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気の長い話・3

「先生は内侍でも随分偉い方なんですね。毎日王様にお会いするんですか?」

「まあ、日によるけどな。そもそも内侍は宮中にお仕えするために、決死の覚悟でやって来た者ばかりさ」

「その、ナニをちょん切るんですね」

「ああ。皆最初は掃除から真面目に勤め上げるんだぞ」

「そうなんですか。オイラには無理だな」

「こちらの旦那は?」

「御身分のある方だが、偉ぶらない気分の良い方だ」

「お役人様で?」

「いやあ……実は科挙に合格してない」


 確かに、王は科挙を受けない訳だが……我ながら上手い言い方をしたと思う。


「へええ、でも食うに困らない結構な御身分だ。羨ましいな」


 勝手にどこかの士大夫の息子で気楽な身分と思ったようだ。


「それにしても、こいつはうめえ酒だなあ。先生がこんなに偉い方だとは知らなかったな」


 実に良く飲み、よく食べる。


「お袋さんの加減はどうだい? 博打で負けたって事は、妹に押し付けて、夜遊びしているって事だな」

「へっへへ、そうですが……もうこりましたよ」

「だが、悪事の足抜けは出来ないんじゃないか? 命じられた物を持って行かないと、とっちめられるか?」

「オイラは逃げます」

「でも、お袋さんが危ない目に会うんじゃなあ……」

「そ、それはそうだなあ……」

 

 男は困ったという顔になった。病の老母が気がかりなのだろう。


「今日何を盗んで来いと言われたんだ?」

「西洋の薬らしいんですが、熱病の薬って言ってました。木の皮らしいんで」

「キナ皮か。ほんの一つかみで、瓦ぶきの屋根の家並みの値段という貴重品だからな。金や銀を積んだって、いつでも手に入るってものじゃない。たまたま手元に無い事も無いが、やろうか? まあ、こっちも条件付きだが」

「条件ですかい?」

「いかが思われますか?」


 スルギは酒を注ぎながら私に尋ねる。


「右議政の邸も忍び込めるかな?」


 私が尋ねると、男は目をまん丸くして身震いした。


「宮中でも一番の権勢をお持ちだっていう、えらーい方でしょう? そんな方の御邸に……そりゃあ無理ですよ」

「でもこの先生だって、右議政と官位は似たり寄ったりだし、もうすぐ更に上の正一品になるぞ」

「ええ? えええ? それ、本当ですか?」

「世に名高い大状元・金勇秀とは、この先生の事だ」

「ひえええ、オイラ、首が飛ぶでしょうか。牛裂きになるでしょうか?」


 男の慌てふためきぶりに、スルギは苦笑している。


「別に、そんな事するわけないだろう? ああそうだ。明日からお前の妹とお袋さんをこの邸に引き取るよ。それなら、お前も安心だろう?」

「ええ。ええっ? 宜しいんで?」

「うん。でもまあ、人質だよ一種の。ちゃんと食べさせて、薬は処方するけどな」

「そ、そんなら、オイラ、右議政様の所に盗みに入らなくちゃなりませんね」

「盗みというよりは、探しものかな」


 私が言うと、男はホッとした顔になった。やる事が同じでも、盗みと言われるのとは気分が随分違うのだろう。


「探し物ですか」

「お前、文字は読めるのか?」

「まあ、千字文がどうにかこうにかって程度です」

「それで十分だ」

「で、探し物は、何か証文とか書き付けとか、そんなもんでしょうか」


 ネズミを思わせる見かけの割に、頭の回転は悪くないらしい。


「細かい事は、そのうち頼もう。だが、この話は内緒にしてもらわなくてはな」

「嫌だって言うと、妹とお袋の面倒は見て頂けないし……なんか、旦那もえらーい方だったりしません?」

「この国では一番偉い方だな」


 スルギはナミルと言うこの男に酒を注いでやりながら、ニヤッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「おいおい」

「いっそはっきりおっしゃった方が、ナミルも合点が参りましょうし、口の締りも固くなりましょう」

「では、これは王命だ。命じられた時に右議政の邸から入用のものを持ち出して貰おう」

「お、王命」

「そうだ。謹んで承るのだ、ナミル」


 この国の民にとって御命オミョン、つまり王命と言う言葉は重い意味合いが有る。良きにつけ悪しきにつけ、到底逃れられない絶対の命令、そんなところか。それにしては随分とまあ、軽々しい調子の命令だが。


「せいぜい張り切って働いてもらわねばならんのだからな、しっかり飲んで、食え」


 私が酒を勧めると、ひどく恐縮したが、やはり飲みたいのだろう。


「ちょ、頂戴つかまつります」

「へええ、ナミルが『つかまつります』? なんか似合わないなあ、ハハハ」

「確かに全然似合わんな」


 すると杯を干した後、ひ、ひどいや。お二人とも……などとブツクサ言っている。


「ひどかったか、そりゃあ悪かった。機嫌を直して飲んでくれ」


 するとちょうど良い頃合いに、先ほどの侍女が豆腐の小鍋を持ってきた。まだ、この国では豆腐は貴重品だ。


「うわあ、豆腐だあ」

 ナミルは大喜びだ。スルギは侍女を「気が利いたものをありがとう」と労った。

「もう、遅いから、お休み。酔っぱらいの後始末は、こちらでどうにかするよ」


 スルギは豆腐をとりわけ、私に渡した。


「良いなあ、こう言う熱いものは。宮中では冷えてしまったものが多くて、いかん」

「なんすか、先生、めちゃくちゃうまいじゃないですか」

「気に入ったか。ほれ、もう一杯、お食べ」


 しばらく無言で、皆、豆腐の鍋を食べ、酒を飲む。それにしてもこの男、実にうまそうに食う。

 

「こんなうまいものを食わせていただけるなら、人殺し以外なら、なんだってやりまさあ」

「そうか、そうか。よろしく頼むよ、ナミル」


 夜が明けて私が邸を出るころになっても、ナミルが眠りこけていたのは、予想通りで当然と言えば当然だった。だが、この気の良い盗人あがりの男が、思いの外役立ってくれたのは、予想外の事だった。

 

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