気の長い話・9
「筆写大作戦は順調ですよ」
スルギの決めた手順で、白昼に右議政邸に忍び込み、日記の内容を筆写するという計画は順調らしい。
「ナミルが右議政邸の屋根に上って柳執事が合図の太鼓を叩くのを確認すると、この邸で鐘を五回鳴らします」
するとそれを合図に、無位の儒者なのか白丁なのかさっぱり身分が分からない感じの白装束の三人、スルギ・韓明文・洪善道が屋根伝いに右議政邸に入り、人気が無いことを確認して当主の書斎に入るのだそうな。
韓明文が速読して、重要度の高い項目を選び、それをもとに、スルギが書き写すらしい。洪善道は手形・書き付けなどを専門にあさり、日記の重要事項と関連有りそうなものは内容を書き写す。墨はあらかじめ擦っておき、書きやすい筆を複数本用意しておくのだそうだ。
「探すのはお二人に任せて、私は筆写専門です」
こうした場合、スルギの地獄耳は大変な威力を発揮するようだ。
「何の足音か良くわからない音が近づいてきて、焦って、皆で身を隠しましたら、何と清国渡りのちっちゃな犬だったりした事が有りました」
柳執事は主人の戻る刻限が迫ると、咳払いをするらしい。それも、後始末をして片付ける時間を見込んでだというから、念の入った事だ。更に皆に指図するふりをして随時「旦那様はもうすぐ宮殿を出られるぞ。門前の掃除を確認せよ」とか「もうすぐお戻りだから、水を打て」とか大きな声で他の使用人に命じるらしい。
「ナミルには見張り役を頼んでますから、屋根から見て邸に近づいてくる人影が有れば随時報告して貰います」
二重に確認しているわけだ。
「ともかく、騒がしくなってきたら、早めに片付けます」
怪しまれないように「完全に元通りにする」のに気を使うらしい。
雨の日は休み、右議政の非番の日も当然休みだ。だが、一か月かそこらですべての主要項目は筆記し終わった。いつも通り、韓明文と洪善道も揃った。ナミルは行水の後、酒を飲んでグッスリ寝ているらしい。
「見張り役のナミルが一番気の毒でした。日差しが強いと、屋根の上は焼ける様に熱いですから」
必ずひょうたんに湯冷ましを入れて持たせたが、途中から、一番背丈の高いマツの木に居場所を変えたと言う。更に暑い日は、帰ったら行水をさせ、冷やした瓜を食べさせていたらしい。
「余分に銀の粒を褒美に出すのが、一番喜んでくれましたけどね」
「また、イカサマ賭博に引っ掛からないでしょうか?」
「そもそもこの御邸に来るきっかけとなった右議政と親しい御用商人・張盛との事は、どうなったんでしょう?」
「貴重なキナ皮を持って行った事で、そんなに疑われてはいないだろうけれど、お袋さんも妹もここに引き取ったのがバレていたら、警戒されているかも知れないね」
「右議政側に捕えられて、拷問でもされたら、吐くでしょうか、我々の事も」
「我々は官僚だから、そう無茶もできないだろうが、柳執事の関与がバレるとマズイよなあ」
二日ほどしてから大事を取って、ナミルだけ、涼しい北方へ船で送り出した。母親と妹はスルギの屋敷の内部に留まるので、まずは安心なはずだ。
「拷問にかけられちゃ適いませんから、林の旦那に御厄介になって、白頭山でも拝んできます」
林とは誰であったかとスルギに尋ねると、「ヤンホ兄さんのことです」という。近頃は店の方でもかつては名乗るのをやめていた林姓を掲げているらしい。
「林亮浩商店です。なんか、確かに偉そうかな。ハハハ」
「その店の名は、私でも知っているぞ。なるほどな。あの男の店であったか。いや、確かに、あの男はなかなかに偉いと思うぞ」
かつての恋敵とでも言うべき存在のあの男は、確かにひとかどの人物だ。
今、林亮浩商店は、明確に理念を掲げ、誠実に丁寧に取引相手を扱うと評判になっている。ナミルもその評判の店で今度は薬草の仕入れなども手伝い、商売を覚えたいらしい。身を隠しつつ、新しく商売の勉強もできるというので、悦び勇んで出かけたようだ。
「ナミルが避暑の間に、我々は日記の分析です」
スルギは、筆写のために『病気』だと嘘を言って休んでいた通常の仕事を、再開した。そして、その傍ら、日記の分析を続けた。
夏が終わるころ、亡き長男・成弘の殺害計画と実行の過程は、ほぼ明らかになった。
「うううむ。四人の側室のうち、まったくのシロと言い切れる者が居ないのだな」
一緒の時期に毒の被害に逢ったと思われる申新中宮も、全く無関係と言う訳では無かったのだ。既に一人きりの弟が右議政にそそのかされて殺害計画の片棒を担いでいると知った申新中宮は、内密に計画を阻止しようとして、失敗し、毒を盛られたのだ。ちなみに、申新中宮の弟は王子殺害後すぐに落馬事故を起こし、亡くなっている。
朴昭儀の実家は、積極的に関与はしなかったが、兄弟のうち二人が『殺害計画について一切他言しない』という誓約書を書いている。これは洪善道が証文の束の中から見つけ出したものだ。
金昭儀の実家は不正の証拠を突きつけられ、沈黙した。
張昭容の兄は、積極的に犯罪に手を貸したようだ。
衝撃だった。後宮から皆追い出し、島流しにしてやろうかと一瞬思った。
「でも、それでは余りに多くの人を敵に回す事になります」
そのスルギの言葉で、やっと我に返ったが、はらわたが煮えくり返りそうだった。
やはり計画立案は沈守己だった。
実行犯の女官達は殺害されてしまって、居ない。協力者の内侍も既に亡くなっている。
それでも銀を変色させない特殊な毒薬の調達や、毒の与え方に関して御用商人・張盛の果たした役割は非常に大きかったのがはっきりしたのは、大きな収穫だ。
「張盛をすぐさま召し捕らせよう」
この日が来るのを予想して、この六月に沈知宣を判義禁府事から外しておいた。
スルギとは相性の良い戸曹判書に兼任させることにしたのだ。この日から、義禁府を上げて王子・成弘殺害事件の取調べが始まった。
日記の記載事項をもとにした韓明文と洪善道の調べは綿密で、調べが始まってすぐに、張盛は、言い逃れは無理だと観念したらしい。
「先の王子様殺害の主犯は右議政・沈守己に相違ありません」
朝議の場で、正式に報告された結果を聞いた廷臣たちは、静まり返っていた。もう夏の暑さは過ぎていた。