笛の音・4
「どうも店の周りを見張られているみたいなのよ。どう言う事かしらねえ」
「この前の身分ありげな若様みたいな方が来て以来なんだな」
「ええ。その後も幾人か、身分の高そうなお客さんが寄って、色々お買い上げ下さるけれど……どうも見張られているというか、首実検されているような気もするの。私を何かに使いたいのかしら。それこそ捕盗庁で使うとか、……それならまだ、良いけれど……」
「何かやばい事に使う気かって? 」
「ええ。誰かの暗殺とか……」
「俺のカンだが、それは違うかも知れないぜ。なんなら、その若様みたいな方に直接聞いてみろ」
「えええっ? 何をどうやって」
「そのさあ、どういうおつもりでしょうかって、聞いてみろ。鞭打たせる気はないっておっしゃったんだろ?」
「それは、そうなんだけど」
幾度も危機を動物的なカンで乗り切って来たらしいヤンホ兄さんが、本人に聞いてみろという。果たして大丈夫なのだろうか? 確かにあの方の明るい雰囲気は暗殺などという後ろ暗いはかりごととは無縁だという気がする。
「でもねえ。本当にどう言うつもりかしら」
ムシャクシャして考えがまとまらない時は、思い切り笛を吹くに限る。人目につきにくい夜中では有るし、男の服を着るのも面倒で、日本刀を背負うだけにする。多少動きは不自由だが、登りなれた樹の大枝に座るぐらいは出来る。
Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
あれ? ビートルズのヘイジュートを笛で吹いていたのだが、誰かが小さく、だが確かに英語で歌っている。有り得ない。有り得ない。いや、私の様に異世界から送り込まれた誰かが歌っているのかもしれない。声は近づいている。このまま吹き続けていれば、きっと、私と同じ時代を知る誰かがやって来るはずだ。
ええ?あの人だ。気にしていたあの人。木の下であの人は足を止めた。
「以前聞いた笛だな。あの時は命を救われた。礼を言いたかったのに、逃げ出してしまった。今夜は話をさせてくれるのか」
「あなたは……先ほどの歌を御存知なのですね」
「あ?」
あの人はしまったと言う顔になった。
「私の耳は普通の方より遥かに良いのです。あなたが小声で呟かれた言葉が聞き取れてしまいました」
Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
私が歌うと、あの人は続けた。
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better.
「うろ覚えなのだ。だが、かつて自分がいた別の世界の歌だという記憶ははっきりある」
「この歌を歌っていた人たちを御存知ですか? 」
「いや、思い出せない」
「そうですか。異世界のどこの国にいらしたのか御記憶は? 」
「わからない。だが、この世界ではありえない速く走る車に乗っていて、事故に逢ったようだ。その最後の瞬間に、その曲が鳴っていたのは確かだ」
「思い出せる言葉は有りませんか? たとえば外国の言葉だと思われるような」
「びーとるず、と言う言葉と、その曲しか思い出せないのだ」
「この曲を歌っていましたのが、ビートルズという四人組です」
あの人は木の上に居る私の姿がはっきりとは見えていないようだ。確かに夜目の利かない普通の人なら、声や音のするあたりを見当をつけて探そうとするだろう。そんな視線の動かし方だ。
「それを知るそなたは、前世の記憶をしっかり持っているのか?」
「はい。うんざりするほどに。それで時折こうして、懐かしい歌を奏でています」
私は樹から飛び降りた。
「お、おどろいた。そなたはあのポジャギの店の女あるじではないか」
「はい。今はスルギと呼ばれております」
「ほう、そなたにふさわしい呼び名だな。忌み名はあるのか?」
「この世界の親は英秀と付けてくれましたが……清との戦で戦死した父はお国のために尽くした武官でしたが、名誉をはく奪されてしまいまして、母と私は今は官婢の身の上です。逃亡奴婢ですから、本来は牢屋行きですが、まあ色々付け届けなど致しまして、お目こぼし頂いて、生き延びております」
「そうか。あの戦の折に奴婢に落とされた武官や兵の遺族は、残らず『免賤』されるはずだ」
「そうなのですか?」
「ああ。確かな話だ」
「あのう……あなた様の今、この世界でのお名前は?」
私のその問いかけに対して、あの人は一瞬顔を顰めた。