気の長い話・8
「ただいまの右議政が沈家の当主となってからの日記の大半が揃いました」
「ふうむ。残るは今年の分だけか」
「どうやって手に入れましょうかねえ」
スルギの邸で語り合っていると、韓明文と洪善道が相次いで別々の入り口からやって来て相談に加わる。
「陽動作戦に出ますか」
「……陽動作戦? 誘い出すのか? 韓殿は何か案がお有りで?」
「王様がお呼び出しになれば、右議政も、イヤでも出て参りましょう」
当然と言えば、当然か。
「だが、悟られないような上手い呼び出し方をせんとなあ……」
仁恵翁主の誕生日がもうすぐではあるが、その時にと言うのは幾らなんでも気がとがめる。
「いっその事、明るい内の方が仕事をしやすくは無いかしら?」
「確かに、それは、その通りですね。効率良く探し物が出来ます」
「では、真昼間に調べに行かない? 実はあそこの執事は、当主の守己からすると庶兄にあたるんだ。先代が成人してすぐ、水仕事をする婢に生ませた子供なのだそうだよ。『身分の恨み』と言うのが深いんだろうね。妙ないきさつで私の患者になったんだけど、あちらの方から『邸の内部を隠密にお調べになりたいのでしたら、どうぞ』って言われたんだよ」
どうやら長年忠節を尽くしてきた『弟』に他の使用人が見ている前で、昨年末ごろ打ち据えられたらしい。娘が降格処分になって以降、右議政はいらだって粗暴な振る舞いに及ぶ事があるようだ。
「いっその事、『弟』の政敵だともっぱらの噂の大状元に診て貰って、不満やら愚痴やらぶちまけてやれば良い」などと、娘にそそのかされたらしい。娘は娘で沈貴人についている連中と、揉め事を抱えているようだ。
「その庶兄ですが、表向きは母親の苗字を名乗り、柳執事と呼ばれております」
有能で名高い男で有ったと記憶している。他にも、何か有ったような……
「たしか以前、お前と判内侍府事との間で、柳何某と言う女官見習いの話が出たような記憶が有るが……」
「はい。新中宮の所の見習いのウルトンです。最初は母親、つまり執事の妻の治療に時々通ってましたが、話を聞くまで右議政の所の関係者だなんて全然知りませんでした」
ウルトンの母は右議政の母親である翁主から、乳母子の嫁ぎ先の申家に侍女として譲り渡されたらしい。
「私奴婢は品物のように主人の意向で、簡単にやり取りされてしまいますからね」
だが、柳執事は申家の正室となった女性の機嫌を上手く取り結び、主家と申家で認めてもらえる形で所帯を持ったようだ。こうした執事などの表に出ないつながりは、意外な所で力を発揮するものらしい。
「どうやら、言わば格下の申家の娘、右議政から見て母親の乳母子が産んだ娘が、手塩にかけた娘を押しのけて新中宮に納まるというのは、耐え難い事のようです」
「ふうむ。沈貴人を実子では無いと知っているのだから、娘を哀れだと思う親心と言うより、利権と自尊心の問題なのだろうかなあ? 」
沈貴人腹の仁恵が、なにやらひどく哀れに思えてくる。
「と、なると柳執事の右議政邸での立場は、微妙なんでしょうねえ」
洪善道は己の身の上と合わせて、色々感じる所が有るようだ。
「そうだよ。洪殿。柳執事も『来年の今頃は、こんな形でのお手伝いは無理かもしれません』って言っていた。仕事を干されちゃう可能性が高いって、自分で感じてるようだ」
こうした時のスルギの話し方は、若い男のものであって、それが美しい女としての姿と似合わないようでいて、妙に似合っている。賢いスルギのことだから、必要とあれば、いかようにも話しぶりなど変えられるが「私の前では自然体でいて欲しい」といつも言ってある。
「ウルトンが抱えている宮中での揉め事の相手は、沈貴人周辺の人間でしょうか?」
「どうもね。ウルトンが右議政の執事の娘だと知って、裏切り者呼ばわりしてイビルらしいよ。一度空井戸に放り込まれそうになったらしい」
それから、空井戸を塞ぐ必要性と、水面を完全に封鎖した新型井戸の普及の必要性について、しばらく話が続いた。馬の体を洗うにも、なかなか良いものらしい。何より宮中の外でも、多くの人が恩恵をこうむれるのなら、確かに早く普及させるべきだ。惜しむらくは、部品は外国産が多く、井戸を改修するには相当に費用がかかってしまうという点らしい。懸命に国産化を進めているが、まだ数年はかかりそうだ……と言うのがスルギの見通しのようだ。
「あ! すみません。話題を戻しましょう」
スルギは決まり悪そうな顔つきになった。
「イヤ、別に構わんのだ。柳執事の強力な手引きが期待できると言うのだろう?」
「そうです。右議政は生まれや育ちで苛められた経験が無いからでしょうかね。皆の面前でぶっ叩くまではそれなりに真面目に執事をやっていたのに。叩いた事で、押し殺していた恨みに火をつけたのですね」
庶子とは言え、兄なのだ。右議政は自分の母が翁主であることを誇り、文科殿試で状元及第で有ったことを誇るような男だ。庶兄の痛み・無念・恨み、そんなものを知らなかったわけではなかっただろうが、その深さと強さを理解できていなかったのだ。おそらく。
この国では庶子はいかに優れていても科挙を受ける事が許されなかった。時代と共に少し規則が緩められ、雑科と武科はどうにか受験できるようにはなったが、文科の規則は緩められそうにない。私も即位して幾度か朝議にかけてはみたが、有能な庶子に自分たちの取り分を持って行かれるとでも思っているらしく、非常に感情的になり、この件に関してだけは、全部の派閥が反対なのだ。幾ら王でも、どうにもできない。
右議政の家の有能な執事として聞こえた男は、それなりに屈折したものを長年抱えてきたであろう。この国を代表する名家を支えているのは自分だという自負も有っただろうし、同時にいつまでたっても自分は弟の使用人だという虚しさも抱えていたに違いない。
「知宣に仕えるのがイヤみたいです。本来なら『よその方』だって言ってましたよ」
スルギが「知宣は右議政の実子ではない事を承知している」と打ち明けると、そんな言葉が出てきたらしい。どうやら、今よりもさらに身分の区別に煩かった時代に『父上』と呼ぶ事を許し、科挙は受けられなくても学問はしておくものだと言って、心配りをしてくれた先代の恩義に報いたいというのがこれまで忠勤を励んで来た大きな動機であったらしい。
「一滴も先代様の血を受け継いでおられない方は、私の主では御座いません」
スルギに語ったというこの言葉を、右議政はどう聞くのだろう?
執事さんは、漢字表記で「書房」と書いてソバン、と呼んだみたいです。