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笛の音・5

 顔を顰めたのは、なぜだろう? 本名を明かしたくない。身分を隠しておきたい。そんな所か?


「そうよなあ。名無しと言うわけにも行かぬし。嘘をつくのもイヤだ」

「見え透いていなければ、嘘をつくのも『方便』で御座いましょう」

「では、こうしよう。梅里と呼んでくれ。ごく親しい者しか知らないが、一応私の号なのだ」

「梅里様は絵や書を嗜まれますか?」

「下手糞だが絵は好きだ。そうだ。文のやり取りをしてはくれないか? そなたの筆跡には心引かれる。その、そなたと本当は話がしたいのだが、そなたも昼間は忙しそうではあるし……私も色々不自由な身なのだ」

「頂きました御文には、お返事致しましょう。御家来の方がお持ちになるのでしょうか?」

「ああ。そうしよう」


 月が雲から顔を出すと、相手の顔色や衣装の素材までが良く見えるようになった。一般的な形の黒いカッを被っているが並みの士大夫が使うものより相当に目が細かい。飾り紐に使われた玉も恐ろしく上質だ。防寒用に着こんでいる毛皮の裏付きの上着は高価な黒テンを使っているようだ。やはり、相当な身分の人であるのは間違いない。


「しばらく、良いだろうか? その、家の者は大丈夫か?」

「母は都から離れた寺に居りますので、今は一人住まいです」

「言い交わした相手は……居るのか? 」

「奴婢に落とされた身ですから、そのような……気に染まぬお誘いを断るだけで精一杯です」

「有ったのか、そのような誘いが」

「はあ。父よりも年かさの御身分の有る方から、側女になれと言われて困りました」

「それで、どうやって断った?」

「たまたまその方の御正室と御嬢様を存じ上げておりまして……お知恵を拝借しました。後は……」

「後があるのか」

「似たような話が三つばかり御座いました。それと……」

「それと?」

「どこぞの若様が酒の相手をしろ、と幾度もうるさく言ってこられて、私は妓生ではないとお断りすると、いきなり御家来衆に命じて無体な事をなさろうとしたので、ちょっとばかり手荒に御相手しました」

「どうしたのだ? 礫を食らわせたのか?」

「この刀で少々。刃の無い側で打ち据えただけで、怪我はさせていません」

「ほう、見てみたかったな、その立ち回りを」

「気分は晴れましたが、後始末は結構大変でした。市場の顔役に間に立って貰い、どうにかその若様のお邸との和解が出来ました」


 確かに、考えてみれば商売を始めて色々厄介な事も有ったのだ。どうにかこれまでは無事だったが、この人との縁はどの様な形に落ち着くのだろう? 厄介な事は避けたいものだが……


 また、その人は顔を顰めた。


「そのう……そのものどもと私が似たり寄ったりだと思われたくないのだが……」

「思ってはおりません」

「だが……私も正室がいるし娘もいる。いや、勝手だな。男は」

「そうお思いなら、お早くお邸にお戻りなさいませ」

「だが、そなたと話したい」

「……御正室様が気をもまれたらお気の毒です」

「勝手ついでに言うと、その正室もその他の者も、私が選んだ相手ではない。イヤイヤかどうか良く知らぬが、あちらも実家で言い含められて輿入れして来ただけだ。だから……互いに気詰まりだな。本音をさらけ出せる相手では無いと言うか、まあ、そんな所だ」


 互いに無言でしばらく顔を見つめあった。言い分はわからないでもないが、やはり男の身勝手だと思う。


「身分の有る殿方には御正室の他に御側女がいて当たり前。名高い妓生と馴染みになれば風流を解する方と褒められても、誰もけなしません。夫の有る女が家を空けて出歩いて、別の男と会ったりしたら、この国では重い罪ですのに……本当に不公平ですね」

「……そうだな。わかった。その内、折を見て文を出そう。そうしたら……返事をくれ」

「お供の方々が皆さんお待ちのようですね」

「返事はもらえるだろうか」

「はい」

「本当に?」

「はい」

 実にうれしそうな顔で笑った顔に胸がキュンとした。キュンとした? いけない、深入りはいけない。

「では、また会おう」


 その翌日の夕方、あの人の護衛をしていた男の一人が手紙を持って来た。中流どころの士大夫のような身なりだが、顔に髭が無く、がっしりした体つきで身長は二メートル近い。非常に寡黙だが、絶えず油断なく辺りに気を配っているようだ。


「お返事を頂戴できましょうか?」

 静かだが有無を言わせぬ声の調子だ。従わないと、命を取られかねない。そんな怖さが有る。

「急ぎ、用意いたします。これでも召し上がって、お待ち下さい」


 熱い茶と焼き栗を男に勧めて、いったん自室に引きこもる。自室と言ったって、店にしている軒先の続きの寝室兼居間といった風情の、六畳程度の小さな部屋だ。それでも一応墨や筆、多少の絵の道具ぐらいは置いてある。


 送られた手紙を見ると、極上の白い紙に紅梅の枝が描かれていた。漢詩の一部が書き添えられている。


けい姿只合まさようだいにあるべきに、誰ぞ漢城に向いて処処に栽うる」

 元の詩は「漢城」ではなく「江南」だが、勝手に深読みして良いのだろうか?

「玉のような美しい姿をした梅花は月の仙宮にあるべきなのに、誰がこの梅の木を都の処処に栽えたのだろう」

 そんな風に解釈するのだろうが、まあ、一種のヨイショなのかもしれない。ここはさらっと通しておこう。


 普通女が使わない折り目正しい楷書で元の詩の十四文字を、書かれている文の後に丁寧に書き添える。誰かに見とがめられても女文字とは分かるまい。


「寒依疎影蕭蕭竹  春掩残香漠漠苔」

(寒中に竹は蕭蕭として梅枝の疎影により添い、春の名残の香をかくして苔が一杯についている)


 更に絵筆をとって簡単に梅の周りに竹林と月を書き添えた。そして、梅の花型の絹地で作った栞を忍ばせる。ほのかに香をたきしめてあるので、本を読みながら薫りを楽しめる筈だ。


 さて、吉と出るか凶と出るか、私には全くわからない。





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