達に家庭用おやつとして好評で、並ぶとその日のうちに大抵売り切れるので、唯香が朝掃除をする時点では、あまり商品は並んでいない。
次に、唯香がレジ前のケーキ用のショーケースの掃除を始めた頃、ガラガラと台車を押す音がして、商品の入ったコンテナと共に作業着姿の女性が入って来た。
「はい唯ちゃん。今日の分」
直売所の商品のうち賞味期限が長い商品は、売れて数量が減るか、賞味期限が近付いて特売品コーナーに移動する商品が出ると、補充をする必要がある。
朝の掃除と同様に、夕方に売り場の商品チェックをするのも主に唯香が行う仕事で、補充が必要な商品があれば、工場に依頼を掛けることになっていた。
また、ケーキや和菓子類など、賞味期限が短い商品は、唯香から依頼を掛けなくても、毎日決まった量が納品される。
アウトレット品に至っては、いつ出るかも分からないので、その日によってバラバラだ。
工場の従業員達は毎朝日替わりで、そんな直売所用の商品達をまとめて運んで来てくれる。
今日の納品当番は、唯香の両親と変わらない年頃のパートの吉田だった。
「ご苦労様です」
唯香はそう言って吉田から納品物のリストを受け取ると、リストと商品が合っているか、昨日の補充依頼品が正しく納品されているかをチェックしていく。
リストが合っていることが確認出来るまで吉田には待ってもらうことになるので
、唯香はなるべく手早く、それでも漏れがないように慎重に、リストにレ点を入れていった。
そんな唯香の様子を見守りながら、吉田が、
「今日は、例のやつがあるからね。午後にまた来るから」
と言った。
「……ああ!そうでしたね!」
何のことか吉田は詳しく言わなかったが、唯香にはすぐ分かった。
「じゃあ今日は、殊更丁寧にやらないと、ですね」
チェックを終えた納品リストにサインをし、控えを手渡しながら唯香が言うと、吉田はにんまりと笑い、リストを受け取って帰って行った。
吉田曰く『例のやつ』は、この直売所に毎日並ぶものではない。
直売所ではケーキも販売しているが、小さな直売所を訪れるのはほとんどが近所の常連客なので、賞味期限が短く、売れ残っても処分に困るケーキは、限られた量しか並べていない。
その代わり、必要なお客様がいれば、事前予約を受け付けていて、ホールのバースデーケーキも、予約に限り、販売していた。
予約は勿論店頭で、直売係が受けるので、唯香は予約の内容も大体把握していたが、今日の夕方に、直売所の1番のお得意様と言ってもいい人から、バースデーケーキの予約が入っていたはずだった。
唯香は、午後になってバースデーケーキが届けられると、それをそっとショーケースに並べ、予約品であることを示す札を近くに置いた。
バースデーケーキの予約がある時は、こうやってケーキを注文したお客様が来店するまでケースの中に飾っておくと、バースデーケーキも注文出来ることを知らなかったお客様が知るきっかけになり、新たな注文に繋がることがある。
予約を受けた時に、今日は幼稚園に通う娘さんの誕生日だと聞いていた。
『おたんじょうびおめでとう』の書かれたチョコレートプレートに何だか幸せな気持ちになりながら、唯香は今日訪れるはずの予約客を待った。
直売所の営業時間が終了する、少し前。
スーツ姿の影を見付けると、唯香は声を掛けられる前に事務所の席から立ち上がり、すぐにケーキを手渡せるよう、準備を始めた。
「お待ちしてました。ご用意出来てます」
唯香が言うと、相手は
「ありがとう。準備がいいね」
と唯香に微笑んだ。
「辻谷さんも、大分仕事に慣れたかな」
スーツを着た直売所のお得意様の名前は矢島俊之。
矢島製菓の副社長であり、社内外から次期社長と目されている人だった。
家族思いの彼は、家族の誕生日や節句などのお祝い事には、必ず自社……この直売所でケーキを注文していた。
数ヶ月前には、今日が誕生日の子供の幼稚園の運動会の参加賞を頼まれたと言って、大量のクッキーを。
そんな訳で、副社長はお得意様と言っても過言ではないくらい、直売所を利用していた。
「父が洋菓子を始めたからね。ケーキと言ったら子供の頃からうちの会社で作られたものだったし、家族にも自分の所のものを食べて欲しいんだよ。お洒落なレストランでケーキを食べても、これはうちの方が上手いとか、これはうちにも使えるんじゃないかと考えてしまうしね」
以前、家族の慶事に必ず直売所でケーキを用意する副社長に、唯香が素直に
「副社長のご家族は幸せですね」
と賛辞を述べると、彼は照れたように笑って、そう答えた。
唯香は、そんな彼が、とても素敵だなと思った。
勿論、一家の父親として、会社の副社長としての彼を素敵だなと思うのみで、どうこうなりたいという気持ちがある訳ではないけれど。
唯香にとって矢島副社長は、憧れの男性だった。
副社長がケーキを受け取って出て行ったのと入れ替わりのタイミングで、たまたま席を外していた唯香の先輩の関口智奈美が事務所に戻って来た。
智奈美はショーケースから副社長のケーキがなくなっていることに気付くと、
「あら、もう来ちゃったのね、あの人」
と言った。
「もうすぐ終業時間ですから。あまりギリギリだと、私達が困ると思って気を遣って下さってるんだと思いますよ」
唯香が答えると、智奈美は笑って、
「そんな気を遣える奴だったかなぁ」
と言った。
智奈美と副社長は同い年の35歳で、2人は会社の同期であり、今は立場は違うけれど、今でも仲がいいようだった。
副社長は社長の息子ではあるけれど、大学を卒業して矢島製菓に入って数年は、副社長ではなくいち社員として営業に回ったり、事務仕事や工場のパートも経験したりして、会社の仕事をそれぞれ学んでいたらしい。
それもあって、副社長は唯香だけでなく、ほかの社員からも信頼されていた。