新しい風・4
「資金が足りませんね」
そう言うと正邦様は苦笑した。
「随分稼いだようなのに、まだ足らんか」
「国中の然るべき所に灌漑用水路を作りたいですし、橋もまともなものが作りたいですし、子供らに文字の読み書きとソロバンを広めたいですし、まともな医者の数を増やしたいですし、もっとまともな翻訳官が必要ですし、もう考え出すとキリが有りません」
「美しく着飾りたい、とは微塵も考えて無さそうだな」
「いえ……そんな事も無いのですが……普段は忘れてしまっています」
「まあ、それどころではないか……こうして時折女装束のスルギを見るだけで我慢しよう」
苦笑なさってから、顔つきを改められてこうおっしゃった。
「世子侍講院傅の任命は、もっと遅らせようか? かねてからスルギが言っている様に、更に官位を上げるのは慎重な方が良いのかも知れんな。まだ成明が、学問をするわけでもないし、急いで皆に披露する必要も無いかも知れん」
正邦様は、領議政の金家と右議政の沈家がスキャンダルでおとなしい内に、私を世子侍講院の傅にねじ込もうと言うおつもりだったのは知っている。だが、余りにも官位の上昇が急で、反発を買うのではないかと私は心配だった。
一方で、成明に関する噂はだんだん広がっている。
「噂は広がっておりますね。世継ぎの王子は生まれたと」
「うむ。今日昼前に主だった連中が集まった折に、領議政が噂が本当かどうか訊ねたのでな。本当だと答えた」
「で、皆さん大騒ぎなさいましたか?」
「したが、当分どこの誰が生んで今どこにいるかは、明かせないと告げた。大王大妃様・大妃様は御承認くださり、出産の折も色々お心遣いいただいたことも伝えると、皆、静かになったな」
「私の事は、右議政あたりは何も言いませんでしたか?」
「かなり前になるが沈徳宣を目立たぬように呼び出して、庭で会った。その折、スルギが女である事を他言してはならんと念を押した。きゃつめ『大状元を勝れた臣として頼りになさっているのか、女子として愛しく思っておられるのか、どちらですか?』などと言いおった」
「どうお答えになりましたの?」
「頼りにもしているし、愛してもいる。毎晩共寝していると言ってやると、奴め、表情を変えおった。それから父や兄には、まだ自分の気がついたことは告げていないし、少なくともこれから先も自分からその秘密を口にする事は無い。だが、兄はひょっとしたら気がついているかも知れないと言いおった」
「気がついているんですか……やっぱり」
「さあな。沈徳宣の言葉は、一体どこまで信じて良いものやら、分からんがな」
後宮での学問所に、結局は翁主様方全員が入る事になった。
特に母親が降格された姫君に仕える者たちは、侮辱されたり馬鹿にされたりするような不愉快な事態を覚悟していたようなのだ。だが、案に相違して、皆で和気藹々と楽しい時間を持つ事ができている。私が最初に互いの母親・親族親類の悪口は厳禁で有ると言い聞かせたのが良かったらしい。
まだ授業には早すぎる年齢の元中宮の生んだ仁恵翁主も授業の後のお茶会には毎回参加している。そう。仁恵翁主の場合、母親が中宮位を追われた途端に称号がこれまでの「公主」から切り替えられてしまった。幼いながらもその変化を肌で感じている節が有る。
「翁主、公主の区別無く、同じ王様の姫君として、上に立つものとしての責任感と公明正大さと広い視野と豊かな教養とを持って欲しい」と言う基本方針は、皆に受け入れられたようだ。
「あの学問所の効果は思いのほか大きいようだな。スルギが皆を公平に扱うのが良いらしい」
「大人の世界の嫌なあれこれを、次の世代まで持ち越したくは無いと思うのです。恨みは時折、非常な強い動機付けとなって、人を向上させる事も有るでしょうが、幸せにはしませんから」
「恨みなあ。本人にはどうにも出来ぬことで、生まれながらに卑しめられる者の恨みは大きいだろう」
「恨みが強そうな人間も、用いようによっては、恨まずに明るく働いてくれそうにも思いますが……ただでさえ有能な人材は少ないので、もう一つ考えている事があるのですが……聞いてくださいますか?」
「いつもスルギの話はちゃんと聞いているぞ」
確かにそうなのだ。普通の士大夫的教養の世界に生きる人間なら、銭金の話をしただけで「汚らわしい」とか言うはずだ。だからって、いらないわけじゃないのに。むしろ国家の運営には不可欠なのに。儒学、それも特にこの国の国教とも言うべき朱子学が、もともと商業活動を卑しんでいる弊害は大きい。そんな国でスムーズに私の考えている事が実行できるのは、前世の記憶が多少なりとも正邦様の中に存在し、実学軽視がこの国の産業全体を古代のレベルのままに止めている元凶だと御存知だからだろう。
「ありがとうございます。あの……科挙の応試の機会が無い士大夫の庶子を、せめて雑科では差別しないで機会を与えてやってはいかがでしょうか? この国に不足しているのは、実学的な見識と素養を持った人間だと思います。特に医者は、地方への派遣も考えると、今のままでは数が少なすぎます。経理や算術、翻訳の専門家は役人にはなれないかもしれませんが、試験合格者は私とヤンホ兄さんが立ち上げる予定の『会社』で使うことができるかも知れません」
全面的な庶子への差別撤廃が望ましいが、この国では建国以来根付いた差別で、すぐに解消しようとあせると、思わぬ反発を食らうだろう。正邦様の立場まで危うくするわけには、行かない。どの程度の差別緩和策なら、頭の固い朝廷の連中にも受け入れさせる事が出来るのだろうか?
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