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sweet 1

 辻谷唯香つじたにゆいかの1日は、いつも1枚のトーストとホットミルクから始まる。


 4月から社会人になり、唯香は通勤に実家からだと1時間近く掛かることを理由に、両親をどうにか説得して1人暮らしを始めた。

 最初のうちは、せっかくの1人暮らしだからと気合を入れて、ほかに卵料理も作っていたのだけれど、出社前に片付けまで済ませて出掛けるのはなかなか難しく、帰宅後に汚れたフライパンを見てげんなりすることが重なって、トーストとミルクで我慢することにした。

 1人暮らしの唯香の部屋には、お皿は何枚かあってもフライパンが1つしかなかった。

 夕食を作る前に、フライパンを洗うところから始めることになるのが嫌だったのだ。


 何事も、ほどほどのバランスを保つって、大事よね、と唯香は思っていた。

 もっと楽をしようと思えば、わざわざトーストを焼かなくても、惣菜パンか菓子パンという手もあるし、ミルクも冷たいまま飲めばいい。

 でも、卵料理はなくても、トーストを焼いて、ミルクを温めると、少しだけ料理をした気分になる。

 ジャムやマーガリン、パンに付けるものを日によって変えてみたり、時々ミルクにココアを入れてみるのもいい。

 決して無理はしないけれど、やれる範囲で頑張る、というのが、唯香のモットーだった。


 朝食を済ませ、食器を流し台に片付けると、唯香は家を出て、自転車で10分程の場所にある会社へと向かう。

 唯香の勤める矢島製菓は、創業百年を超えるお菓子メーカー。

 元々は一軒の小さな和菓子屋から始まったらしいが、先代社長の改革により、今は大きな生産工場を持ち、大手スーパーや百貨店にも商品を卸す、地元の有名企業の1つだった。

 唯香の1人暮らしが許されたのは、勤め先が矢島製菓という、両親からしても『安心できる』企業であった、ということも大きいかもしれない。

 唯香が矢島製菓の内定をもらった時、両親は非常に喜んでいた。


 唯香自身も、正直自分が内定をもらえたことに驚いていた。

 矢島製菓のお菓子は子供の頃から食べていて親しみを持っていたし、入社したら社割でお菓子が買えたりするんだろうか、なんて下心も多少なりともあったりして、入社試験を受けたものの、そこは地元の有名企業。

 平凡な大学の文学部を出た、見た目もいい訳ではない自分が選ばれるとも思えず、記念受験をしたくらいの気持ちでいたのだ。


 今年の4月。

 唯香は晴れて矢島製菓の正社員となり、配属先で仕事を始め、しばらく経って、ああ、と妙に納得した。

 唯香は事務職で採用され、同じ職種で採用された同期の女の子達のほとんどは、総務や経理……社内で『本部』と言われるセクションの事務に配属になったが、唯香の配属先は彼女達と異なっていた。


 唯香が配属されたのは、所属こそ『総務部』ではあるけれど、『本部』に対し、『工場』にある部門だった。

 矢島製菓の本社は、事務系統の集まる『本部棟』と、本社工場の『工場棟』の2つの建物に別れており、それぞれ道路を挟んで別々に建っているため、距離的には近くても、ほぼ別の事務所と同じようなもの。

 双方の建物間では人が行き来する機会も限られており、要件があっても基本的には社内電話で済ますことが多かった。

 工場配属の正社員は、ほとんどが工場のラインの管理責任者候補か、製菓学校を出た製菓担当者のみ。

 要するに、唯香が配属されたのは、矢島製菓の中でも日陰の部署だったのである。


 そんな訳で、唯香は今日も、矢島製菓の『工場』の脇にある自転車置き場に自転車を停め、職場へと向かった。

 工場の入り口部分の一角には、本社工場直売所として小さな直売コーナーがあり、その奥にパーテーションを隔てて唯香の職場である直売係の事務所があった。

 直売係の仕事は、その名の通り直売所の管理と接客、それと工場で働く職員に対する、総務対応。

 来客など、直売所の中での仕事がなければ事務所の中でデスクワークをするが、来客があれば直売所の方に出て行って接客をする。


「おはようございます」

 事務所に入ると、唯香はまず係長に挨拶した。

 部署をまとめる係長は、いつも唯香より先に出社している。

「おはよう」

 彼は唯香に向かって返事したが、視線は手に持った新聞に向いたままだった。

 朝、会社で始業前に新聞に目を通すのが彼の日課で、その間は基本的に新聞に集中しているのだ。

 直売係には唯香と係長のほかに先輩の女性事務が1人いるけれど、彼女の出社は、基本的には始業時間ギリギリだった。

 彼女には3歳の子供がいて、保育園に子供を預けてから出社するので、いつもバタバタになってしまうらしい。


 『本部』で働く同期からは、同期の事務の中で唯一『工場』に配属されたことを、可哀想にと同情されたこともある。

 でも、唯香はそれ程悲観してはいなかった。


 唯香は、いい大学を出た訳でも、見た目がよかった訳でも、特別な技能があった訳でも何でもなかったけれど、地元では有名な矢島製菓の正社員になった。

 日陰部署だろうが何だろうが、給料体系は本部と同じだし、社員なので社割もある。

 しかも、直売所では賞味期限が近くなると割引を実施することがあり、それでも売れ残ると社員も社割価格より更に値引した価格で購入することが出来る。

 直売係は直売所を管理しているので、そういったお買い得品を本部の社員よりも手に入れやすかった。


 何事も、ほどほどのバランスだ。

 いいことがあれば、悪いことがある。

 直売係の係長も先輩も優しくていい人達だし、工場で働くパートの女性陣もよくしてくれる。

 周囲に何と言われようと、唯香にとって直売係は、そう悪くない職場だった。

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